5 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、 6 主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。 7 あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。 8 むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。 9 命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。 10 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
1.助からなかった理由は? (1)信仰生活に対する様々なアドバイス ルカの福音書を続けて学んでいます。ルカが紹介するイエスは15章で失われた者たちを探し求める神の姿を語ります。また次の16章では信仰と金銭の問題が取りあげられ、自分に与えられた富を自分のためだけではなく、友のために使うべきであることが教えられます。さらにこの礼拝では飛ばすことになりましたが、16章の後半ではお金に執着するのではなく、聖書のメッセージに耳を傾けるべきであると言うことが語られています。イエスは富や金銭を否定するのではなく、積極的にそれらを有効に使うように教えています。しかしその反面、富や金銭に支配されて、私たちの人生にもっと大切なことがあることを忘れてしまうことがないようにと私たちに忠告しているのです。 17章の最初には赦し、信仰、奉仕と私たちの信仰生活にとって大切な問題が短い言葉で次々と取り上げられています。今日の朗読箇所は「信仰」についての問題が取り上げられているところから始まっています。ここでは「使徒たち」、これはイエスの弟子の中でも特別に選ばれた人たちでした。その彼らがイエスに向かって「わたしどもの信仰を増してください」と語りかけています。 (2)信心が足りなかった だいぶ以前、こんなお話を聞いたことがあります。ある人が病院で「もう手遅れです」と医師から診断を下されました。するとそのことを聞きつけて、ある新興宗教の信者たちがその人のところを訪れて、「この信心すれば必ず病気は治る」と勧誘してきたと言うのです。そこで藁をすがる思いでその人は薦められるままにその新興宗教に入り、一生懸命に信心生活に励んだと言うのです。ところが、残念なことに結局、その方の病気は癒されないまま、この世を去ることになってしまいます。ところがそれでは納得いかないのはその一部始終を知っているその人の家族です。「『病気が治る』と信じて、一生懸命に信心生活に励んだのにどうしてか」と尋ねたと言うのです。するとこんな答えが返って来たと言うのです。「あの人の信心が足りなかったのです」と。結局この言葉を聞いたその家族はそれ以来、宗教と名のつくものにすべて不信感を抱き、拒否反応を抱くようになりました。 これはキリスト教の話ではありません。そもそもこの話に登場する人々は信仰を自分の願望を実現するための魔術のように考えているところがあります。しかし真の信仰とは私たちの願望ではなく、神様の計画が私たちの上に実現することをいつも願うものなのです。その点で、彼らの信仰は聖書の教える信仰とは全く性格を異にしていると言っていいでしょう。 しかし、私たちは別の意味で「信仰が足りない」と言う言葉を聞くことがないでしょうか。私たちは信仰生活を送りながらも、その生活がどうも思わしくないと考えるとき、「自分の信仰が足りないからではないか」と考えることがないでしょうか。あるいは、教会で交わりを持っている兄弟姉妹が、悩みや苦しみを語るとき「あなた信仰が足りないのではない。もっと、神様を信じなさい」そんなアドバイスをすることはないでしょうか。「信仰が足りない」。はたして私たちの信仰の問題の原因はそこにあるのでしょうか。 2.信仰が足りない? ここに記されているいくつかのイエスのお話は別の福音書にも同様のお話が紹介されています。しかし、他の福音書ではここに語られているイエスのお話はそれぞれ切り離されて別々の場所で語られています。そこで聖書学者たちは、この福音書を書いたルカはイエスが別々に語った言葉を、ある編集意図を持って再構成していると考えるのです。つまりルカはここに語られるイエスの数々の言葉を一つにつなげることで私たちに何かを伝えようとしたと言うのです。 「わたしどもの信仰を増してください」。使徒たちはイエスにそう願いでました。しかし、彼らがそう願い出たのは、「自分の病気を治してほしい」とか、「自分の願望を実現させてほしい」と言う理由からでなかったことを、ルカの福音書の構成は語っています。ルカはこの使徒たちの発言の前に、次のようのイエスの言葉を紹介しているからです。「もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(17章3〜4節)。 最近、大相撲部屋で起こった事件が連日のように報道されています。大相撲の力士は辛い修行で鍛えられて強くなっていくのでしょうが。その修行を遙かに逸脱するような出来事が起こったと報道は告げています。詳しい事情は分かりませんが、しかし私はそこに私たち人間が陥りやすい落とし穴があったような気がするのです。 イエスは人間関係に置いて問題が起こるのは避けがたいと17章の最初で説明されています。だからもし、相手に誤りがあるならそれを正直に忠告すべきであると教えるのです。その上で相手が悔い改めたなら赦してやりなさいとイエスは命じています。しかも、同じ人物が日に七回、自分に対して罪を犯しても、その都度悔い改めるなら赦してやるべきだと使徒たちに語られたのです。 おそらく、皆さんも想像できると思います。「ごめんなさい」と謝って来た当人が、その口の先も乾かない間にまた誤りを犯す。「ほら、またじゃないか」とこちらがその誤りを指摘すると、すぐに「ごめんなさい」と言ってくる。ところがまた、その人はすぐに自分を害するような罪を繰り返し犯す。もし「イエス様の命令だからしかたがない」と思いながらその都度赦すことができたとしても、こちらの側には解決しようのない怒りがたまって来るのではないでしょうか。それが七度目となったらついに、あるいはその前でも堪忍袋の緒が切れたとばかりに、つもりつもった感情が爆発してしまうことがあります。それが暴力に発展するとは言えなくても、その人間関係は決定的な決裂を迎えるはずです。 イエスの赦しについての命令を聞いた使徒たちはたぶん「これはたいへんなことだぞ」と思ったはずです。だからこそ彼らはイエスに「わたしどもの信仰を増してください」と願い出ざるを得なかったとルカは説明しているのです。 3.信仰の力 使徒たちはこの厳しい命令をイエスの口から聞きました。そのとき、彼らは自分たちがイエスの弟子である以上、この命令を拒否することはできないと思ったのでしょう。しかし、同時にこの命令を守る自信は彼らにはなかったのでしょう。そして自分たちがその命令を守るには、力が足りない、だからその力を与えてほしい」、そう考えた結果が「わたしどもの信仰を増してください」と言う願いになったと言えるのです。つまり彼らは、問題は自分たちの力不足、信仰不足にあると考えたのです。ところがイエスの答えは彼らの考えとは全く違ったものだったのです。 「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」(6節)。 「からし種」は聖書の他の箇所にも登場します。一ミリにも満たない小さな種です。おそらく風に吹かれてどこかに飛んでしまったら、私たちの肉眼では見つけようがないような小さな種です。そのからし種一粒の信仰があれば、私たちが考えられないような奇跡を起こす力があるとイエスは言うのです。つまり、このイエスの言葉、「人を赦すことができないのは、あなた達の信仰が足りないからではなく、信仰がないからだ」と言うたいへん厳しい返答になっているのです。 弟子たちがここで誤解しているのは信仰の力を自分に兼ね備えられた何らかの力と考えた点にあるようです。自分の力だからこそ、それはなんらかの訓練次第で大きくもなるはず、あるいは何らかの助けによって補われることができるはずだと考えたからです。しかし、イエスが語る信仰の力は完全に神様のものなのです。神様が全能であるように、信仰はどんなに小さく見えて完全な力を持っていることをイエスは教えておられるのです。つまり、イエスは「人を赦すのは神の力であり、その神の力が信仰を通して私たちに現れるのだ」と言われたと言ってよいでしょう。 4.しなければならないことをしただけ (1)神をみ業を盗み取ってはならない イエスは信仰について私たち人間が抱きやすい誤解を次のたとえ話でも語ろうとしています。ここでは僕が主人のために働くのは当たり前のことで、もし彼がそこで一生懸命に働いたとしても主人から感謝の言葉を聞こうとするのはお門違いであるとイエスは語ります。むしろ、僕はどんなときにも主人に「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」と言うべきであると教えているのです。 宗教改革者のカルヴァンのキリスト教綱要を読んでいたとき彼は何度も「私たち人間の内からはよきものは何も出てこない」と語り、「もし、私たち人間からよきものが出るとしたら、それはすべて神様から与えられた賜物である」と言っています。つまり、私たちが信仰者として神様によき奉仕ができるのは、神様が私たち一人一人に聖霊なる神を遣わして、その業ができるようにしてくださるからだと言っているのです。そうであるなら、私たちは自分のなし得た奉仕の業を誇ることはできません。