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礼拝説教 桜井良一牧師
「イエスが教える祈り」

(2007.07.29)

聖書箇所:ルカによる福音書11章1〜13節

1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。
3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
4 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」

1.祈りを教えるイエス
(1)私たちをよく知ってくださっている方のみ言葉

 洗礼を受けてキリスト者になった人は誰でも、これからどのようにして信仰生活を送るべきなのかと思案したことがあると思います。そんなときに私たちはよく有名なキリスト者の生涯を記した伝記などを読んで、その人のまねをしたくなるときがあります。私もそんな本を洗礼を受けた前後に、いろいろと読んだ記憶があります。そのようなキリスト者の生涯の中で特に目立つのは彼らの祈りの姿勢です。ある人は朝、日が昇る前から目を覚まして、たくさんの人々の名前をあげて、とりなしの祈りを毎日捧げたといいます。そんな本を読むと、私は「よし、これだ」と思って、次の朝からその人のまねをしてみます。しかし、その試みはすぐに失敗に終わり、「自分にはこんなことはできない」と言う確信に至ります。他の何人かのキリスト者の伝記を読んで、結局行き着いた私の結論は「自分と彼らとは大きな違いがある」と言うものでした。結局、自分の信仰生活のための参考にはならないのです。
 私はこのようなキリスト者の生涯を学ぶことは決して私たちにとって意味がないと言うつもりはありません。しかし、それをそのまま自分の生活に置き換えようとするときには必ず無理が生まれます。それは借りて来た他人の服をそのまま着ようとするのと同じで、どうしても自分の信仰生活にはぴったりこないのです。そして無理をして真似してみても「自分にはこんなことは出来ない」という敗北感にも似た気持ちを抱くことになってしまいます。ですから、私はこのような部類の本を最近はあまり読まなくなりました。
 むしろ、私たちにとって大切なのは、私たち一人一人のことをよく知ってくださっている主イエスの教えに耳を傾けることだと思うようになったのです。主イエスは私たちの弱さをよく知っていてくださっています。その上で私たち一人一人に助け主なる聖霊を送ってくださり私たちの信仰生活を導いてくださるのです。ですから、私たちは自分の信仰生活にために何よりも、主イエスのみ言葉、聖書のみ言葉に耳を傾けることが必要なのです。

(2)主イエスの教える祈り、祈りの姿勢

 今日の箇所にはイエスが教えてくださった「主の祈り」の文章が記されています。この主の祈りは他にもマタイによる福音書6章(9〜13節)で紹介されています。そのマタイが紹介した祈りの文章と比べるとルカの主の祈りの文章は簡潔なものになっています。私たちがこの礼拝でも唱える主の祈りはマタイによる福音書の文章をベースにしているようです。
 とても興味深いのは二つの福音書がこの主の祈りを紹介するために記した前後関係の文章です。マタイはどちらかと言うと偽善者のように人に見て貰おうとして祈ったり、異邦人のようにくどくどと祈ることがないようにとイエスはこの主の祈りを教えてくださったと記しています(6章5〜7節)。ですからこの主の祈りの前には「彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だからこう祈りなさい。」(8〜9節)と言う出だしの言葉から始まるのです。
 ところが今日のルカではこの主の祈りの文章の後に真夜中に友人宅に行って「パンを貸してほしい」と願う人を主人公にしたたとえ話が挿入されています。この文章の中に「しつように頼め」と言う言葉が出てきますが。どうもここだけを読むとルカはマタイと全く違ったことをここで教えようとしているように思えます。いったいイエスは私たちに何のために主の祈りを教え、またそのための祈りの姿勢を示されたのでしょうか。

