Message2006 Message2005 Message2004 Message2003
礼拝説教 桜井良一牧師
本当の豊かさとは

(2007.08.05)

聖書箇所:ルカによる福音書12章13〜21節

13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」
14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」
15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」
16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。
17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、
18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、
19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』
20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。
21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

1.遺産分配問題

 今日の箇所では私たちの命について、またその命との関わりから真の豊かさとは何かと言う話題が語られています。
 今、私たちの祈りの課題ともなっている、アフガニスタンで捕えられている韓国人キリスト者たちの問題について、毎朝、心配しながら新聞やニュースに目を通されている方も多くおられると思います。どうしてこんなことが起こるのかと思うような事件です。先日、この問題を伝える新聞を読んでいましたら、韓国人キリスト者たちを捕まえて人質にしている人たちは人質の取り扱いについて、自分たちの指導者である宗教家たちにその都度、見解を求めていると言う説明が記されていました。宗教家は自分たちの信じている掟に基づいて、兵士たちに指示を送っているのです。特にイスラム教を信じている国々では今でも、庶民の生活に起こる事柄を宗教家が掟によって裁くと言うことが多く見られるようです。
 今日の聖書の箇所では遺産分配問題の解決をイエスに依頼しようとする人が登場しています。実はこれは見当違いの依頼ではなく、当時の宗教家たちはこのような日常生活に関する裁きを人々から依頼されれば、行っていたと言うのです。物語の始まりはこうです。

 「群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」」(13節)。

 いつの時代にも人間社会の中で起こる問題はあまり変わりがないようです。現代でも遺産相続で兄弟が争い、時には殺人事件まで起こるような事態になることもあります。自分では兄弟を説得できないので、この人物はイエスに目をつけました。きっと、イエスの語られる説教を聞いていて、「この人なら自分の兄弟にもうまく言ってくれるのではないか」と考えたのかもしれません。しかし、そう考えて見るとこの人のイエスのみ言葉に耳を傾ける態度には最初から問題があったように思えます。
 イエスの話を聞いていて何か今の自分に役にたつことは無いかと耳を傾ける。そうなると私たちは役に立つものだけに耳を傾け、そうでない話は右から左へ受け流すと言うことになります。まるでピーマンの嫌いな子供が、お母さんの作った料理からピーマンを一つ一つ取り分けるようなものです。そうなるとイエスが私たちに伝えようとする本当の福音の意味は私たちに伝わらず、神様が私たちのために準備してくださった祝福をも取り逃がしてしまようなことが起こるのです。イエスはそんな誤りを犯そうとしていたこの人に神様の福音の真理を伝えようとします。

 「イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」」(14節)。

 イエスは私たちの裁判官や調停人となるためにこの地上に来られたのではないとここで語ります。むしろ、イエスは私たちがやがて受けなければならない天の法廷での審きのためにやってきた裁判官であり調停人でもありました。しかし、多くの人々はやがて私たちのために開廷される天の厳粛な審きではなく、地上の物事にのみ心を向けることが多いのです。

2.貪欲に注意しなさい
(1)財産も神の与えてくださる祝福

 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」」(15節)。

 イエスはここで遺産の問題を持ち出して来た人にだけではなく、そこに居合わせたすべての人に向かって警告を発しています。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と言うのです。
 ここで注意したいのは、イエスは単に「遺産」を求めることを否定していると言うことでもなく、また金銭を求めることを否定していると言うことではないと言うことです。旧約聖書に登場するアブラハムやイサク、ヤコブと言った族長たちはたくさんの財産を持っていました。またダビデは一国の王として他の誰もが容易には持ち得ない財産を持っていましたが、みな神を信じる信仰者として賞賛されています。財産を持っていたからと言って彼らが非難されていることころはありません。むしろ、彼らに財産を与えられたのは神様であり、彼らは神の祝福によってその多くの財産を得たことを聖書は語っているのです。

(2)貪欲とは何か

 イエスは「どんな貪欲にも」とここで語っています。この「貪欲」と言う言葉は「もっと持ちたいということ」と言う意味を示す言葉です。「もっと、もっと…」と言う物欲が心を駆り立てて行き、持ちきれないものを持っても心に満足のない人間の姿こそ「貪欲」と呼ばれてよいものです。
 イエスはこの貪欲に対しての警告に次のような理由を付け加えます。「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」。有り余るほどの物を持っている。財産をたくさん持っている。それがいつの間にか自分の命そのものだと思ってしまう勘違いを私たちはしているとイエスは言うのです。これは今、自分にどれくらい財産があるかと言うことが問題ではなく、「もっと、もっと」と求める心に問題があると言うことす。その意味では「自分は有り余るほどの財産を持っていないから」と安心することはできないのです。貪欲とは何かと考えるなら、それは持ち物や財産を求めることがその人の人生の目標になってしまうことです。物を求め続けることが人生で最大の関心事となり、自分が得たそれらの物を通して何をするのかと言うことには関心を少しも持っていないのが「貪欲」な生き方の正体だと言えるのです。
 遺産問題で骨肉の争いを繰り広げた上で「なまじ財産などが残されたことが不幸の原因でした」などと言う人がいますが、それは大きな誤りだと思います。なぜなら、たくさんの財産を争うこと無く、分配し、むしろ有効に使う人はたくさんいるからです。問題なのは、財産ではなく、人が持つ貪欲な心そのものにあります。ですから人を不幸にするのは金銭や財産ではなく、私たちの持っている貪欲な心なのです。

