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礼拝説教 桜井良一牧師
「72人の弟子を派遣する」

(2007.07.8)

聖書箇所:ルカによる福音書10章1〜12節

1 その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。
2 そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。
3 行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ。
4 財布も袋も履物も持って行くな。途中でだれにも挨拶をするな。
5 どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。
6 平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。
7 その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。
8 どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、
9 その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。
10 しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。
11 『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。12 言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」

1.72人の任命
(1)イエスによって始められた世界宣教

 今日の聖書の箇所ではイエスによって72人の弟子たちが宣教の旅に派遣されています。ここで「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」と記されているように、イエスはこの72人以外の「ほか」の弟子たちをすでに派遣されていたことが前提として語られています。
 このルカによる福音書では9章で12人の弟子の派遣が語られていますから、「ほか」とはその弟子たちのことを指しているのかもしれません(1〜6節)。イエスはこの12人に続いて、再び新たに72人の弟子たちを宣教旅行に派遣されたのです。この72人の派遣はルカによる福音書だけが記している記事です。ルカはイエスが何度も弟子たちを宣教のために派遣したことを記しているのです。
 大変に興味深いのはここに登場する「72人」と言う弟子たちの数です。実はこの数、他の聖書の翻訳では70人となっているものもあります(文語訳)。実は聖書の写本には「72人」と「70人」の二つの種類のものが存在するのです。ところでこの72、あるいは70の数の意味なのですけれども、創世記10章にノアの家族から別れていった全世界の民族の名前が記されているところがあります。この数がヘブル聖書では70、そしてそのヘブル語聖書を翻訳したもので、新約聖書の時代に人々がよく読んでいたであろうとされるギリシャ語訳聖書では72になっていると言うのです。つまり、ここに記された72,あるいは70という弟子たちの数は聖書が教える世界の民族の数に呼応していると考えることができるのです。
 この福音書を記したルカはこの書物に続いて、使徒言行録と言う文書を記しました。この使徒言行録にはイエスの弟子たちによって始められた世界宣教の働きが記されています。福音記者ルカはおそくこの弟子たちによる世界宣教の根拠が、このイエスによる弟子たちの派遣から始まっていることを明らかにしようとしたのです。このイエスによって始められた世界宣教は、さらに大きな拡大を見せ、この日本に住む私たちもイエスの福音を聞くことができるようにされています。世界のすべての人々がキリストの福音を聞くことができる根拠をルカはイエスによる弟子たちの派遣にあることを福音書の読者たちに教えているのです。

(2)宣教の働きを導くイエスのみ業

 先日、この教会にヤング宣教師をこの日本に派遣している北アメリカキリスト改革派教会の海外宣教部のアジア・ヨーロッパ主事が訪問してくださいました。その方と食事を共にしながら私は、私たちの日本キリスト改革派教会が今から60年前に「ウエストミンスター信仰規準に従った、聖書的教会を立てる」と言う思いによって始められたこと、そして、創立者たちはその当時の有力なキリスト教会の指導者たちに「そんな小さな教会はすぐにつぶれてしまう」と言われたことを説明しました。最初に日本キリスト改革派教会の創立に加わったのはわずかに9人の牧師と3人の長老でしかなかったからです。
 その話をしましたら、その主事は「自分たちのアメリカの改革派教会も150年前に始まったとき、4つの教会しかなかった」と説明されました。その上で私たちの教会が日本に置いても、アメリカに置いても今でも伝道を続けることができるのは、イエス・キリストが私たちに聖霊を遣わし、働いてくださっている証拠であると言うことを私たちはその席で改めて確認し合うことができたのです。このような意味でイエスによる弟子たちの派遣は今も続き、その働きを主は聖霊を送って支えてくださっていると言えるのです。

