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礼拝説教 桜井良一牧師
十字架を負って主に従う

(2007.09.09)

聖書箇所:ルカによる福音書14章25〜33節

25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。
26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。
27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。
29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、
30 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。
31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。
32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。
33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

1.読んでもらいたい部分?

 最近、たびたびいろいろな保険のパンフレットが郵便で届きます。国民の生活を守るはずである年金や健康保険制度の問題が次々と指摘され、それらへの信頼が薄れつつある現在、医療保険や死亡保険と言った民間の保険はここぞとばかりにセールスをかけてくるのでしょう。パンフレットのどれを読んでも、自分の将来に不安を感じている私たちに魅力となるような説明が記されています。しかし、いざこのような保険に加入しようとすると、きれいなパンフレットには記されていない約束を記した冊子が加入者に送られて来ます。さらにどういうわけか、このような冊子は虫眼鏡を使わなければ読めないほど小さい字で、しかもこちらの読む気が薄れるほどびっしりと文字で埋まったものが大半なのです。
 以前、このような説明書はあまり読んでほしくない事柄が記されているので、読みづらく書かれているのだと言う説明を誰かに聞いたことがあります。それが本当なのかどうかは、私にはわかりませんが、このような文書には必ず読んでほしい部分と、できればあまり読んでほしくないところがあり、しかし、後で問題が生じた場合の予防策として小さな文字でこっそりとその説明を書くと言うことがあるのではないでしょうか。

 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(26〜27節)。

 今日の聖書の箇所を私たちはできれば小さな文字で書いてほしいと思うことはないでしょうか。どうも自分にとって都合の悪いことがここには書かれているので、できれば読み飛ばしてしまえるような小さな文字で書いてほしいと願うのです。しかし、この言葉は本当に読み飛ばしてもよい言葉なのでしょうか。もしかしたら、この言葉の中に福音の恵みが豊かに語られているかもしれません。

2.イエスの弟子に求められる覚悟
(1)深刻な決心?

「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた」(25節)。

 たくさんの人々がイエスの後を追うという光景は聖書の中に何度も表わされています。おそらくその大半は、イエスの弟子として正式にイエスから招きを受けた人たちではなかったのかもしれません。むしろイエスのみ言葉やみ業に関心を示した者たちが着の身着のままでイエスの後を追ったのです。そしてそのような人々にイエスは次のような言葉を語られたのです。

 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(26〜27節)。

 ここにはイエスの弟子として生きる者に求められている覚悟が語られていると言っていいでしょう。イエスの弟子として生きようとする人々、イエスはそのような人々に高額な授業料を求めているのではありません。しかし、ある意味ではそれよりももっと深刻な決心をイエスは求められていると考えてよいでしょう。

(2)弟子は何を大切にして生きるのか

 以前、この礼拝の中でイエスがこの地上に分裂をもたらすためにやって来られたと言うところを学びました。あの箇所は神の裁きを前にして、私たちがこの世で頼りにしてきたものがすべて役に立たなくなってしまうときがやって来ることを教えていると学びました。神の裁きを前にして私たちが唯一頼りとすることができるのは十字架にかけられた私たちの救い主イエス・キリスト意外にありえないことを私たちはあの箇所で学んだのです。
 ここでもイエスの弟子として生きる者にとって何が一番大事であるかと言うことが語られています。自分がこの地上で最も大切にしている家族、そしてここでは自分自身までも憎まなければならないと言う教えが語られています。聖書学者はこの「憎む」と言う言葉について、ヘブル語特有の表現を使っていると説明します。ヘブル語には「こちらより、あちらが大切」という比較を表現する場合、むしろその反対語を用いることが多いと言うのです。ですから、ここでの「憎む」と言う言葉は「より軽く見る、軽視する」と言う意味を持った言葉と考えてよいと言います。イエスよりも大切なものは何もない、それがイエスの弟子の生き方であるとこの言葉は語るのです。
 そしてその生き方は「自分の十字架を背負ってついてくる者」と言う表現に至ります。十字架はローマが使った最も残虐な処刑方法の道具です。イエスはこの十字架にかけられて死を遂げました。「自分の十字架を負う」と言っても私たちがイエスと同じように十字架にかかって死に、自分や他の人の罪を贖うと言うことではありません。そのような死はイエスにしかなしえないものです。ですからこの言葉は、イエスの弟子として自分の命よりも、イエスに従うことを大切すること、自分の死をも厭わない態度がイエスの弟子には求められると言うことを語っているのです。

