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礼拝説教 桜井良一牧師
イエスのもとに戻って来て

(2007.10.14)

聖書箇所:ルカによる福音書17章11〜19節

11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。
12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、
13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。
14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。
16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。
17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。
18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」
19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

1.重い皮膚病
(2)差別され続ける人々

 今日の聖書の箇所では「重い皮膚病を患っている十人」と呼ばれる人々がまず登場しています。聖書をこの新共同訳以前から読まれている方々はむしろ「重い皮膚病」よりは「らい病」と言う言葉の方が聞き慣れていると思います。新共同訳以前の聖書の訳ではこの部分は「らい病」と言う言葉で訳され続けてきたものです。私が持っている英語のニューインタナショナル・バージョンでもこの部分は「らい病(Leprosy)」という英語の言葉で訳されています。この言葉がどうして現在のような「重い皮膚病」と言う言葉になったかと言うことには理由があります。それはこの言葉を「らい病」と訳すことで実際のらい病患者に対する差別を助長することがないようにと言う配慮がなされたからです。更には、この聖書が記された時代には現代のように医療が発達していませんでしたから、現代医学が「らい病」と診断する病気がイコール、聖書の語る「らい病」とは言い切れないと言う理由がそこには加えられています。
 いずれにしても、この言葉が新共同訳で「重い皮膚病」と言う言葉に訳し換えられた理由の背後には現代でも色濃く残る「らい病」患者の方々に対する差別の問題があると言うことができます。日本でもつい最近まで「らい予防法」と呼ばれる法律が残っていました。その法律はらい病患者を救うと言うよりは、不幸にもらい病にかかった人たちを家族から引き離し、遠い施設に隔離し、彼らの存在を最後には抹殺すると言う非人道的な行為が行われたのです。

(2)汚れた存在?

 聖書ではレビ記13章45〜46節に重い皮膚病を患う人に対する律法の言葉が記されています。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、「わたしは汚れた者です。汚れた者です」と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」。この病気に苦しむ人々は自らがその病気にかかっていることを誰にでも判断できるような行動を取る必要がありました。また彼らは自分が所属していた共同体から離れて、ひっそりと暮らすことが求められています。いつの時代にも「らい病」患者は厳しい状況に置かれていたいことは確かですが、特に聖書の世界ではこの病気にかかったものは「汚れた者」つまり、宗教的な観点から忌み嫌われ、まるで神様に呪われている者のような存在として取り扱われていたのです。
 今日の聖書の箇所ではこの十人はイエスから遠く離れた場所に立ち、そこから声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言ったと記されています。彼らの行動はこの旧約聖書の律法の規定に従ったもので、彼らはどんなにイエスに会いたくても、またそのイエスに助けを求めたくとも、イエスの近くに近寄ることは許されていなかったのです。

2.サマリア人とユダヤ人

 この物語を理解するためにもう一つ解説しておきたいものは、この中に出てくる「サマリア」あるいは「サマリア人」と言う言葉です。聖書に付録としてつけられている巻末の聖書地図を見るとこの「サマリア」はエルサレムを中心とするユダヤ地方よりも北に位置する地帯、またイエスが活動されたガリラヤからは南に位置する地域を言っていることが分かります。この地域は昔、ソロモン王の死後に王国が分裂し、南のユダ王国に対して北イスラエル王国が作られた場所です。そしてこの北イスラエル王国は紀元前8世紀頃、大国アッシリアに滅ぼされてしまいます。そのアッシリアはこの地域に海外からたくさんの移民を送りました。その結果、南のユダヤ人はこの地域にすむサマリア人を「外国人」と蔑み、双方の間には紛争が絶えず起こり、互いを憎み合う関係にありました。
 ちなみに、このサマリアよりも北方に位置するガリラヤはある時代に南のユダヤ人たちが入植を始め、彼らによって町や村が作られました。ですからこのガリラヤは人種的にも宗教的にも南のユダと同じ立場にあったと考えることができるのです。そこでイエスを始め、ガリラヤ出身のイエスの弟子たちはユダヤ人として、このサマリアの地方の人々とは激しく対立する関係に本来はあった人々だと言うことが分かります。
 サマリア人は昔より、ユダヤ人たちが信じ敬っていたエルサレム神殿ではなく、サマリアにあるゲリジム山こそが神の聖所と主張していましたし、聖書もモーセが書いたと考えられていた五つの書物(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)だけを信じていました。つまり、先ほどのレビ記の律法の規定はユダヤ人にもサマリア人にも共通する決まりであったことにもなります。
 今日の箇所ではこの憎み合っていたユダヤ人とサマリア人が不思議なことに一緒に行動しています。これは普通であればあり得ない状況ですが、彼らは自分たちが「らい病」患者として人々に見捨てられ、忌み嫌われていた立場を共有していたために、一緒に行動を共にするようになったのだろうと考えることができます。