3.愚かな金持ち
(1)ある金持ちの失敗

 イエスはこの貪欲によって支配される人生の愚かさを教えるために非常に簡単で誰でも理解できるたとえ話を語ります。もし、このたとえ話が理解できないとしたら、その人の心は既に貪欲に強力に支配されていると言えるのかもしれません。
 ある金持ちがいました。この人は「最初から金持ち」と呼ばれているのですから、すでに十分な財産を持っていた人だと想定ができます。その金持ちの畑が予想していなかった豊作に恵まれます。その豊作はその収穫物をしまっておく場所が足りなくなってしまうほどのものでした。そこで彼は今まで建っていた倉を取り壊して、新たに大きな倉を建て、収穫物を初めとする財産すべてをそこにしまい込みます。そこで彼は満足して「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」(19節)と自分自身に向けて語ったと言うのです。ところが神はこの金持ちに「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(20節)と言われたと言うのです。
 イエスはこのたとえ話の結論として「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と語ります。つまり、この金持ちと同じように愚かなことだと言っているのです。

(2)自分のために富を積む

 「自分のために富を積む」。これがこの愚かな金持ちが犯した誤りであり、イエスが最初に警告した貪欲の正体であると言えるのです。それではそれは具体的にどのような人間の生き方を物語っているのか。この金持ちの姿からそのことをもう少し考えたいと思います。
 まず、この金持ちが自分の計画通りに新しい倉を建て、そこに財産のすべてを仕舞い終えたとき何をしたかと言うところです。「こう自分に言ってやるのだ」(19節)。この言葉は正確に翻訳すると「私の魂に言おう」となります。この場合の魂はヘブライ語の「ネフィシュ」と言う言葉で、元々の意味は人間の体の器官である「口」とか「のど」を指す言葉から由来しています。ある聖書解釈者はこの金持ちの言葉にこそ、彼の持っていた人間観がはっきりと表われていると主張しています。つまり、彼にとっての命は「食べたり、飲んだり」して満ち足りること、それに尽きると考えていたと言うことです。しかし、こうなると人間の命は、他の動物の命とほとんど変わらない物となってしまいます。つまり、この生き方は人間としての尊厳が失われてしまうような生き方であると言えるのです。
 この金持ちの生き方のもう一つの特徴はこんな短い文章の中で「私」と言う言葉が何度も繰り返し語られていると言うことです。ギリシャ語原文では「私の収穫」、「私の倉」、「私の穀物や財産」、「私の魂」と四回も登場します。つまり、彼の関心のすべては自分自身にだけ向けられていることが分かります。神様にも隣人にも全く関心がないのです。このような金持ちの生き方の結論として言えることは、この金持ちは自分の命を自分の力で得ることができ、また維持することができると考えていること、そしてその命は自分の好き勝手に使って良いと考えていたと言えるのです。「自分のために富を積む」生き方の大きな誤りは、この命に対する誤解に大きく支配されているのです。

4.イエスによって命を得る

 かつてマスコミを騒がせたあるIT産業の社長は「金があれば、何でも手に入れることができる」と語ったと言います。しかし、聖書は私たちの命はそうではないと語っているのです。私たちは自分の力で命を長らえさせることはできません。確かに持っている財産で優れた医療の恩恵を受けて、幾分かは地上に留まる時間を伸ばすことができるかもしれませんが、それは本当に命を自分の力で支配したことにはなり得ません。私たちはいずれ死ななければなりません。そのとき私たちが倉に貯め込んだ財産は何の役にも立たないのです。
 聖書は私たちの命は神のものであり、神の支配の元にあることを語ります。「神の前に豊かになる」と言う言葉は、直訳すれば「神の中に豊かになる」と言う言葉で、それでは何となく意味が通じないため意訳されたものだと言います。私たちの命が本当に豊かになるためには、神の中に向かわなければならない、自分自身に心を向けても何にもならないと言うことをここでイエスは語っているのです。
 イエスの使命は私たちを神の中に導くため、豊かな命に私たちを招くためのものでした。だからイエスは「私は裁判官でも、調停人でもない」と語ったのです。むしろ私たちに真の命を与えるためにイエスはこの地上にやって来られた救い主なのです。

 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネによる福音書11章25〜26節)。

 私たちが自分で得た物は、この金持ちのように死を前にして何の役にも立たないものになってしまいます。しかし、イエスが私たちに与えてくださる命はそうではないと聖書は語っているのです。生きているときも、そして私たち人間の死を超えてまでその命は私たちを支配し、私たちの人生を豊かなものとしてくれるのです。だから、彼はこのイエスの福音に耳を傾けるべきだったのです。自分に都合のよい聴き方をするのではなく、イエスの福音に耳を傾け、それを受け入れるべきであったのです。
 もし、この金持ちが「今夜、お前の命は取り上げられる」と言う神の声を事前に聞いていていたなら、彼の生き方はどのように変わったことでしょうか。彼は自分が得た収穫物をどのようにしようとしたのでしょうか。この質問はこの聖書を読む、私たちにも向けられています。「今夜、あなたの命は取り上げられる」。それを知っているあなたは今日何をすべきなのかとイエスは私たちにも問うているのです。さて、私たちはこの質問にいったいどう答えることができるのでしょうか。

【祈祷】
天の父なる神様
 命の源であるあなたから離れてから私たち人間は命についての大きな誤解を犯し続けてきました。自分の持っているものが、あたかも自分の命それ自身のように考えて、貪欲に支配され、心の空虚さが満たされることがありません。しかし、あなたはそのような私たちにイエス・キリストを遣わし、真の命と豊かさに出会う道を開いてくださいました。この祝福の中で、生きることの幸いを覚えさせてください。私たちが「神の前で豊かになる」ことができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


このページのトップに戻る