1.休んでも疲れがとれない
父が亡くなって早くも一ヶ月以上の歳月が流れ、事務上の手続きなども少しずつ進んで来ました。また、父のいなくなった実家の雰囲気も少しずつ落ち着いて来たかのように思えます。そんなわけで、張りつめていた緊張が解けてきたせいでしょうか、最近、とても疲れやすくなって、立っているのも辛いようなときがたびたびあるようになりました。それはどうも、私だけではなく家内も同じような感じなのです。ふだんなら、こんなとき少し休みを取れば、なんとか体調も回復するのですが、それがそうならないのです。横になれば、疲れがとれるのではなく余計だるくなって動けなくなるようなことが起こります。どうも、この疲れは身体的なものでなく、心理的なものなのかもしれないと思い始めています。
茨城の実家を毎週のように訪問するようになった事情、またそれにともなって様々な生活環境の変化が起こりました。「なんとかちゃんとしなければ」と言う焦る気持ちも重なって、それが心労に変わり、おそらくこのような体の変化をもたらしているのかもしれません。
私たちには休息が必要なときがあります。しかし、どんなに仕事を休んで、山里の温泉にでかけて見ても癒されない疲れがあります。そんな私たちを本当に癒してくれるものは本当にあるのでしょうか。
2.中止になった休息
私がこんな話を最初にするには訳があります。私たちが今日読んでいる聖書の箇所を理解するためには、まずこのときに大変な疲れを覚えて、休息を必要としていた弟子たちの状況を理解することが大切だからです。このルカの福音書には省略されていますが、同じ出来事を報告しているマルコによる福音書は、今日の物語のきっかけについて次のように説明しています。
「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた」(マルコ6章30〜33節)。
実はこの出来事の前に弟子たちがイエスによって宣教旅行に遣わされる記事が記されています(マルコ6章6〜13節)。この旅行は杖一本の他はお金も着替えも持って行ってはならないという条件がつけられた厳しい旅でした。もちろん食べ物も持って行ってはなりません。そんな厳しい旅から帰ってきた弟子たちに、イエスは「しばらく休みなさい」と言って、彼らを人里離れた所に向かわせたのです。そして弟子たちはそこで久しぶりに休息が与えられ、ゆっくり食事を取る機会をあたえられるはずだったのです。
ところが現実はそう簡単には行きません。彼らが目的地にたどり着く前に、群衆が先回りしてイエスを待ちかまえていたのです。ですからとうぜん、弟子たちもその騒ぎの渦中に巻き込まれることになります。本来なら群衆を避けて、自分たちの休息をとれるようにすべきでしたしかし、イエスはこれらの群衆に対して「神の国について語り、治療の必要な人々いやしておられた」(11節)と言うのです。
私の先輩の牧師は「海外旅行をするために飛行機に乗り、その飛行機が空港を離陸した途端、心に言い尽くすことのできない平安が訪れるのだ」と言っていました。「これで電話に出なくてもいい」と思うからだそうです。確かに、今日はゆっくり休もうと思っているときに、いきなり教会に電話がかかってきて、突然複雑な問題の中に引きずり込まれると言う体験を私たち牧師はよくいたします。最近は携帯電話が発達しましたから、山奥の温泉に行ってもそんな電話で現実に引き戻されることが起こります。そんな電話から解放される。それは私たち牧師にとっては喜びのときになるのかもしれません。しかし、私たちの主はご自身の疲れをも忘れて、神の国の福音を教え、病気で苦しんでいる人を癒すためにここで働かれたと言うのです。
イエスが計画した休暇旅行はここで全く失敗に終わってしまったかのように思えます。弟子たちは果たしてこのときどんな気持ちになったのでしょうか。
3.休ませないイエス
(1)休めない弟子たち
確かにイエスは自分の意志で休息を返上し、働いておられるのですから納得いくのですが、それではイエスに「休みなさい」と言われて、舟に乗り、てっきり「これで休めるぞ」と思っていた弟子たちはどうだったのでしょうか。実はこの弟子たちはイエスによってこの物語に引きずり込まれて、挙げ句の果てには休みを取ることができないと言う状況に追い込まれてしまいます。それでは果たして弟子たちに「休みなさい」と語ったイエスの言葉は一時の気休めを与えるようなものでしかなかったのでしょうか。