3.イエスの言葉によって癒される
(1)イエスの言葉に従う

 さて、イエスはご自分に助けを求めるこの十人の声に耳を傾けられます。そして「イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた」(14節)と言うのです。イエスの「祭司のところに行って、体をみせなさい」と言うアドバイスは当時、らい病にかかった人を共同体から排除することも、またその人を復帰させることも「祭司」の勤めであったことから出てきます。つまり、既に共同体を排除されていた彼らがもう一度、祭司のところに戻って自分の体を見てもらうと言うことは「病気が治ったから、元の生活に戻らせてほしい」と言うことを願い出て、彼らの判断を仰ぐためのものだったのです。
 聖書を読むとイエスがこの言葉は語ったときは十人はまだ病気が癒されているようには記されていません。むしろ、彼らの病が癒されるのはこのイエスの言葉に従って、祭司のところに行く途中に起こったことだと聖書は語ります(14節後半)。つまり、このイエスの「祭司のところに行って、体をみせなさい」と言う言葉は単なる指示と言うよりは、それを受け入れる彼らに「イエス様がそう言うのだから、その言葉に従えば病気は必ず治るに違いない。その言葉通りにしみよう」と言う強い信仰を要求させる言葉であったことが分かります。

(2)預言者の言葉に従う

 今日の礼拝の最初にお読みした旧約聖書の列王記下5章は預言者エリシャの時代に今日の出来事と似たいような奇跡が起こったことを記しています。当時、イスラエルと対立する隣国アラムには勇敢な将軍でありながらも、らい病に苦しむナアマンと言う人物がいました。八方手を尽くしても病気が治らないナアマンは最後の手段として隣国イスラエルに住む、預言者エリシャの元を訪れ、彼に祈ってもらうことで神様からの癒しを受けたいと願ったのです。ところがエリシャの元を訪れたナアマンに対して、エリシャは玄関先に顔を出すこともしないまま「ヨルダン川に行って7回、身を沈めなさい」と伝言を人づてに伝えます。そこでナアマンはこの言葉を聞いて、怒ってそのまま国に帰ろうとしました。しかし、知恵深い彼の部下の1人が「預言者の言っていることは難しいことではありません。せっかくここまで来たのですから、その通りにしてみたらどうでしょうか」と言う言葉に耳を傾け、ヨルダン川に身を沈めることになります。ナアマンがヨルダン川に七回身を沈めるとその瞬間、彼のらい病は完全に癒され、彼は肌は生まれたばかりの赤ん坊のようになったと聖書は告げています(14節)。
 ナアマンが預言者の言葉を聞いてその通り行ったときに、彼の病は癒されました。ここでも10人の人々はイエスの言葉だけを信じて、祭司の元に行こうとしたとき、その道の途中で癒しが起こったと記されています。神様のみ業は私たちがそれぞれ自分勝手な思いを語り、自分の気の向くままに行動するとき起こるものではありません。むしろ私たちが神様のみ言葉に耳を傾け、その言葉の通りに行動するとき、神様のみ業が私たちを通して実現されるのです。

4.サマリア人の信仰
(1)サマリア人と他の9人との違い

 さて、イエスのみ言葉を信じ、その通りに行動した10人はそのらい病が癒されると言う奇跡を体験します。しかし、物語は「めでたしめでたし」とここで終わってしまうのではありません。むしろ、福音書はこの後が大切とばかりに私たちに語り続けます。

 「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった」(15〜16節)。

 イエスによって病が癒された10人のうち1人、しかもユダヤ人からはいつも「外国人」と蔑まれていたサマリア人が「自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た」と言うのです。この「大声」と言う言葉はギリシャ語では「メガフォン」の元になった言葉が使われています。きっと彼はみんなが驚くような大声で神を賛美したのだと思います。
 どうして、彼は大声で神を賛美し、またイエスの元に戻って来たのでしょうか。福音書記者ルカはそのことを読者に悟らせ、また訴えるためにこのサマリア人の出来事を語り続けます。そしてその理由はサマリア人が「自分がいやされたのを知った」からだと説明するのです。おそらく「自分がいやされたのを知った」のは他の9人も同じであったのではないかと思われます。しかし、大声で神を賛美し、イエスの元に戻ってきたのはこの人だけで、他の9人は戻ってきませんでした。つまり、このサマリア人と他の9人では自分が癒されたことを知って、理解したこと、分かったことに違いがあったことがここから推測できるのです。