2.求められる収穫のための働き手

 さて、今から宣教の旅に出発しようとする弟子たちに向かって、イエスは大変に面白い祈りの課題を彼らに与えています。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(2節)。
 これから弟子たちは派遣された場所でどのような活動をするのか。果たしてその働きは、どのような成果をもたらすのか。イエスの心配はそんなところには全くありません。イエスは「収穫は多いが、働き手が少ない」と語るのです。なぜならば、派遣される弟子たちは「収穫のための働き手」にすぎないからです。その収穫のために種を蒔き、日光を与え、雨を降らせて、作物を育て、豊かな実りをもたらせてくださるのは神様ご自身のみ業なのです。神様は豊かな実りを私たちのために既に準備してくださっている。だからこの収穫のために更に多くの働き手が送られるように祈りなさいとイエスは教えられているのです。
 南の島に二人の靴のセールスマンが商売のために派遣されました。島に着いて、その島の住民の足下を見てすぐに一人のセールスマンは本社に連絡を送りました。「たいへんです。この島の人々は誰も靴を履いていません。こんなところでは靴は一足も売れるはずがありません」。しかし、もう一人のセールスマンは同じ島民の姿を見た後、別の報告を本社に送りました。「たいへんです。この島の人々は誰も靴を持っていません。できるだけたくさん靴を送ってください。これではすぐに準備した靴が足りなくなってしまいます」。
 イエスは私たち一人一人を宣教へと派遣した上で、さらにたくさんの働き手が送られるように神様に祈りなさいと言われるのです。なぜなら神様が豊かな収穫を私たちのために準備されているからです。

3.使命を果たすためには

「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」(3節)。

宣教の旅と、その働きには困難がつきまといます。それは「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」とイエスは語るのです。凶暴な狼の群れに、なんの力もない無防備な小羊が送り込まれるようなものなのです。普通なら、「その困難に耐えうるいろいろな準備をして行きなさい」と言うのが当然ですが、イエスは弟子たちにそのようなことを語ってはいません。その代わりに「財布も袋も履物も持って行くな」と言うのです。「その旅のために何も準備しなくてよい、むしろ余計なものを持っていくな」とイエスは弟子たちに指示したのです。ここのところは先に12人の弟子たちを遣わされたときにも同様な指示がイエスによって出されています(9章3節)。
 面白いのはこれに続くイエスの指示です。「途中でだれにも挨拶をするな」(4節)。そしてこの後にも細かな指示が記されています。いったいこのような指示にはどのような意味があるのでしょうか。一番の理由は委ねられた使命のために私たちが他のことに心を砕くことなく、それに集中するように勧めているのです。
 皆さんはどうでしょうか。私はよく、自分の部屋に必要な本を取りに行ったのに、たまたまその部屋の窓が開いているのに気づいて「雨が降りそうだから、窓を閉めない」と考え、窓を閉めて安心してしまうことがあります。そのとき「さて自分は何のためにこの部屋に来たのだろうか」と思うのです。自分の行動の最初の目的をすっかり忘れてしまうのです。
 用事のために出かけると道でたまたま、友人と出会い、挨拶を交わし、長話をする。気づいてみるとそろそろお昼なので、家に帰ってお昼ご飯の準備をする。そのときにふと思い出す。「さて、私は何のために出かけようとしたのかしら」と。人間というのは一度にいろいろなことを考えるのが苦手にできています。何かを思い出せば、何かを忘れるのです。しかし、私たちが忘れてはいけないことがあると言うのです。それは私たちに向けられた主イエスの命令です。私たちはイエスによって宣教の旅と活動に派遣された弟子たちなのです。そのために他の部分に心を砕くことは禁物であることをイエスはここで語っていると言えるのです。