聖書によればこのときイエスと弟子たちを取り囲んでいた群衆は男性だけでも五千人はいたと記されています(15節)。当時のユダヤの習慣ではこのような場合、女性や子供の数は勘定にいれないことになっていました。ですから実際には、五千人を遙かに超えた人たちがここに集まっていたことになります。時刻はすでに「日が傾きかけた」(12節)夕刻となっていました。このままでは大群衆が何もないところに野宿をすることになってしまいます。これを心配した弟子たちはイエスにこう進言しています。
「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」(12節)。
弟子たちはこのままでは大変なことになると判断しています。彼らの周りに集まった人々にも休息を取ることができる場所と食事が必要です。そして、今彼らがいる「人里離れた場所」にはその必要を満たすものが何一つ備えられていないのです。しかも、彼らはこんなに多くの群衆を一度に世話する力を自分たちは持っていないと考えていました。ですから、彼らは群衆がここで解散して、各自で自分の必要を満たすべきであると提案したのです。おそらく、この弟子たち提案は、誰もが納得する常識的な判断だったと言うことができます。ところがイエスは意外な命令を弟子たちに語るのです。
(2)あなたがたが与えなさい
「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(13節)。このイエスの言葉によって、弟子たちはこの物語の中心に導かれます。自分たちは関係がない、誰かがそれをすべきだと考える弟子たちに、イエスは「あなたがたがしなさい」とここで呼びかけているのです。そしてイエスはこのような呼びかけをイエスを信じる私たちにも語りかけられるお方なのです。
私たちの教会の尊敬する神学者の一人ジャン・カルヴァンはフランス人でありながら、当時のフランス国王のプロテスタント弾圧の被害に遭い、スイスへの亡命生活を強いられました。もともと、カルヴァンは聖書や神学についての研究家であり、その著述家としての道を歩んでいました。彼はスイスのバーゼルと言う町に赴いて、そこで中断していた神学研究を続けるつもりで旅に出発しました。ところが、その旅の途中、同じスイスのジュネーブと言う町にたまたま立ち寄ることとなりました。するとカルヴァンはその町の教会の改革を進めていたファレルと言う人の訪問を受けます。ファレルはカルヴァンの著述を読んで、彼の宗教改革者としての才能を高く評価していようなのです。そこでファレルはカルヴァンにこのジュネーブにこのまま留まって、自分たちと共にジュネーブの町の教会改革のために働いてほしいと語るのです。しかし、カルヴァンはたまたまバーゼルまでの旅の途中にこのジュネーブの町に立ち寄っただけであって、彼の計画は全く別なところにあったのです。ファレルの申し出を断ろうとするカルヴァンはファレルに「神様はあなたがこの町のために働くことを望んでおられる。もし、この願いをあなたが拒否すればあなたは神様の厳しい罰を受けるだろう」とまで言われてしまいます。カルヴァンはファレルの脅迫に屈したと言うよりは、ファレルを通して彼に語りかけた主イエスの「あなたがしなさい」と言う言葉を聞いたのかもしれません。結局彼は、このジュネーブの町のために残された生涯を献げることになりました。
私たちもそれぞれ自分の人生のために計画を持っているはずです。計画のない人生は空しく、また危険なものでもあります。しかし、私たちはその一方でいつでも主イエスの「あなたがしなさい」と言う命令に聞き従う信仰の姿勢を持ちたいと思うのです。なぜなら、この主イエスの命令は私たちを困らせるために与えられるのではなく、そこで主の恵みを私たちが十分に味わうことができるために与えられるものだからです。
4.イエスの力
(1)イエスに献げる
ここで登場するのが五つのパンと二匹の魚です。同じ物語を伝えるヨハネ福音書にはこのパンと魚は一人の少年が持ってきたものだと言うことを記録されています(6章9節)。しかし、私たちが読んでいるルカによる福音書では完全にこの少年の存在は消えています。ルカが大切と考えたのは、このパンと魚が誰によってもたらされたかと言うことではなく、誰がそのパンと魚を受け取ったかと言うことだからです。
「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」(16〜17節)。
