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礼拝説教 桜井良一牧師
主人の思いを知る者

(2007.08.12)

聖書箇所:ルカによる福音書12章32〜48節

32 小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
33 自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。
34 あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」
35 「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。
36 主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。
37 主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。
38 主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。
39 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。
40 あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
41 そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、
42 主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。
43 主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。
44 確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。
45 しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、
46 その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。
47 主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。
48 しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」

1.数の少なさを恐れる必要はない
(1)どこに心を向けているのか

 先日はイエスの語られた愚かな金持ちのたとえ話から、私たちの命について、またその命ために重要な本当の豊かさとは何かについて考えました。あの愚かな金持ちは自分の命と自分が持っていた財産が全く同じであるかのような勘違いしていました。しかし私たちの命は神様によって支えられているものであって、主イエスはその私たちに永遠の命を与えるためにこの世に来てくださったことを学びました。
 今日の聖書の箇所ではイエスの語られた「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ」(34節)と言う言葉が記されています。愚かな金持ちは自分の財産にのみ心を向けていました。しかし、私たちが本当に心を向けるべきところはそこではないことをイエスは教えようとされたのです。

(2)勝敗は数で決まるのか?

 「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(32節)とイエスはまずこの箇所で語られています。当時、イエスとその弟子たちの人数は決して多いものではありませんでした。それに反して、イエスを快く思わず、ことごとく対立することになったファリサイ派の人々や律法学者、祭司たち、いわゆる当時のユダヤの宗教家たちは絶大な勢力を保っていました。ですから「自分たちは数の上では劣勢である」と考えていた弟子たちは、そのことために心配し、恐れを抱いていたのかもしれません。そのためにイエスは弟子たちに「小さな群れよ、恐れるな」と語られたのです。
 イエスが私たちに「恐れるな」と語られるとき、それはこの世の中には私たちが恐れる必要のあるものは何も存在しないと言っているのではありません。むしろ、イエスは私たちに恐れなければならないものを恐れ、そうでないものを恐れる必要はないと教えられるのです(12章4〜5節)。私たちが恐れなければならない方はこの世においてただ一人だけ、それは神様であること教え、そしてそれ以外の何者も私たちは恐れる必要がないとイエスは語られているのです。
 この箇所の場合に弟子たちは「数、勢力」を恐れていたと言うことになります。敵の数と味方の数を見比べて、自分が明らかに劣勢であることを心配しているのです。このことは勝敗を決定づけるのはやはり、数の力であると弟子たちが考えていたことを明らかにしています。しかし、どんなに小さな群れであったとしても、その群れを用い、勝利を与えてくださるのは神様なのです。その神様は必ず神の国を与えてくださる。勝利を私たちに与えてくださるとここでイエスは約束されています。だから、私たちは「数の少なさ」を恐れる必要はないと言うのです。
 「恐れ」。イエスは私たちが今恐れているものこそ、私たちを支配しているものだと主張されます。ですから、私たちは本当に恐れなければならない神様にその目を向けることで、自分を今まで支配していた、神以外のあらゆるものから解放され、同時にそれらへの恐れから解放されるのです。私たちはいったい、今何を恐れて生きているでしょうか。私たちの心が一番に向けられているところ、支配されているところはどこなのでしょうか。次にイエスは本当に恐れなければならない神様を私たちが恐れて生きると言うことはどのようなことなのか。それを今日の箇所では主人とその主人の帰りを待つ僕の関係を通して続けて説明されています。

2.終わりの時の意味
(1)主人の帰宅を待つ僕

 このたとえ話では結婚式に行われる宴会、婚宴の話が登場します。最近の結婚式場で行われる結婚式は分刻みのスケジュールで管理されています。私も教会の関係者が結婚式場で式を挙げる際に司式を行ったことがあります。そのときに「結婚式すべてを30分で終わるようにしてください」と言われて、結局、結婚式のための説教はラジオ録音の原稿のように短くすることになり、たいへん苦労した思い出があります。
 ところが当時、この聖書の舞台となるイスラエルでは結婚式の婚礼は一週間近く、続き、中には二週間も婚宴を続けることもあったと言われています。それはその結婚式の期間、新郎新婦の親族や友人、近隣に住む人々が自由に出入りし、その婚宴に参加することができるようになっていたからです。ですから婚宴に出かけて言った主人の帰りがいつになるか分からないと言うのは、そのような当時の婚宴の事情のためなのです。
 婚礼の席に出かけて行って、いつ帰って来るのか分からない主人。それにも関わらず「その主人のために起きて待っている僕は幸いである」(36節)とイエスは語られます。ところがここで意外なことが語られています。「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる」(37節)。
 普通、帰って来た主人のために食事の準備をして、その食事のために給仕するのは僕の役目です。ところがこのたとえ話では立場が全く逆転してしまって、主人が僕のために食事の給仕をしてくれると言うことになっています。それではこれはいったいどういうことを意味しているのでしょうか。