もしそれをするなら、私たちは神様のみ業をあたかも自分のなした業のように盗み取ることになるからです。その点で私たちは、神様に自らの奉仕を根拠に何か報酬のようなものを求めることは許されませんし、それは大きな誤りであると言うことができるのです。 (2)負債を返しただけ またここでもう一つ注目すべきは僕が語るべきだとイエスが言われた「しなければならないことをしただけです」と言う言葉です。この言葉は別の言葉に置き換えると「自分の負債を返しただけです」と言う言葉になります。つまり私たちは神様に莫大な借金があり、私たちの奉仕はその借金を返しているにすぎないものだと言うことになります。それではその借金とはどのようなものでしょうか。それは私が救われるために、私が死からいのちへと回復されるために、神様が払われた犠牲を指しています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネによる福音書3章16節)。 神が支払った犠牲とは、その独り子イエスの命です。私たちはこのイエスの命と引き替えに、買い取られ、神の子とされた者たちなのです。ですから、私たちはそのために神様に決して払いきることが不可能な負債を負っているのです。だからこそ、イエスは私たちが神様に奉仕をするときに、「しなければならないことをしただけです」と命じているのです。そして私たちが神様に仕えるのは神様の支払われた犠牲に心からの感謝を持って応答する自然な姿であると教えているのです。ですからもし私たちが神様にこの言葉が言えないとしたら、それこそ私たちは神様の支払われた犠牲を理解していないことになり、神様との不自然な関係に陥ってしまっていることを知りなければならないのです。 5.言い訳が出来ない信仰の世界 今日のイエスの言葉は私たちにとって大変厳しい言葉であるかもしれません。たとえば赦しの問題を考えてみましょう。「赦しても、赦しても裏切られる、もう人間として限界です」と匙を投げることが私たちにはよくあります。「私の力の限界です」と叫びたくなるようなときがあるのです。しかし、イエスはそのような私たちの言い訳を受け入れてはくださらないのです。むしろ「それはあなたが自分の力でやろうとしているからでしょう。私が与える信仰の力を使いなさい。私にはそんな言い訳は通用しない」と言われからです。 今週の金曜日のフレンドシップアワーではパウロの記したローマの信徒への手紙の一部を学びました。パウロはその箇所で自分の同胞であるイスラエル、つまりユダヤ人の救いについて語っています。神を信じ、聖書の約束に一番精通しているはずのユダヤ人が、神様の約束に従って来られたイエス・キリストを迫害し、十字架で殺してしまいました。そればかりではなく、かつての自分もそうであったように、ユダヤ人たちはキリストを信じる人々を目の敵にして、迫害し続けています。しかし、パウロここで自分の願いはユダヤ同胞がキリストを信じて、神様の救いにあずかることだと言うのです。そのとき目に見えるユダヤ人の姿は全く救われる可能性のない者たちに見えます。「他の人が救われても、この人たちはだめだろう」と結論づけても良いような姿を持ってユダヤ人たちはパウロの前に立っているのです。しかし、パウロは決して諦めていないのです。そして彼が諦めない根拠は「人は行いによるのではなく、恵みによって救われる」からだと言うのです。「いかなる人間の可能性も見いだせなくても、神が働かれれば可能になるそれが福音の原則である。だから自分はあきらめない」とパウロは語るのです。 赦し、信仰、奉仕についてイエスは今日の箇所で教えてくださっています。しかし、その全ての事柄の背後にはこの福音の原則「人は行いによるのではなく、恵みによって救われる」と言う教えが貫かれています。私たちは自分の信仰生活でたびたび壁にぶつかり、気を落ちして語ります。「もう限界です」と。しかし、イエスはその私たちに「信仰によって立ち上がりなさい」と語らえるのです。そして神様の力によって、あきらめることなくイエスの弟子としての歩みを続けなさいと私たちに教えてくださっているのです。 【祈り】 天の父なる神様 私たちに聖霊を通して信仰を与えてくださったことを感謝いたします。私たちはこの信仰があなたから与えられたものであるにも関わらず、いつの間にか自分の力や才能の一つのように考え、あるときにはそれによって傲り高ぶり、またあるときは卑屈になるような誤りを繰り返します。私たちから出るよきものすべてはあなたからくる恵みであることを信じさせてください。そして私たちの信仰を通して神様の御業が実現されることを確信させてください。私たちのためにイエス・キリストの命を犠牲として捧げてくださったあなたに感謝します。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。 このページのトップに戻る