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礼拝説教 桜井良一牧師
「わたしに従いなさい

(2007.06.24)

聖書箇所:ルカによる福音書9章18〜24節

18 イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
19 弟子たちは答えた。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます。」
20 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」
21 イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、
22 次のように言われた。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている。」
23 それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。
24 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。

1.私たちの人生にとって大切な問い

 今日の箇所ではイエスの「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と言う問いに答えて弟子のペトロが「神からのメシアです」と答える内容が紹介されています。そしてこの問答を中心として、それではそのメシアはどのような方であり、そのメシアを信じる者たちはどのように生きるべきなのかと言う教えがイエスの口から続けて語られています。
 この物語と同じ内容を紹介しているマタイによる福音書(16章13〜20節)では、イエスはこのペトロの答えに喜んで、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と語られたことが紹介されています。
 イエスをメシア、つまり救い主と告白する行為はこのイエスの言葉の通り大変重要なもので、私たちの教会はこの告白を基礎にして建てられているとまで言うことができるのです。教会に集う私たちはそれぞれ違った生活を送っています。しかし、どんなにそれが違っていても教会に集まる私たちは「イエスが救い主である」と信じることでは全く同じなのです。もし、この告白を共有していなければ、その人はいくら教会の交わりの中に参加していても、本当の意味で教会には属しておらず、天国の鍵もその人にはあたられていないことになるのです。
 そのような意味で「イエスとは誰か」と言う質問に答えることは私たちの人生にとって最も大切なことであると言っていいのだと思います。

2.イエスの祈りに支えられて
(1)私たちへの問い

 今、私たちはこのペトロと同じ告白をした上で教会の交わりに参加していると言いました。私たちの教会で洗礼を受けられた方、また私たちの教会に転会された方は、その際に6箇条の誓約をされていると思います。その中に「あなたは、主イエス・キリストを神の御子また罪人の救い主と信じ、救いのために福音において提供されているキリストのみを受け入れ、彼にのみ依り頼みますか」と言う誓約の箇条があったと思います。そしてこれは全くこのペトロの信仰告白と同じ意味を持った言葉となっているのです。だからこそ私たちは、ペトロの信仰告白に続けて語られるイエスの言葉も同じような信仰告白をしている私たちに語られているものであると考え、その言葉に耳を傾ける必要があるのです。

(2)私たちの信仰を支える祈り

 ただそのことを考える際でも私たちが忘れてはならないのは、今日の箇所の導入部分に記されている「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた」(18節)と言う出来事です。このときイエスは祈っておられたと聖書は記しています。同様な文章はイエスが12人の弟子を選ばれたときにも登場します。「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って世を明かされた」(6章12節)。イエスは12人の弟子を選ばれるとき、またその弟子たちが大切な信仰の告白をされると必ず神に祈っておられるのです。それではこれはどのようなことを私たちに教えているのでしょうか。
 私たちは信仰と言うのをうっかりすると私たち自身が努力して行う行為と勘違いしてしまうことがあります。「私が信じ、従っている」、そう考えてしまうのです。確かに私たちの信仰生活はそのように見えるところもあります。しかし、そのとき私たちは私たちのために祈るイエスの姿を忘れてしまっていないでしょうか。私たちがイエスを信じることができること、またこのイエスに従うことができるのは、私たちの意志の強さや、私たちの力によるものではないのです。私たちのために祈り、それを実現してくださる主イエスのみ業が私たちの上に働いてくださるからこそ、私たちはこのように神の信じ、従うことができるのです。ですから、私たちの信仰のために祈るイエスの姿を忘れるなら、私たちの信仰は大変不安定なものになります。また、私たちの信仰生活に不安と焦燥感を与え、そこから本当の祝福を受けることができなくさせてしまうのです。

