1.イエスの本当の姿とは
皆さんも度々、聖書に記されている物語を題材にした絵画をご覧になられたことがあると思います。その中にはイエス・キリストの姿を描いている作品も数多くあります。そしてそこに描かれているイエス・キリストの姿は皆、同じではありません。しかし、私たちは、そのいくつかの絵画を見た影響からか、イエスの姿をどちらかと言うと細面でスマート、そして髪の長い西洋人と思いこむことが多いようです。しかし、実際にはイエスはどのような姿形をしていたのかは分かっていないのです。当時は写真技術もありませんでしたし、イエスの似顔絵を書き記した人もいませんでした。ある人の見解によれば、ユダヤ人の血を受け継ぐイエスは実際にはもっとアジア的な顔をしていたのではないかと言います。もしかしたらイエスの実際の顔は私たちの知っている中近東に住む人の顔立ちに似ていたのかもしれません。その上、一般の庶民で、大工の子供として育てられたイエスは実際はがっちりとした体格を持った労働者のような姿をしていたのではないかと考える人もいます。
私たちがそれぞれその脳裏に抱いているイエスの姿は、実際のイエスの姿と言うよりは西洋人の絵描きが描いた絵の影響であり、しかも、彼らはそれぞれ自分たちの思う理想の姿を想像してイエスの姿を描いたと考えることができるのです。ですから、彼らの絵に登場するイエスの姿は西洋人の顔をし、また、がっちりとした労働者と言うよりはスマートな貴族のような姿をしているのです。
人はそれぞれ、異なったイエスに対する印象を抱いています。それで聖書を読んでいるとときどき、自分の抱いていたイエスの姿とはかけ離れた発言、また行動をされるイエスの姿に出会うときがあります。そんなとき私たちは「ちょっと違うのではないか」と思い、頭を抱えて悩むことがあるのです。しかし、私たちが抱いている思い思いのイエスについての想像から解放されて、本当のイエスの姿を理解することができるのは、このような時ではないかと私は思うのです。
どうして、イエスはエルサレム神殿の商人たちを暴力的な行動でそこから追い出したのか。また、どうしてイエスは自分の母や兄弟たちに肉親にはふさわしくないような冷たい態度を取られたのか。このように私たちがイエスの本当の姿を理解するための手がかりとなる題材は聖書の中に数多く存在しています。実は今日の部分のイエスの発言もそのようなものの一つと考えることができます。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」(51節)。イエスはここでまるで自分が平和を破壊する者、また社会の秩序を破壊する分裂主義者であるかのように自己紹介されています。いったい、この発言の真意はどこにあるのでしょうか。今日はこのイエスの言葉について考えてみたいと思います。
2.イエスが投ずる火
(1)イエスが地上にやって来られた使命
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」(49節)。
ここでイエスはご自分がこの地上に遣わされた使命が何であるのかをまず明らかにしようとしています。イエスは「地上に火を投ずるために」来られたとご自分の使命を語られるのです。その上で「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」とその使命を担っている自分がどんな願いを今持っているか、そしてその願いと現実はどのように違っているのかを説明されています。
ここで問題になるのは「地上に火を投ずるため」とイエスが言われる「火」とはいったい何であるのかと言う点です。次の「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」と言う言葉は、その火が既に地上で燃えさかっていると言うよりは、自分の希望に反して、その火がまだ燃えていないことを表わしていると考えることができる言葉です。
文章の繋がりから言えば、50節の「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」と言う言葉は、未だ燃えてはいないこの火を地上に投ずるためにイエスがこれから何をされようとしているかを説明していると考えられます。また、51節以下の「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」と言う言葉は実際にイエスによって地上にこの火が投ぜられたときにどのようなことが起こるかを語っていると言えるのです。ですから、私たちがイエスの投じようとする火が何であるかを正しく理解しようとするには、まずこの言葉に続くイエスの言葉を理解することが大切になってくると言えるのです
(2)受けなければならない洗礼
「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」(50節)。
イエスはこれからご自分が洗礼を受けなければならないと言うことを語ります。その上でその洗礼を受けるためにはたいへんな苦しみが自分を待っていると言われるのです。この洗礼は、私たちが教会で受けるような洗礼、またバプテスマのヨハネの元でイエスが受けられた洗礼とは全く違った、事柄を指していると考えることができます。
かつてイエスの弟子であったヤコブとヨハネはある日イエスに「やがてイエスのみ業が実現したときには、自分たちに特別な地位を与えてほしい」と願い出たことがあります。その際、イエスは次のようにこの二人の兄弟に問い返しています。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」(マルコによる福音書10章38節)。「杯」と言う言葉はゲッセマネの園でのイエスの祈りにも登場します。それは自分がどうしても受けなければならない苦難を意味する言葉で、この場合はイエスの十字架の死とそのみ業が実現されるために受けなければならないイエスの苦しみ全体を意味していると考えることができます。このイエスの言葉ではこの「杯」を「洗礼」と言う言葉で置き換えて説明しています。このような用例からイエスが「受けねばならない洗礼」とはイエスの十字架の死とそれに伴う苦難全般を意味していると考えることができるのです。
ですからイエスが地上に投ずる火はこのイエスの十字架の死と苦難、つまり、救い主としてのみ業が地上で実現することで投ぜられるものであることがここから分かるのです。
かつてバプテスマのヨハネは救い主イエスの到来を預言してこのように語りました。「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(ルカによる福音書3章17節)。