(2)宇宙的終末論と個人的終末論

 このことを考えるためにはまず、このたとえに語られる主人の帰り、あるいはこの物語に続く、泥棒がいつやってくるか分からないと言ったお話で取り上げられているときとはどんなときなのかを知る必要があります。ここで言う主人の帰るとき、あるいは泥棒のように予想もつかないときにやって来るときとは、イエスの再臨のとき、あるいは世の終わりのときを言っていると考えてよいでしょう。かつて弟子たちの前から天に昇られたイエスは(ルカ24章50〜52節)今も、天において生きておられます。そしてイエスは天から今も聖霊を送って私たちを導いてくださっているのです。しかし、そのイエスが再びこの地上にやって来られるときが来ると言うことを聖書は語ります(使徒1章11節)。そのとき、イエスはこの世を裁かれるためにやって来られます。そしてそれが聖書の語る終わりのときだと言ってもよいのです。
 ただ、私たちはこの終わりのときを、もっと別の観点から考えることができます。神学ではこの終わりのときについての議論を「終末論」と呼ぶのですが、そのとき終末論はここで聖書が何度も言及している世の終わり、「宇宙論的終末」について取り扱うのと同時に、「個人的終末」と言う事柄が取り扱います。それではこの個人的終末とはどういうものかと言えば、それは私たちがやがて必ず出会う死と言う現実を示しているのです。なぜなら私たちキリスト者にとっての死は、神様に出会うとき、神の前に立たなければならないときであると聖書は語っているからです。この意味では、私たちは世の終わりを待たずして、神の前に立つとき、個人の終末のときを必ず迎えることになると考えることができるのです。
 世の終わりについての事柄と私たちの死とは厳密に考えれば違ったところもあるのですが、私たちが神様の前にたつときと言う点では同じ特徴を持っています。そしてその時のために備える私たちの態度は同じものとならざるを得ないことにもなるのです。このようなことから、イエスが語られている今日のたとえ話は、世の終わりについての備えを語っていると同時に、私たちがやがて必ず迎えなければならない自分の死のときへの備えを同時に語っていると言ってよいと言えるのです。

(3)私たちにとっての終末とは

 その際、このたとえ話が言おうとしているのは、まず第一にその終末のときは私たちにとって何か不安を呼び起こす、恐ろしいときではなく、主との出会いのとき、またその主の豊かな祝福にあずかることのできる時であると言っているのです。だから、このときをキリスト者は恐れるのではなく、心待ちにすることができるのです。
 今日の午後に日本キリスト教団の福島教会で、私たちの教会の礼拝によく出席してくださる桃井兄が結婚式を挙げられる予定になっています。残念ながら私たちはその結婚式に出席することができませんが、その代わりと言っては何ですが祝電を送ってお祝いの言葉を伝えることになっています。その桃井兄は最近よく私のメールアドレスに携帯電話からでしょうか、短いメッセージを送ってくださるのです。お住まいを戸田に引っ越された後も、戸田の花火大会がきれいであったとか、仙台の方に旅行に行って来られたとか、その都度メールを送ってくださいます。最近は特に、結婚式が近づくにつれ、「結婚式のために祈ってください」と言うメールが度々送られて来るようになりました。そのメールを読むたびに、結婚式を心待ちにしている桃井兄の気持ちが私に伝わってきます。
 私たちにとって終末を待つと言うことは、新郎新婦が自分たちの結婚式を待つようなものであると言っていいのかもしれません。そのとき私たちは私たちを愛して、私たちのために命まで献げてくださった主イエスとお会いすることができるのです。私たちがこの地上で神様のためにできることはほんのわずかなものかも知れません。そしてたとえ私たちがそれをなしえたとしても、私たちはそのために神様に自慢することはできません。私たちは「為すべきことをしただけです」としか言えない者たちなのです(ルカ17章10節)。ところが、イエスはこのたとえ話を通して、やがて私たちが迎える終わりのときに、神様は私たちのために給仕をしてくださると語られているのです。そのとき神様は「本当によくやったね」と私たちを褒めてくださると説明しているのです。私たちにとっての終末のときとはそのようなときです。だから私たちはそのときを心待ちにしていまかいまかと待っているのです。それがこのたとえ話が教える私たちにとって終末のときの意味と言えます。