3.イエスとは誰か

 さて、イエスはこの祈りの後、弟子たちに向けて「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」と尋ねられています。先日、私たちが学びましたようにこの前の箇所では、イエスが五つのパンと二匹の魚から5千人(それは男性だけの人数)以上の人々の空腹を満たされたと言う出来事が記されています。そのとき、この出来事はイエスが救い主であると言うことを信じるために行われたものだと言うことを私たちは学びました。神様が救い主イエス・キリストを通して私たちに与えてようとしてくださるものは、食べてもすぐに空腹になってしまうようなこの世の食べ物ではなく、私たちを永遠に生かすことができるものなのです。それをイエスは私たち罪人に与えてくださるために神様の元から遣わされたのです。しかし、この奇跡を経験した群衆は、そのことを理解することができません。彼らはイエスを自分たちの王として、自分たちの生活の問題、空腹の問題を解決する手段として用いようとしたのです。
 実はこの物語の前には領主ヘロデ(イエスの誕生物語に登場するヘロデ王の息子)がイエスについて抱いた疑問が紹介されています(7〜9節)。ガリラヤの領主ヘロデは当時、その地域で大変に評判になっているイエスの噂を聞き、彼がいったい誰であるかと言うことに関心を抱きました。なぜなら、イエスについての噂の中には「(洗礼者)ヨハネが死者の中から生き返った」と言うものまであったからです。洗礼者ヨハネはこのヘロデによって牢に捕えられ、そこで首を切られてしまっています(マルコ6章14〜29節)。そのヨハネの首を確かに確認していたヘロデにとって、ヨハネが生き返るなどということは決して信じることができません。それにもし、ヨハネが生き返ったとしたら彼を酷い目に遭わせた自分をただで見逃す訳はありません。彼はそのためにイエスが何者であるかに非常に関心を抱いたのです。しかし、彼の関心は群衆と同じように自分を満足させるもの以外ではありませんでした。彼はイエスが神から遣わされた救い主であると言うことには全く関心を持っていなかったのです。この後、ヘロデはイエスが十字架にかけられることになったときに、初めて彼と面談しています。しかし、イエスはこのときヘロデの問いに一切、答えることがなかったと言うのです(23章6〜12節)。
 先日、あるところで「プライオリティー」と言う言葉に出会いました。いろいろな意味を持った言葉なのでしょうが、そこでは人生の優先順位と言った意味でその言葉が紹介されていたと思います。私たちが普段の生活で何を第一に考え、優先しているのかと言うのがここでは問題となるのです。実は聖書の中に示されているイエスについての関心はみな、その人がもつプライオリティーが見事に繁栄していると考えることができるのです。
 群衆はあくまでも自分たちの飢えの問題、生活の問題を第一と考えていました。ですから彼らはイエスをそのような自分たちの要求を満たすためにやって来られた方と考えようとしたのです。またもう一方の、ヘロデはあくまでも自分の領主としての地位を第一と考えていました。そのためにその地位を脅かす存在を彼は許すことができませんでした。ですから彼が洗礼者ヨハネに手をかけたのも、また同様にイエスの存在が気になるのもヘロデがそこに自分の優先順位を置いていたからなのです。

4.弟子に求められる者
(1)弟子のプライオリティー

 これらの人々と違いペトロと他の弟子たちはイエスに対して「神からのメシアです」と言う告白をしています。するとイエスはこの告白をした弟子たちに次のような勧めを語ります。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(23節)。

 イエスに従おうとする弟子たちには相当な覚悟が求められていると言うことがここでは語られているように思えます。イエスに従う者は自分を捨て、自分の十字架を背負うべきであるとイエスは語っておられるからです。少し難しい言葉ですが、ここには同様にイエスに従う弟子のプライオリティーが語られていると言っていいと思うのです。イエスの弟子たちにとって最も優先すべきことは「イエスに従って生きること」であると言うことが強調されているのです。
 もし、「自分はイエスの弟子である」と言っている人がいても、この優先順位が何か別のところにあったらどうなるでしょうか。群衆はイエスが自分たちの生活を楽にさせるためにやってきた方ではないと知ったとき、その関心は失ってしまいました。また、ヘロデはユダヤ人に逮捕され、何の力もなく佇むイエスの姿を見て、彼が自分の地位を奪うような人物でないことを知り、同じようにイエスに対する関心を失っています。
 イエスを信じて生きる私たちの信仰生活では様々な困難が起こります。その困難に出会ったとき、プライオリティーがイエスに従うことに置かれていない人はそれ以上、信仰生活を続けることはできなくなってしまうのです。