2.イエスの教えてくださった「主の祈り」
(1)祈りの内容を教えるイエス

 大会や中会の会議の中で行われる礼拝の司会を依頼されるとき、私が一番、悩むのはそこでどんな祈りを捧げればよいのかと言うことです。その大会のため、また中会のためにどのような祈りが必要なのか、なかなかそれが頭に浮かんでこないのです。その上で、大会や中会のたくさんの議員の前で祈りを捧げると考えると、「恥ずかしくない祈りを捧げなければ」と言う思いが浮かんで、ますます祈りの言葉が出て来なくなってしまいます。皆さんももしかしたら似たような経験を味わったことがあるかもしれません。「何を祈ったら良いのかわからない」。私たちは信仰生活の中でこのような問題に度々ぶつかることがあります。
 あるとき弟子の一人がイエスにこのように語りました。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」(1節)。この「ヨハネ」はバプテスマのヨハネのことを指しています。彼はたくさんの弟子を抱えていました。そしてヨハネはその弟子たちに特別な祈りの言葉を教えていたと言うのです。ですからこのヨハネと同じように「私たちも同じように、祈りを教えてほしい」と一人の弟子がイエスに願い出たのです。そしてイエスがこの願いに答えるものとして教えてくださったものがこの主の祈りです。
 私たちの教会では毎月、教理入門教室と言う学びをしています。その席で私たちの教会の憲法の一部であるウエストミンスター小教理問答書を取り扱っています。今月はちょうどその問98の祈りについての問答を学びました。この後、小教理は問99から主の祈りの内容の説明に入っていきます。つまり、私たちの教会ではこれから時間をかけてこの主の祈りの文書を学ぶ予定になっているのです。ですから、今日はこの主の祈りの文章に直接、触れることはせず、むしろ後半のたとえ話を通して語られるイエスの教える祈りの姿勢に焦点を当てて考えて見たいのです。

(2)父よと呼ぶことができるのは

 ただ、一つだけ心に止めていただきたいのは、この主の祈りの文章の初めの言葉「父よ」と言う呼びかけの言葉です。実はこの呼びかけの言葉こそ、主イエスのオリジナル、イエスの祈りの独自性をよく示しているものと言えるのです。この言葉は、通常ユダヤ人が日常で使う言葉でなく、物心の定かではない幼子が父を呼ぶときに使う言葉です。しかも、ユダヤ人の両親はこの言葉を自分たちの家庭の中だけで語るときだけ子供たちに使用を許しました。そして決して他の場所では使ってはいけないと子供たちに教えたというのです。ですから、とても幼稚で、恥ずかしい言葉、それがこの「父よ」と言う言葉なのです。
 しかし、同時にこの言葉は「父よ」と呼びかけることのできる神様との関係の深さ、親密さ、そして幼子が親に頼って生きるように、祈りを捧げる者が神様に全面的に信頼する気持ちを示す言葉だと言えるのです。そう考えるとこのような呼びかけを神様に向けて言えるのは、真の神の子であるイエス・キリスト以外にはおられません。私たちはこのイエスの与えてくださる恵みによって、同じように今、神様を「父よ」と呼びかけることができるようにされているのです。つまり、この祈りはイエスによる救いを前提として祈ることができるものであることを覚えるべきでしょう。

3.どうして祈れないのか

 さて、このたとえ話の内容はきわめて簡単です。旅の友人がたとえ話の主人公のところに宿泊することになりました。ところが困ったことに食事のためのパンがありません。時間はすでに真夜中になっていて、パンを簡単に用立てることは困難に近い。そこで彼は近所の家を訪ねて「パンを貸してください」と願い出ます。ところが既に、その家の人は寝る準備に入っていて、「こんな時間に迷惑をかけないでほしい」と言って、願いに応じてくれないのです。そこで彼はどうしたか。あきらめないで、何度も何度も、同じ願いを繰り返しました。そうするとしかたがなくその家の主人はその願いを聞き入れることになるとイエスは語るのです。「友達だから」と言う理由では動かない人でも、何度も頼み込めば、最後には根負けして何とかしてくれるだろうとイエスは言うのです。何かこれだと私たちの知っている悪徳セールス商法と同じような気がします。玄関のドアを一度開けたら最後、商談が成立するまではそこから動こうとしないあのセールスマンのようなことをするように、そうイエスは教えているようにも聞こえます。

 ここで私たちが注目したいのは先ほども取り上げた、このたとえ話のキーワードとも呼べる「しつように頼めば」と言う言葉です。この言葉は原文の意味を直接訳せば「恥も、外聞もなく」とか「恥知らず」と言う意味の言葉です。言い換えれば「他人の目など気にしている場合ではない」と言った言葉になると思います。そう言われると私たちは「恥も外聞もなく」祈る、「恥知らず」なほど祈ると言う姿勢からはほど遠いところに生きているような気がするのです。
 以前、鎌倉雪の下教会のカテキズムを学んでいたときに、その著者である加藤牧師が自分の祈りの生活に触れて、それは自分だけの秘密の事柄であって、人に話すべきことではないと言っていたことを思い出します。自分がどんな風に祈っているか。もし、そこで私たちが「恥知らず」に「恥も、外聞もなく」祈っているなら、あえてそれを他人に伝えると言うのはおかしなことになってしまうのかもしれません。しかし、そこで本当に私たちは「恥知らず」に「恥も、外聞もなく」祈ることができるのか。それが問題となってくるところなのです。