(2)人生の全容を照らす光

 いったい彼はそこで何を理解したのでしょう。それは彼が神を大声で賛美して、イエスの元に戻ってきたことから考えることから考えることができるでしょう。まず、彼が理解したのは神様と自分との関係です。そして、その関係を考えたときに押さえがたい神への感謝の思いが彼の心に溢れたのではないでしょうか。それは今までは彼が自分の人生では感じることができなかった思いです。むしろ彼は今まで長い間、自分がらい病であることから自分は汚れた者、神から呪われた者と言うレッテルを人々から貼られ、自らもその運命を嘆くことでその人生の日々を送ってきたのです。ところが彼はこのとき自分が癒されるたことを知って、この神様との関係が自分が考えてきたものとは全く違っていたことを悟ったのです。
 「自分は今まで神様から見放されていたのではないのだ。むしろこの素晴らしい癒しをいただくために、導かれてきたのだ。この神様のみ業が自分の上に現れるために、今までの人生があった」と言うことを彼は知ることができたのです。光の差し込まない場所で、私たちは手探りしながらそこに何があるかを確かめます。しかし、私たちの知り得るのはわずかに自分が手を触れた場所ばかりで、そこにいったい何があるのか検討がつきません。彼もまた、今まで暗闇で手探りをするような人生を歩んで来たのです。しかし、今、このイエスの癒しを通して彼の人生に真の光が降り注ぎました。そしてその光によって彼は人生の全容を見たとき、彼は神を大声で賛美せずにはおれなくなったのです。
 また、彼は神に感謝を捧げるためにイエスの元に戻ってきました。神様に感謝を献げるならばサマリア人であればまず、ゲリジム山を思い浮かべるはずなのに、彼はイエスの元に戻ってきたのです。真の神様と出会い、真の神様に感謝を献げるのはエルサレムでもゲリジム山でもなく、このイエス・キリストを通してのみ可能であることを彼はこの出来事を通して知ったからです。だから彼はイエスの元に戻ってきたのです。

(3)サマリア人の信仰

「それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」」(19節)。

 本来であるなら、この奇跡は今申しましたように神様のみ業、イエスのみ業の結果起こったことと言うことが適切ではないでしょうか。ところがイエスはこのサマリア人に「あなたの信仰があなたを救った」と語っているのです。これはどういうことを意味しているのでしょうか。このサマリア人は何か他の人よりも優れたものを持っていたと言うのでしょうか。そうではありません。むしろ私たちの信仰は私たちの人生にこの神様のみ業、イエスのみ業が豊かに実現していることを認め、それを受け入れるものだと言えるからです。
 私たちの人生に起こる様々な出来事、それは人から見るなら同じような出来事であると考えてもいいようなことがたくさんあります。この聖書の中でも10人の人が同じ癒しを受けました。しかし、イエスの救いを受けたのはこのサマリア人1人でしかなかったのです。なぜなら、サマリア人はその同じ出来事を神のみ業、イエスのみ業として認め、受け入れることができたからです。そしてそれが彼の信仰であったとイエスによって語られているのです。
 私たちの人生にも様々なことが起こります。しかし、それを私たちは神様のみ業、イエス様のみ業が現れるためのものだと信じているのです。もちろん、私たちの人生には私たちにとって都合のよい出来事だけが起こるものではありません。時にはこのサマリア人のように神様に見放されているのではないかと思わざるを得ないような辛い出来事、苦しい出来事がその人生に起こることがあります。しかし、私たちはその出来事をいつもイエス・キリストを通して理解しようとします。イエスがその命を引き替えに、私たちを救い出してくださったのです。そのイエスが私たちを導いてくださるからには、この出来事が必ず私たちの祝福のためにあると言うことが理解できるのです。ですから、私たちは今日も神様に感謝を献げることが可能なのです。
 らい病で苦しみ、差別され、過酷な人生を送った人の中には、今も昔もたくさんの信仰者が実際に存在します。彼らのほとんどはこの聖書の人物のように、実際の体の癒しは受けることができませんでした。しかし、彼らはこの聖書の人物と同じように真の救いを受け、神を賛美する人生を送りました。それはどうしてでしょうか。イエス・キリストに出会うことによって、闇に閉ざされ、手探りしながら歩かざるを得なかった彼らの人生に、真の光が差し込んだからです。その光によって自分たちの人生には神様の愛に満ちた、計画があることを知ることができたからです。私たちも、このイエス・キリストに出会い、彼の言葉を信じるならば、この救いを受けることができます。そうすれば私たちの人生に真の光が降り注ぎます。そしてそのことを今日の箇所は私たちに教えているのです。

【祈とう】
天の父なる神様。
 かつて私たちは闇の中を手探りしながら生きていました。そのためにあなたの愛の計画が私たちの人生にあることも、あなたが私たちを導いてくださっていることも知らないでいました。しかし、今、私たちは救い主イエス・キリストに出会い、彼の御業を体験することで光りを受けました。私たちの人生が呪われたものではなく、素晴らしい祝福に満たされたものであることを知りました。ですから私たちもまた大声で神様を賛美することができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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