(2)どうして日曜日に礼拝に行くのか

 このイエスの言葉は一見私たちの日常の信仰生活とはかけ離れた難しい言葉のように聞こえます。しかしこの言葉は私たちの信仰生活に直接に関係してくる大切な言葉だと言えるのです。それはこの日曜日に私たちが守っている礼拝にも深く関係してくるのです。
 私たちは一週間の初めに教会に集まり、神様に礼拝を献げます。それはどうしてでしょうか。私たちのプライオリティー、人生の優先順位が神様に置かれているからです。たとえば、皆さんが日曜日に教会に出かけようとすると、庭仕事をしている近所の人に出会い「どちらにお出かけですか」と声をかけてくれることがあると思います。そこで私たちが「これから教会に行って、礼拝に献げるところです」と答えます。すると中には「それは結構なご身分で」なんて言われることがあるのです。確かに私たちは今、イエスによって神の子とされているのですから、「結構なご身分」にされていることは間違いありません。しかし、このような答えが返ってくるのはやはり人生の優先順位、プライオリティーがその人と私たちとの間では違っているからだと言えるのです。その人はたまの休日にきれいに庭を掃除し、家を整えることが大切だと考えているのかもしれません。しかし、私たちはいくら自分の部屋が汚くても、その朝ご飯を食べる時間がなかったとしても、日曜日の礼拝に駆け付けつけることを忘れません。もちろん、そんなことがないように私たちは事前に計画を立てて、支障が起きないように礼拝に出席します。しかし、この場合も私たちの優先順位は神様を礼拝することにあるから、その計画を立てることができるのです。
 ここでイエスは弟子たちに自分たちの人生の優先順位を「自分に従う」ところに置くべきであると教えているのです。

5.イエスによって明らかになった神の優先順位

 さてイエスはこのような勧めを弟子たちに語る前に、次のような言葉を語っています。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(22節)。実はイエスを「神からのメシア」と告白することができた弟子たちも、まだそのメシアが何をされるためにこの地上に来て下さったのかを理解してはいなかったようです。もし彼らがこのことを知っていたなら、イエスが逮捕され、十字架にかけられたときに彼らはあんなに混乱することはありませんでした。しかし、彼らはメシアが苦しみ、殺され、復活される方であると言うことをまだこのときには理解していなかったのです。
 しかし、このことを理解することはイエスの弟子として生きる私たちにとって決して、軽視されてはならない大切なことなのです。なぜなら、このことを通して「どうして私たちがイエスに従うことを第一と考え、そのために生きるべきなのか」と言う問いへの答えがはっきりとしてくるからです。
 当時の人々は「人の子」と呼ばれるメシアがダニエル書などの預言の通りに雲に乗ってやってきてこの地上を裁かれる栄光のメシアの姿を想像していたと言われています。確かにこの救い主の姿はそのまま新約聖書ではヨハネの黙示録などに引き継がれています。つまり、イエスが再びこの地上に来られるとき、ダニエル書の預言する人の子の姿は実現されると言っているのです。しかし、一方で旧約聖書はイザヤ書に代表されるように私たちのために苦しみ、命を捧げるために遣わされる救い主の姿をはっきりと預言しているのです。
 当時の人々がこの救い主のもう一方の姿を理解することができなかったのは、どうして救い主は苦しみ、死ぬ必要があるのか、その理由を理解することができなかったからです。神の優先順位はあくまでも自分の正義を貫くことであり、その正義に見合わない全ての存在を滅ぼすこと、そのために救い主は遣わされると当時の人々は考えていたのです。しかし、実際の神の優先順位はそれとは全く違っていたのです。確かに、神の正義は貫かれました。なぜなら、その正義の裁きは苦しみ、殺される救い主イエスの上に実現されたからです。しかし、それだけではありませんでした。このメシアによって本来、真っ先に滅ぼされてしかるべき、私たちが神の子とされ、永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。このように神の御心はこのイエスのみ業を通して豊かに現わされたのです。神はご自分が最も大切とされるべき御子イエスの命に代えてまで私たち罪人が救われることを望まれたのです。このイエスによって神の優先順位は、神のプライオリティーは私たちに置かれていることが分かるのです。私たちを救い、生かすために神は救い主イエス・キリストを私たちに遣わされたからです。
 どうして私たちはイエスに従うことを第一とし、神を礼拝して生きることを第一とすべきなのでしょうか。それは神様が私たちを第一と考え、私たちのために愛する御子イエス・キリストを遣わしてくださったからです。ですからここに語られるイエスの勧めは、神に第一とされた私たちがその喜びを表わす道を教えていると言えるのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 罪を犯し滅ぶべきだった私たち、あなたの前では全くの無価値な存在と思えるような私たちを第一と考え、その私たちを救い、生かすために御子イエス・キリストを救い主として遣わしてくださったあなたの御業に驚きを覚えます。御子の命に替えてまで、私たちを大切にしてくださったあなたの御心に不思議さを、今、私たちは福音を通して僅かに悟りつつあります。私たちもまたあなたを第一と考え、聖霊の力によって信仰生活を送り、あなたに従うことができるように導いてください。主の御名によってお祈りいたします。アーメン。

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