3.そのときのために今、準備すること
(1)終わりのときへの備え

 「人の子は思いがけない時に来るからである」(40節)。イエス・キリストは私たちを導かれる真の王です。聖書は地上に存在する王たち、権力者たちを「獣の子」と表現する一方で真の王であるイエスを「人の子」と表現します。ですから、この「人の子の到来」は真の王であるイエスの再臨のときを意味しているのです。そしてそのときがいつ来るかは、私たちには分からないのです。
 小説に登場するアルセーヌ・ルパンや怪人二十面相は自分が盗みを行うことをわざわざ予告状を送ってその持ち主に知らせます。しかし、それは小説の世界だけのことで、実際の泥棒は家の主人が油断しているときに突然にその家に押し入り、盗みを働きます。ですから誰にもそのときを予想することは困難なのです。しかし、私たちは泥棒がやって来ても、容易に家に忍び込んで、財産を盗まれないようにといろいろな備えをしています。最近はホームセンターに防犯グッズを並べる特設コーナーができています。
 イエスは家の主人が自分の家に泥棒が入らないように細心の注意を払うように、私たちが終わりのときを迎えるためにその備えを怠ることがないようにと薦めているのです。先週、学びました愚かな金持ちはこのときのための備えをすっかり忘れてしまっていて、たくさんの自分の財産だけに自分の命の時を費やしてしまいます。その結果、彼が大切にしていた財産は全く彼にとって無駄なものになってしまったのです。

(2)自分の財産と命の有効な用い方

 話が前後しますが、イエスは「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない」(33節)と今日の箇所の前半部で語られています。これは私たちが自分の持ち物を持っていてはいけないと言う、私有財産否定の教えを語っているのではありません。むしろ、聖書はその自分の財産を何のために使うか、それを私たちに教えようとしているのです。そして自分のためにだけにその財産を貯め込んでしまうこと、それが愚かな金持ちの犯した失敗であったと言うのです。
 私たちは自分の財産、自分の命、それら全てのものを無目的に貯め込むのではなく、終わりの時を迎える者としてふさわしく使うことが求められているとイエスはここで教えているのです。私はいろいろなものを買い込んでしまい、家の収納スペースを一杯にしてしまう傾向があります。ですからそれを捨てるのが我が家での家内の役目になってしまいます。苦労して集めた私にとってはその一つ一つは宝物のようで、どれ一つとっても捨てがたいものと思われます。しかし、家内から見れば、それは場所を取って邪魔でしかないゴミのような存在でしかないのです。
 自分が時間や労力を費やして一生懸命になって得たものが、他人にはゴミでしかないと言うことがよくあります。ですから私たちもあの愚かな金持ちと全く変わらない生き方をしているのかもしれません。そのような生き方から解放されて、自分の財産や命を有効に使うことができる秘訣をイエスはここで教えているのです。それは世の終わりの日を考えること、また私たちの地上の命が終わるときのことを考えること、そしてやがて神様の前に立つときを考えながら、そのために今、自分に与えられているものをどのように使うかを考えることだと言うのです。その日がいつくるか、私たちには分かりません。だから、いつもそのときのことを思って私たちは準備します。私たちに神様が与えてくださったものをもって、その日がいつ来ても言いように準備するのです。そして、やがて主人が婚礼の席から帰って来たとき、僕たちに給仕をしてくれるように、神様は私たちを完全な祝福の中に招き入れてくださることをこのたとえ話は私たちに教えているのです。

【祈り】
天の神様
 私たちを支配する諸々の力から解き放ち、私たちの思い煩いを取り去ってください。そのために私たちに主の再臨のとき、終りのときをいつも覚えさせ、この地上の人生の中でその日に備える生き方を教えてください。あなたから与えられた命や財産を無意味なことに費やすことないように助けてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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