3.熟考する

 さて、イエスはここで弟子として生きようとする者に何が求められるのかを説明しながら、二つのたとえ話を語ります。一つは塔を建てようとする人のたとえ話、もう一つは戦いに出ようとする王のたとえ話です。
 韓国では大きな会堂を建てるにあたって、まず献金を集めてから会堂建築に着手するのではなく、会堂建築をしながら、献金を集め、集まった献金で少しずつ建物を建てていくことがあるようです。私は韓国に行ったときに、そんな理由で建設途中だと言う大きな会堂を見学したことがあります。しかし、その場合でも最初に設計図は必要です。おそらく、全体的な予算を作成し、献金が集められる過程で、どこから建てていくかと言う順番に従って工事が進められるのだと思います。
 イエスはそんな計算もしないで塔の建設に着手すれば、途中で予算が絶えて工事が中断して、完成を見ることができない恐れがあると言っています。だから「まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか」、つまり誰でも計算してから工事に着手すると語るのです。
 そして二番目のたとえの場合は、お金の問題ではなく、兵力の問題が取り上げられています。敵は二万の兵を連れてこちらに向かってこようとしています。ところが、迎え撃つべき味方の兵力はその半分の一万人しかいないのです。そのとき王はどうするのか。「まず腰をすえて考えてみないだろうか」。そう言うのです。そして自分の兵力が圧倒的に不利だと分かれば、戦うことなく、相手に和睦を求めるのが賢い王のやり方ではないかと説明しているのです。
 この二つのたとえに共通して出てくるのは「腰をすえて計算する」、「腰をすえて考える」と言う言葉です。これは「熟考する」、「集中してその物事について考えて見る」と言う意味を持った言葉です。イエスの弟子になるために、私たちはよくそのことを熟考する。生半可に判断するのではなく、真剣になってそのことを考えて見る。そのようなことが必要だとイエスはここで語っているのです。
 そしてその上でイエスは「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(33節)。ここで「捨てる」と言う言葉は「さようならを言う」と言った意味を持った言葉であるようです。イエスの弟子となると言うことは、家の増改築をすると言うことでなく、全面立て替え工事をするようなものです。その場合、私たちはまず今まで住み慣れた家を解体する必要があります。そこで更地にされた土地の上に新たな家が建つのです。ここではイエスの弟子の人生が、全く新しい出発であることが語られているのです。

