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礼拝説教 桜井良一牧師
失ったものを見つけ出す

(2007.09.16)

聖書箇所:ルカによる福音書15章1〜10節

1 徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。
2 すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。
3 そこで、イエスは次のたとえを話された。
4 「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。
5 そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、
6 家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。
7 言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
8 「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。
9 そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。
10 言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

1.イエスに受けられた非難
(1)三つで一つのお話

 このルカによる福音書15章に記されているイエスの語られた三つのたとえ話、「見失った羊」、「無くした銀貨」、「放蕩息子」は三つ集まって一つと言えるようなお話と考えられています。なぜなら、これらのたとえはいずれも同じ動機からイエスが語られたものとなっているからです(1〜3節)。また、その内容においても主題が「失われたものの回復と喜び」と言う点では一致しているところも重要です。そのようなわけで、たとえば最初の二つのたとえ話は三つ目の「放蕩息子」のたとえをよく理解させるために語られたとも考えることができますし、その一方では最初の二つのたとえ話の内容を「放蕩息子」では更に詳しく述べて、補足していると考えることもできるのです。つまりこの三つのたとえ話は切っても切り離せないような関係にあると言えるのです。

(2)対局にある人々

 そこでまず、このたとえ話を理解するために、このお話がどのような理由から、あるいはどのような動機を持ってイエスの口から語られたのかという点に注意を向けて見ましょう。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした」(1〜2節)。

 ここにはまず二つのグループの人々が登場します。一方は「徴税人や罪人」、そしてもう一方は「ファリサイ派の人々や律法学者たち」と呼ばれる人々です。これらの名前は聖書に何度も登場しますから、おそらく皆さんには説明する必要がないのかもしれませんが、もう一度確認する意味でこの二つのグループの人々について説明致します。
 まず後者の「ファリサイ派の人々や律法学者たち」とは当時のユダヤの宗教的指導者たちを指し示しています。彼らは、自分たちはアブラハムの子孫であること、さらにはモーセを通して自分たちに与えられた律法、神の戒めを日々厳格に守っていることで、自分たちこそは神に選ばれた民であると考え、それを誇りにしていた人々でした。
 その一方、前者の「徴税人や罪人」はこの「ファリサイ派の人々や律法学者たち」の対局にある人たちと考えてよいと思います。徴税人はローマ帝国の植民地とされていたユダヤの地で、ローマ政府に代って民衆から税を徴収する仕事を請け負っていました。お隣の韓国では戦争中に日本政府に協力して財を蓄えた人々の子孫たちの処遇がいまだに問題となっていると聞いています。戦争中に日本政府のお先棒を担ぐように韓国の人々を苦しめたと言う罪が問われているのです。このような人々と同じように徴税人は当時のユダヤの人々の増悪の対象とされていました。また、当時の宗教家たちは徴税人をまともな人間として取り扱うことが無かったと言います。
 「罪人」と呼ばれる人々には厳密に言えばこの「徴税人」も含まれていますし、さらにもっと広い範囲の人々が含まれているとも考えることができます。「罪人」と呼ばれる人の大半は宗教家たちが大切だと教える律法に反した行いをする人、また、それを積極的に守ることができなかった人が含まれています。クリスマスの日に最初に天使からイエスの誕生の知らせを聞いた羊飼いは、その職業の故に宗教的な戒めを守ることができませんでしたから、この「罪人」と呼ばれるグループの側の人々と考えられていました。
 「ファリサイ派の人々や律法学者たち」はここでイエスについての非難の言葉を語ります。「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」。「かりにも聖書を教えている者がその聖書の教えに反するような人々と一緒に交わっているなど考えられない」と彼らは言っているのです。だから、そんなことをするイエスは偽教師であると言わんばかりに非難の声をイエスに向けたのです。
 しかし、彼らはイエスを非難する一方で、ここでどんなに驚くべきことが起こっているかに気づいていませんでした。「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」と語られています。ルカは「徴税人や罪人が皆」と表現します。国中の「徴税人や罪人が皆」と考えるのはオーバーだと思いますが、本当にたくさんの人々がイエスの元に集まったことを記しているのかもしれません。しかも彼らは、漠然とイエスの話に耳を傾けたと言うのではなく、意識的に、自分の人生の問への答えを訪ねるように「イエスの話を聞こうとイエスに近寄って来たのです」。普段なら、聖書の教えなど自分たちに縁遠いものだと思っている人々が、熱心に、しかも心からイエスの話に耳を傾ける、こんな驚くべきことがここで起こっているのです。しかし、そのことを喜ぶのではなく、かえって非難する「ファリサイ派の人々や律法学者たち」にイエスはこの三つのたとえ話を語られたのです。