4.働きを保証する神の報酬

「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな」(7節)。
 昔、台湾の山岳民族に伝道をしていた婦人宣教師の報告を聞いたことがあります。そこで現地の人が出してくれるご馳走は、とても日本人の自分からはご馳走に思えず、なかなか食べることができなかったという話を聞いたことを思い出します。出されたものをそのまま食べられるかどうかは別として、ここで重要なのは「働く物が報酬を受けるのは当然だから」と言うイエスの言葉です。この言葉は弟子たちが心配せずにその働きに従事できる保証を語っています。なぜなら必ず神様は宣教のために働く弟子たちに報酬を準備されているからだと教えるのです。神様はその報酬を行く先々の人々の手を通して、弟子たちに与えてくださるのです。
 私たちは今、教会設立と言う課題に向かって歩んでいます。これもまた同じようにイエスの宣教命令に答える行為であると言えます。なぜならば、私たちがそれぞれに与えられた賜物と力をもってこの東川口の地に教会を立て、宣教活動の一端を担うことになるからです。しかし、その働きを支え、保証してくださるのも、この神様のみ業であることを覚えることが大切です。
 やがて、何十年か後、今日この礼拝に集められている私たちのほとんどいなくなっているかもしれません。しかし、そのときにも私たちが設立した東川口教会は伝道を続け、そこにたくさんの人々が集まって神様に礼拝を献げていることを想像することはどんなに楽しいことでしょう。そのとき、教会設立に携わった私たちの名前を覚えている人はもしかしたら誰もいなかもしれません。しかし、そこに集まる人は必ずこう考えるはずです。「神様がこの東川口の地で働いてくださった。だから私たちの教会はここにあり、今自分たちはここで礼拝を献げることができる」と。私たちの小さな働きが、やがて「神様の働きであった」と呼ばれる日がやってくるのです。それはどんなに幸いなことでしょうか。宣教を支えるのは神ご自身のみ業です。ですから私たちはこの神様に信頼して、与えられた任務を遂行することが大切なのです。

5.私たちの喜びの根拠

 最後に今日の部分との関係からこの朗読箇所から離れますが17〜20節の物語にも目をとめたいと思います。ここではイエスに派遣された72人が宣教旅行から帰還し、その報告をしたことが記されています。弟子たちはここで感動を持って次のようにイエスに報告します。「主、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」(17節)。彼らは自分たちの働きがそこで豊かに祝福されたことを報告しているのです。ところがこの弟子たちにイエスは次のような言葉を語りかけています。「しかし、悪霊があなたたがたに屈服するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」(20節)。弟子たちの宣教活動はまだ始まったばかりです。弟子たちは初めての旅での大きな成果を報告し、それを喜びます。しかし、その活動は今始まったばかりなのです。そしていつも、自分たちが期待するような大きな成果をものではありません。ですからイエスは弟子たちに喜びの根拠をそこに置いてはならないと教えているのです。
 先日、水曜日の基本教理の学びで世の終わりに起こる、神様の審判について学びました。神様はやがてこの世界のすべてのものを審かれます。そのとき私たちも、その審きの座に立たなければならないと聖書は教えています。地上では隠し通すことができた罪でさえも、そこではすべて明らかにされ、厳しい審きを受けるときが必ずやって来ると言うのです。私たちの犯したすべての罪がそこで明らかにされます。しかし、その審きの座でそれだけではなく、更に明らかにされることがあると聖書は私たちに教えているのです。それは私たちの犯した罪のすべてがイエス・キリストを通してすべて赦されていると言う救いの恵みの事実です。イエスが十字架で流された血の値によって、私たちの犯した罪は全て赦されているのです。イエスを信じて生きる私たちはその審きの座でこの罪の赦しをはっきりと確信することができるのです。ですから「主の約束は本当だった」と言う喜びで満たされる日こそが、私たちにとっての審きの日と言えるのです。
 「むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい」。この言葉はそれと同じことを言っています。既に天に自分の名前が記されている。イエスの救いによって罪赦されて、神の子とされていること、それはやがて最後の審きのときにはっきりします。しかも、イエスを信じる私たちはそのことを今既に、福音を通してはっきりと知らされている。だからそのことを喜びなさいとイエスは私たちに教えているのです。
 「人生谷あり、山あり。そして最後にはどうなるか分からない」。それが私たちの人生ではありません。そうではなく「人生谷あり、山あり。しかし、最後には神様の豊かな恵みにあずかることがはっきりしている」。それが私たちの人生なのです。イエスは私たちの喜びの根拠をここに置き、その喜びによって今日の信仰生活を生きることを勧めているのです。イエスはこのように弟子としてこの地上に派遣されている私たちに、その働きの根拠、その働きへの保証、そしてその働きに携わる者の喜びの根拠はどこにあるかを教えているのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
 私たちキリストの福音を伝えるためにたくさんの伝道者を歴史の中で派遣し続けたあなたの御業に心から感謝します。私たちもその同じ使命に答えることができるように助けてください。困難の中でもあなたの御業に信頼を置くことできますように、そして私たちの喜びの根拠をいつもイエスの十字架の救いからくる罪の赦しに置くことができるようにしてください。
主イエス・キリストのみ名によってお祈りいたします。アーメン。

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