弟子たちがこのパンと魚についてイエスに語ったきっかけは、「自分たちが持っているものはわずかにこれだけです。問題の解決には何の役にも立たちません」とイエスを納得させるためでした。しかし、人の目には何の役にも立たないようなわずかな食物がイエスの手を通して配られるときにそこに集まるすべての人々の空腹を満たし、余ったパンくずが十二の籠に一杯になるほど豊かな力を持つものにされたという奇跡がここでは起こっています。もし、イエスの手を経なければ五つのパンと二匹の魚はそのままで、何の役にも立たなかったでしょう。しかし、イエスはその食物を群衆のすべての空腹を満たすために十分に用いたのです。ここではパンや魚の数が問題なのではありません。それを献げた人が誰であるかも問題ではないのです。むしろどのようなものであっても、それをふさわしい形で用いることのできる主のみ業の素晴らしさが示されているのです。ですから私たちの献げるもの、また私たち自身の命を用いてくださるのはこの主イエスであることを忘れてはならないのです。たとえ、それが私たちの目には問題を解決するために何の役にも立たないように見えたとしても、私たちはそれをイエスに献げ、自らも神様に献身することが大切であることをこの物語は教えているのです。
(2)イエスだかが与えることのできるもの
この物語の後、群衆がイエスを自分たちの王にしようとしたことが別の福音書には記されています(ヨハネ6章15節)。それは明らかにイエスを誤解し、イエスのみ業を正しく理解しようとしない誤った反応でした。彼らはイエスを自分の欲望を満たすための手段としようとしただけなのです。それではこのイエスの奇跡の物語に対して私たちにはどのような反応を示すことが求められているのでしょうか。このすぐ後でイエスは弟子たちにイエスこう問うています。「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」(18節)。そしてその質問の後、今度は言葉を換えてこう問います。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(20節)。そしてこの質問に対して弟子のペトロは「神からのメシアです」。「あなたこそ神様が遣わされた救い主です」と告白しているのです。
この奇跡はイエスが私たちを罪から救い出して、私たちに真の命を与えるために神の元から遣わされた救い主であることを示しています。そして私たちにはその事実を理解することが求められているのです。
もちろん、私たちの生活に必要なすべてのものは神様が私たちのために与えてくださるものです。しかし、この物語の内に記されているように、イエスの手から渡され、それをイエスの弟子たちが分配する形でしか、私たちに伝えられないものがあるのです。それは私たちがこのように毎週の礼拝で、また毎日の信仰生活を通して与えられるものです。それはイエスによって、そして教会によってしか人々に伝えられることができません。そしてそれはイエスが与えてくださる救いであり、その救いが私たちを罪と死から解放し、私たちに真の命を与えるものなのです。
確かに、この物語では予定が変更されて、弟子たちは休息を取ることが許されなくなってしまっています。しかし、この物語でイエスは私たち人間が生きるために本当に必要なものを示してくださっているのです。それは体を休める一時的な休息ではありません。私たちは休息してもすぐにまた疲れ、やがては死を迎えます。イエスは私たちに救いを与えてくださるのです。そしてイエスこそ私たちを疲れ果てさせ、倒してしまう罪と死から私たちを永遠に解放してくださる救い主であることをこの物語は私たちに示そうとしているのです。
【祈祷】
天の父なる神様
私たちは疲れ果て、倒れ、何も出来なくなってしまうことが度々あります。その私たちにあなたは肉体の休息を与えてくださいます。そしてそればかりではなく、この日曜日ごとに、福音を私たちに示すことであなたの救いを私たちに明らかにし、私たちを罪と死の運命から解き放ち、豊かな命の世界へと私たちを導いてくださいます。私たちが私たち自身をあなたに献げることで、この豊かな命に日々あずかることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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