2.99匹の取り扱い方が気になる

 イエスが語られた最初のたとえでは百匹の羊を飼っていた人が主人公となっています。彼は一匹の羊が群れからいなくなっていることに気づき、そのいなくなった羊を苦労して探し出して、連れ帰ることができた話が記されています。そして、この話の結論でイエスは「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」と語られるのです(7節)。
 このお話を読んでよく私たちが問題にするのは、羊を飼っていた人の取り残された99匹の羊に対する取り扱い方です。「いなくなった一匹のために他の99匹を野原に置き去りにするなんて無責任ではないか」。皆さんの中にもそんな疑問を聞いたり、自分でも考えて見たことがあると言う方はいないでしょうか。そんな声が上がるので、「いやいや、この99匹は誰か別の人に管理を委ねて、この人は安心していなくなった羊を探しに出たのだ」と言う解説を挟む人もいるほどです。しかし、聖書の関心は確かにいなくなった一匹の羊にだけに向けられています。この主題に関係がないからこそ99匹はそのまま野原に残されてたと言ってもよいでしょう。
 ところで、どうして私たちは野原に残された99匹をそんなにも気にしてしまうのでしょうか。そのことについてある説教家は、「どうも私たちは自分がこの99匹の方に属していると考える傾向があるのではないかと」と言っています。自分はイエス様を信じて、教会生活を熱心に送っている。それなのにそんな私を差し置いて、教会に一度も顔を出さず、「神様なんて関係ない」と捨てぜりふを残してどこかに行ってしまった人を探しにでるなど何事であろうか。そんな不満が私たちの心に起こってくるからではないかと言うのです。
 ですから、私たちがこのたとえ話を読むときに大切になってくるのは、自分は残された99匹ではなく、このいなくなった一匹の羊なのだと言うことを自覚する必要があると言うことです。そして少なくとも、私たちがイエスを信じ、このような信仰生活を送ることができているのは、この羊飼いが私を捜し出し、連れ戻して下さった結果であることを思い起こしながらこのお話を読む必要があるのです。

3.一つでも失われては意味をなさない

 さて二つめのたとえ話の主人公は一人の女性です。彼女はドラクメ銀貨を10枚持っていました。このドラクメはギリシャの貨幣の単位で、新約聖書中でここにしか登場しないものです。聖書の巻末につけられている「度量衡および通貨」と言うページには「ギリシャの銀貨で、重さ約4.3g、デナリオンと等価」とドラクメについての解説が記されています。現在でも貨幣の価値は歳月によって変化するように、このドラクメの価値も時代によって変化していったようです。解説にはローマの銀貨デナリオンと同じ価値を持つと語られています。デナリオンは聖書に度々登場する貨幣で、当時の労働者の一日分の賃金に相当する価値があるとされています。ところが、このドラクメに関して言えばどうも実際にはそんな価値はなく、むしろ私たちの使っている100円硬貨くらいの値打ちしかないと解説している人もいるのです。
 つまり、この無くなった1ドラクメ銀貨は、普通、その一枚が無くなってもそんなに大騒ぎするものではない、その程度の価値しかなかったと考えられるのです。ところがこの女性は、無くなった銀貨一枚を捜すため大騒ぎをしています。当時、貧しい人々の住む家には小さな窓が一つくらいあるだけで、昼でも部屋の中は薄暗かったようです。だから彼女は、わざわざともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れてその銀貨を捜したと言うのです。そして見つけ出したときには、友達や近所の人を呼び集めて「無くした銀貨を見つけ出しましたから、一緒に喜んでください」と大はしゃぎしています。
 解説家はこのように言います。この銀貨は彼女にとって普通の銀貨ではなく、特別のものだったのではないかと。実は当時の女性は、銀貨を使って自分の首飾りや、髪飾りにする習慣がありました。皆さんも、写真やテレビでそんなアクセサリーを身にまとった人の姿をご覧になられたことがあるかもしれません。彼女にとっては10枚の銀貨が全て一つに集まってこそ意味があるものだったのです。おそらく、それは彼女がその家に嫁ぐ際に嫁入り道具の一つとして持ってきた大切なものだったのだろうと解説家は語ります。そんな大切な宝物の一部ですから。彼女にとって、それは失われてはいけない、他の何者にも変えることができない大切な宝物だったのです。だから彼女は必死にその銀貨を捜して、見つけ出したときには小躍りして喜んだと言うのです。
 イエスはこのたとえ話の結論ではこう語ります。「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」(10節)。一人の罪人がその罪を悔い改めて、神様を信じる、地上ではそれを知る人がわずかであっても、天上では天使たちが大はしゃぎして喜んでいるとイエスは言っておられるのです。