ここでは二つの意味で「火」と言う言葉が用いられていることが分かります。一つは人々を救いに導く「聖霊」なる神の働きです。イエスは天から私たちのために聖霊を送って、私たちの心に信仰の火を灯してくださり、私たちを救いへと導いてくださるのです。しかし、その救いを拒み続ける者たちには別の火、つまり裁きの火が待っているとバプテスマのヨハネはここで語っているのです。このような意味でイエスの投ずる火は、イエスのもたらす救いを語っていると考えることができるでしょう。
3.平和ではなく分裂
(1)破壊される平和、築かれる平和
それではなぜイエスのもたらしてくださる救いは私たちの世界に「平和」ではなく、「分裂」を引き起こすことになるのでしょうか。
ルカによる福音書の最初の部分にはイエスの誕生にまつわる物語が書き記されています。実はこの部分でイエスの誕生はこの地上に平和をもたらすものだと言うメッセージが語られているのです。たとえばバプテスマのヨハネの父であった祭司ザカリアはイエスによる救いを預言する言葉の中でこのように語っています。「暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、/我らの歩みを平和の道に導く」(1章79節)。また有名なところでは、羊飼いたちの前に現れた天使の大軍が歌った賛美の言葉の中に「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ」(2章14節)。これらの言葉から確かにイエスは救い主としてこの地上に平和をもたらすためにやって来られたことが分かるのです。
それではなぜ、そのイエスがここでは「自分は平和ではなく分裂を引き起こすために来た」と言われるのでしょうか。一番、つじつまの合う解釈は、ここでイエスが破壊しようとしている平和と、もう一方でイエスがこの地上にもたらそうとしている平和は全く別のものであると考える解釈です。
この箇所でイエスによって破壊される平和とは、この後に書かれているように、一つの家の中で起こる分裂であるからです。私たちにとって家の家族との関係は最も深く、この世の中で最も頼りとするべき関係と言ってもいいかもしれません。しかし、その家族との関係をときには破壊することになったとしても、それ以上に私たちにとって大切な関係があることをイエスはここで私たちに教えようとされているのです。そしてその最も大切にすべき関係とイエスのもたらす平和は深い関係にあると考えることができるのです。
(2)何者も揺るがすことができない関係のために
先日、藤本兄姉の納骨式のときにラザロ霊園に行ったとき、予定していた時間より早く会場につきましたので、そのお墓にある墓石をいろいろ見る時間がありました。たぶん、藤本兄姉のお墓のすぐ近くに「たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても/主こそわが光」と言う言葉が刻まれた墓碑があったと思います。この言葉は旧約聖書のミカと言う預言者が記した言葉の中に登場する言葉です。実は今日の箇所でイエスが語った言葉はこの同じミカ書の言葉の引用であると考えられています。ミカ書7章の言葉を少し長くなりますがここで読んでみましょう。
「彼らの中の最善の者も茨のようであり/正しい者も茨の垣に劣る。お前の見張りの者が告げる日/お前の刑罰の日が来た。今や、彼らに大混乱が起こる。隣人を信じてはならない。親しい者にも信頼するな。お前のふところに安らう女にも/お前の口の扉を守れ。息子は父を侮り/娘は母に、嫁はしゅうとめに立ち向かう。人の敵はその家の者だ。しかし、わたしは主を仰ぎ/わが救いの神を待つ。わが神は、わたしの願いを聞かれる。わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは起き上がる。たとえ闇の中に座っていても/主こそわが光」。(4〜8節)
ミカはやがてこの地上に神の裁きが行われる日がやって来ることをここで語っています。そのとき今まで頼りにしているものが全く頼りにならなくなり、返って自分に敵対すると言う出来事が起こると預言するのです。しかし、そのような時にも神様ご自身が私たちの支えとなり、光となってくださるという慰めと励ましの言葉が預言者ミカによって同時に語られているのです。
イエスの今日の言葉はこれと同じように私たちの上にやがて訪れる神の裁きの日を語っていると考えることができます。そのとき、私たちが今まで頼りにしていた関係が全く頼りにならないときがやって来るのです。むしろそのときには自分たちが今まで大切していた関係が私たちに敵対し、私たちを苦しめることになるかもしれないと言うのです。しかし、そのようなときにも、神が私たちの支えとなってくださる、光となってくださるから私たちは揺るがされることがないとイエスはここで語っているのです。
それでは、そのときにどうして神様だけが私たちを支えてくださると私たちは確信を持って語ることができるでしょうか。そのときに大切になってくるのが、イエスがこの地上にもたらそうとしている平和です。イエスはその平和をもたらすために十字架にかけられたのです。そしてその平和とは私たちと神様との間の平和です。このイエスのみ業によって神様と私たちとの関係が何者にも揺るがされることのできないものとされたのです。そしてイエスがもたらして下さったこの平和は世の終わりに至るまで変わることない平和です。私たちはこのイエスのみ業によって、どんなときにも神様を頼りにし、神様に支えられ、神様を暗闇の中での光として仰ぎ続けることができるのです。
パウロはイエスが築いてくださださったこの関係についてローマの信徒の手紙の中でこう述べています。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(8章38〜39節)。私たちがどのような状況に立たされても、私たちから決して奪い去られることのない平和、そして神様との関係を私たちに与えるためにイエスはこの地上に来てくださり、十字架にかかってくださったのです。ですから今日の箇所は、そのようなイエスの使命とイエスのもたらしてくださる救いの確かさを教える言葉が語られていると言ってよいのです。
【祈り】
天の父なる神様。
聖書は最後の日にこの地上にもたらされる混乱を預言しています。そのような混乱の中で、私たちが本当に頼りにできるものが何であるかが問われるときがやってきます。その時に、私たちが揺らぐことのないために、イエスは救い主として神様と私たちの間に平和をもたらしてくださいました。どうか私たちが、自分の平和の基をこのイエスによってもたらされた神様との関係の上に置くことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
このページのトップに戻る
|