4.どうしたらよいのか
(1)私たちの熟考の結果は

 さて、イエスの弟子として私たちが生きようとする場合、私たちにはこれだけの決心が迫られる。だから生半可な考えではなくて、熟考して、真剣に考えた上で決断すべきであるとイエスはイエスの後を追ってきた群衆に、そしてこの聖書を読む私たちに語りかけていると考えることができます。
 そこで熟考してみて、私たちはどのような答えを主イエスに語ることができるのでしょうか。「やはり、よくよく考えてみましたが、私の力ではとてもイエス様の言う通りに生きることはできません」。そう答えてイエスの前から立ち去るべきなのでしょうか。
 いえ、私たちの命も救いも、イエスを離れては手に入れることができません。ですから、わたしたちは決心します。「命を捨ててまでもあなたにお従いします」。そう私たちは答えるのでしょうか。そう答えることが出来る人はどんなに幸いなことでしょうか。しかし、そう答える前に、やはり私たちはここで腰を据えて考えてみる必要があると思います。なぜなら、聖書には同じような決意を表明したイエスの弟子たちの話が記されており、彼らは結局イエスを捨てて逃げ出してしまったことが記されているからです。
 ルカの福音書の中では弟子の一人ペトロのこんな発言が記されています。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(22章33節)。しかし、その決心を告げるペトロにイエスは次のように語りました。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」(34節)。確かにペトロのこのときの決心は彼の真実な心から出たものだったのかもしれません。しかし、彼は自分が何者であるのかを知りませんでした。自分の決心がどんなに簡単に崩れてしまうものなのかを彼は知らなかったのです。
 また、イエスの弟子の一人トマスはイエスが危険なエルサレムに向かおうとするとき、次のような言葉を語っています。「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(ヨハネによる福音書11章16節)。しかし、この言葉を語ったトマスも同じようにイエスの前から逃げ出してしまいます。彼の挫折感は復活されたイエスが彼の前に直接現れてくださるまで癒されることがありませんでした。
 この弟子たちの姿を示されながら、それでも私たちはここで同じ決心をすべきなのでしょうか。しかし、どんなに威勢の良い決心を口に出来ても、それを守れなければその決心は何の役にも立ちません。

(2)弟子は何を頼りにするのか

 ここでもう一度イエスの言葉に立ち返って見ましょう。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」。イエスは語ります。私たちにとって最も大切なのはイエスご自身であることを、それ以外のものは優先してはいけないと教えられるのです。そしてそこにはおそらく自分の決心も含まれているのではないでしょうか。自分の決心を優先する者はイエスの弟子としてふさわしくないのです。イエスの弟子はイエス自身にすべてを委ねて生きること、それが求められていることをイエスの言葉が示しているからです。
 イエスを裏切り、三度もイエスを知らないと否認してしまったペトロは、復活されたイエスに出会うことによって、弟子としての歩みを再び始めます。トマスも同様に復活のイエスによって弟子としての歩みに回復されたのです。ガリラヤ湖のほとりでペトロはイエスに「私を愛するか」と三度尋ねられています。何度も尋ね返すイエスの言葉を聞いて、イエスを裏切ってしまった自分の弱さを思い出したのでしょうかペトロは悲しくなって次のように答えています。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」(ヨハネによる福音書21章17節)。
 ペトロはここで勇敢な決心を述べてはいません。そんな決心はイエスの弟子として生きようとする自分には頼りにならないことを彼はこのときに痛感していたからです。しかし、彼はその決心の代わりにこう語ります。「主よ、あなたは何もかもご存じです」。「イエス様、私は自分のことが分かりません。しかしあなたは私のことを何もかもご存じです。だから、私は私の人生をあなたにおまかせします」。ペトロはそのように語っているのです。
 イエスの弟子として生きるために、私たちが優先すべきなのは自分の決心ではありません。そうではなく、私たちのことを何もかもご存じの上で弟子として召してくださったイエスを信頼し、そのイエスに私たちの人生を委ねること、それが私たちに求められているのです。そのように生きる私たちにイエスは聖霊を豊かに遣わして、私たちの決心ではとてもなしえないことを私たちの人生に実現させてくださるのです。私たちの信仰生活には確かに十字架を負わざるを得ないような試練の時が訪れます。しかし、そのときでも主イエスは私たちに聖霊を送って助けを与え、十字架を背負ってイエスに従うことを喜ぶ者と変えてくださるのです。
 ですからイエスのこの言葉は決して読み飛ばしてはいけない言葉です。なぜなら、私たちとって最も大切で信頼すべきなのは、私たち自身でも、家族でも、それ以外のものでもなく、主イエス自身であることを明確にのべる福音がここには記されているからです。

【祈り】
天の父なる神様
私たちもあなたを信じ続けて地上の生涯を送った聖徒たちと同じように、自らの十字架を負ってあなたに従うことができるようにしてください。私たちの力ではそれは不可能です。しかし、あなたはそのことを可能としてくださる方であることを覚えます。自分の力ではなく、私たちをよく知ってくださっているあなたに信頼して歩むことができるようにしてください。
 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン


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