4.神の喜びを自らの喜びとする信仰生活
(1)兄の不満と怒り

 このようにこのたとえ話では罪人たちが悔い改めることを大喜びする天上の姿が記されています。天上の天使はもちろんのこと神様がそのことを喜んで下さっているとイエスはこのたとえ話を通して私たちに語るのです。そして問題はその神様の喜びを理解できない「ファリサイ派の人々や律法学者たち」に向けられます。どうして彼らはこの神様の喜びを理解できなかったのだろうか。彼らはどうして神様の喜びを自分の喜びとすることができなかったのかと…。
 この問題は第三のたとえ話である「放蕩息子」の物語では更にクローズアップして語られています。それは放蕩息子の帰還を喜ぶ父親の姿を知った、二人の息子の内の兄がそのことによって腹を立てる姿にはっきりと表わされています。聖書はこの兄の怒りについて次のように語っています。「兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる』」(28〜30節)。

(2)犠牲を払って私たちを捜し出してくださった神

 兄は父親の元に止まり、父親のために忠実に働いてきたと語ります。しかし、父親はその自分の働きに少しも報いてはくれないではないかと不満を語っているのです。彼はいなくなっていた息子の帰還を喜ぶ父親の気持ちを少しも理解することができません。そして彼は大きな誤解をしています。彼がこれまで立派に働くことができたのは彼の傍らにいつも父親がいたからなのです。彼はその父親の愛によって生かされ、その財産によって彼は支えられてきたのです。ところが彼はそのことを完全に忘れ、あたかも自分一人がここで苦労してきたように語っているのです。
 律法学者やファリサイ派の人々もこの神の愛とその存在を忘れていました。彼らが今、あり得るのは神の豊かな守りがあったからであることをです。そして、神は一時的にその場を離れてしまっている人々が悔い改めて、同じように神様の恵みの中に生きることを願われているのです。
 イエスはこのたとえ話を通して教えています。誰もが神の前から失われていた存在であることを、そしてその失われた存在である私たちを見つけ出すために、イエスはこの地上に遣わされたことをです。羊の持ち主も、銀貨を捜す女性も、放蕩息子の父親も自らの犠牲を惜しむことなく、失われたものが回復したことを喜びます。私たち一人一人はこのイエスの十字架の犠牲を通して、神様の元に連れ戻された羊であり、見つけ出された銀貨の一枚なのです。神様は私たちのことをどんなに喜んでくださっているのでしょうか。天上では私たちの想像を遙かに超えた歓声が私たちのために沸き上がっていると言うのです。この私のために、喜んで下さる神様、その姿を私たちはこのイエスのたとえ話から教えられます。そしてその神様の喜びを、自らの信仰生活の喜びの根拠とすることをイエスはここで教えておられると言えるのです。


【祈祷】
天の父なる神様
 あなたは私たち罪人の死を喜ばれません。むしろ悔い改めて、命の道に立ち戻ることをあなたは望まれ、そのため御子イエス・キリストをこの地上に送ってくださいました。いなくなった一匹の羊を捜す人のように、失われた一枚の銀貨を捜す婦人のように、あなたは私たちを捜し求め、そして今、捜し出してくださいました。そしてあなたは私たちがあなたのもとに帰ったことを喜んでくださいます。私たちのために喜ばれるあなたの喜びを私たちの信仰の喜びの根拠とさせてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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