4.子を願いに耳を傾ける
(1)あきらめてしまう私たち

 どうして私たちはそんな風に祈れないのか。そこにはいつも他人の目を気にしている私たちの態度も関係してくると思います。しかし、私たちはその他人の目から離れて、一人、閉ざされた部屋の中に入ったとしても容易に「恥知らず」な祈り、「しつように頼む」ことができないのではないでしょうか。その原因はいったいどこにあるのでしょう。
 使徒パウロは彼が記した手紙の中に自分に関する祈りの問題を書き記した有名な箇所があります。コリントの信徒への手紙二の12章にはパウロが自分の体に与えられた「とげ」、それは彼が持っていた何らかの体の障害と考えられています。それを取り去ってほしいと「三度主に願った」と言う話が記されています(7〜9節)。「三度」と言うのは具体的な回数と言うより、三は聖書の中では完全数を表わす言葉ですから、「祈り尽くした」と読み替えていいと思います。パウロは自分の持っていた「とげ」のためにしつように祈り続け、そこで神様の答えを聞くことが出来たというのです。「すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(9節)。パウロはしつような祈りを通して確かにイエスの答えをいただいたと言うのです。
 しかし、私たちはこのように祈ることがなかなかできません。しつように祈るのではなく、すぐにあきらめてしまいます。「どうせだめだ」。そんな気持ちが私たちの心をよぎって、祈りを中断させてしまうからです。しかし、だからこそ主イエスはこう語られるのです。「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(11〜13節)。あなたの父である神様はあなたがたの祈りを無視することがあるだろうか。そんなことは決してない、必ず答えを与えてくださる。それなのにどうしてあなたたちはその答えを待たずにあきらめてしまうのか。そうイエスは私たちに教えているのです。私たちがしつように祈れないのは、この神の姿を忘れて、すぐにあきらめてしまっているからではないでしょうか。

(2)愛によって回復されたコミュニケーション

 以前、朝日新聞でこんな記事を読んだことがあります。子供のいないある夫婦が、孤児たちの修養されている施設を訪ねました。夫婦はその施設でたくさんの子供たちの中でも一人ぽつんと離れたところにいる少年に心を止めました。「是非、あの少年を私たちの養子として引き取りたい」。その夫婦はそう願い出ましたが、施設の職員は難色を示します。「あの子は誰にも心を開かない。時々、奇声をあげるか、あばれるばかりで、面倒だけをかける大変な子ですよ」と。ところが、その夫婦は施設職員のその言葉を聞いて、ますますその子をあずかりたいと言い出します。やがて、この夫婦の願い通り、この子がその家に引き取られます。新しく生まれた親子の間では案の定、たいへんなことが数々起こる、しかし、その夫婦の変わらない愛情のために、やがてその子の様子が変化し、ついには普通の子供たちのように家族と自分の言葉で家族とコミュニケーションを持てるようになったと言うのです。少年は新しい家族の愛情の中で自分の言葉を取り戻したのです。
 その記事の最後はとても印象深い風景で終わっています。その家のおじいさんは夫婦と同じように少年を愛しています。おじいさんは農作業のために軽トラックに乗って出かけるとき助手席にその子を座らせて出発します。するとその子は運転席のおじいさんの顔を見ながら「じいちゃんの宝物って何」と尋ねます。するとおじいさんは「じいちゃんの宝物は、お前だよ」と答えるのです。少年は笑顔を浮かべながら黙ってその答えに耳を傾けます。
 イエスは私たちに父なる神の本当の姿を示してくださいます。あなた方の父は、あなたがたの声に必ず耳を傾けてくださる。だから、心を閉ざす必要はない。答えが返ってこないのではないかと不安に思う必要もない。父に祈りなさい。そうすれば父は、あなたに聖霊なる神を遣わしてくださり、あなたがたを神様との生きた愛の交わりに導いてくださると教えておられるのです。

【祈り】
天の父なる神様
 私たちのために祈りの言葉を与えてくださるばかりでなく。その祈りを祈ることができるように私たちを神の子としてくださり、聖霊を遣わして私たちを導いてくださるあなたの御業に感謝します。私たちも神の前で恥じることなく、祈り続けることができるようにしてください。主イエスの御名によってお祈り致します。アーメン。


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