9 自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。 10 「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。 11 ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 12 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』 13 ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 14 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
1.他人を批判する祈り 先日は定期大会に出席するために久しぶりに大阪に行き、その帰路、懐かしい神戸の町を電車の車窓から眺めることができました。六甲山を背にして多くの家屋が並んでいる神戸の町を目にすると25年前に神学校で学んでいた日々が昨日のことのように思い出されました。 神学校では毎朝、祈祷会が行われます。確か朝食が7時半から始まり、その前の祈祷会は7時から始まりました。神学生が毎朝交代して聖書を1章づつ解説した後、出席者がグループに分かれて祈り合います。よく寝坊して、この祈祷会に出られないこともありましたが、みな個性の豊かな神学生たちの集まりです。この祈祷会についてもいろいろな思い出があります。ある神学生の祈りはともても変わっていました。彼はよく祈りを通して、一緒に生活している神学生を批判するのです。おそらく、本人は真面目にとりなしの祈りを捧げていると思っているのでしょうが、聞いている私たちにはどうしてもそのように受け取れないのです。「神様、勉強もしないで、他人に迷惑をかけている者がいます。彼が神学生の本来の使命を悟り、勉学にいそしむことができるようにしてください…」。その祈りを聞いていると、具体的な名前は出てこないのですが、誰がやり玉に挙げられているのかがすぐに分かるのです。 彼の祈りの特徴は「こういう人がいます」と言う言葉が何度も登場しますが、決して「私たちは」と言う言葉を使いません。つまりその悔い改めなければならない者の内に自分がいますとは祈らないのです。自分はいつも、その問題や誤りの当事者とは違うことが前提となった祈りなのです。だから、どうしても彼の祈りを聞いていると誰かを批判しているようにしか聞こえないのです。 2.自分に頼るファリサイ派の人 (1)自己アピールする祈り 今日はイエスの語られた「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえから学びます。このたとえには同じように神殿に上り、祈りを捧げた二人の人物が登場します。しかし、その祈りの言葉、また姿勢は大変対照的なものでした。まず、一方のファリサイ派の人についてはこのように語られています。 「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』」(11〜12節)。 このファリサイ派の人の祈りにはいくつかの特徴があります。まず、彼の祈りは否定文と肯定文を使いながらも、どんなに自分が信仰者として優れているかをアピールしています。私は聖書に禁じられているようなことは「していません」、また信仰者としてふさわしいと教えられていることが進んで「しています」と彼は祈りの中で語るのです。 彼の祈りはまるで入社試験の面接を受けてる人のような言葉が続きます。入社試験では試験官が受験者に「自分のセールスポイントをいくつかここで言ってください」などと尋ねます。ですから試験を受ける人間はあらかじめ、自分がどのような点で優れているのかをアピールできるよう準備するのです。「自分はこのような点で優れている。だからもし、自分をここで雇用しなければ、あなたの会社は損失を受けるかもしれません」。仕事を得たい受験者は試験官そのように説得することに務めます。このファイリサ派の人の祈りは、これによく似ています。彼は神様を説得しているのです。あたかも、「こんなに優れた自分をあなたが受け入れないなら、あなたは大損害を被りますよ」と言わんばかりの内容です。 (2)相対的な自己評価 彼の祈りのもう一つの特徴は、自分が信仰者として優れた人物であることをアピールするために、そうでない人を登場させて、他人と比べると自分がどんなに優れているかが分かると言っている点です。自分が「奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく」と言う言葉の背後にはそれをしている人たちの存在があります。また「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と言う言葉の背後にもそれが出来ない人がいることが前提となっているのです。更に彼は、このときたまたま近くにいた徴税人を祈りの中に登場させて「また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」と祈るのです。 徴税人はローマ帝国への税を取り立てる仕事を請け負い、更にはその税に自分の受け取る分の賂(まいない)を上乗せして人々に金品を要求しました。ですからユダヤの国では彼らはともて評判が悪く、誰からも冷たい目で見られていたのです。その徴税人を彼は祈りの中に登場させ、自分は「こんな惨めな存在ではないことを感謝する」とまで祈ったのです。 この点を考えると彼の自己評価は究めて相対的なものであると言うことが分かります。彼は自分の優れた点をアピールするために、そうではない人を必要としていました。ところで皆さんはこんなことを感じることはないでしょうか。親しい友人がとても優れたことを成し遂げて人々から賞賛を受けると、それを素直に喜べないばかりか、返ってがっかりしてしまう。その反対に友人が、大きな失敗を犯して困っていると、「あいつも失敗することがあるのだ」と心の底で安心することがないでしょうか。私はよくそんな気持ちに自分がなっていることに気づきます。それはいつも他人と自分をくらべて自分の評価を考えているからです。そうなると私たちは当然、他人の成功を喜べず、他人が失敗している姿を見て、表向きには同情しているように振る舞いながらも、陰ではそれを喜んでしまうことになります。このような点から言えば私たちもこのファリサイ派の人の祈りと全く無縁なところにあるとは言い切れないような気がします。 3.徴税人の祈り それではもう一方の徴税人の祈りはどのようなものだったでしょうか。 「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』(13節)。 エルサレム神殿の境内はたいへん広く、幾重にもその空間は区切られていました。その神殿の中心部分に置かれている至聖所、それは契約の箱が置かれているところでした。そこには一般の参拝客は入ることができませんが、ファリサイ派の人はその至聖所に最も近いところに進み出て、この祈りを捧げたのだと思います。しかし、もう一方の徴税人は神殿の遙か後方、神様の聖なる場所に近づくのさえ畏れ多いと言った感じで立ちすくみます。彼は目を天に上げることなく、胸を打ちながら祈りました。これは彼が自分の生き方を深く悔いていることを現わす行為です。そして一言「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈ったと言うのです。 彼は自分を誇る言葉を一切語りません。「他人は自分をいろいろ中傷しますが、私にもこんな優れた点があります」と言った言い訳も一切語らないのです。そうではなく、彼は神様に自分のありのままの姿を示し、その上で「罪人の自分を憐れでください」と祈ったのです。彼の心の痛切な叫びが聞こえてくるような祈りです。彼の祈りには他の第三者は登場しません。それは神様の前に一人になって立ち、神様の前に向き合う祈りとでも言えるでしょうか。 カルヴァンのキリスト教綱要の最初のところでは「アブラハムは主なる神の栄光を見ようとして近づけば近づくほど、自分が土の塵に過ぎないことをますます実感したし、エリヤは神が近づきたもう時に顔を覆うことなしには待つに耐え得なかった…」(第1巻第1章第3節)と言う言葉が記しています。つまり人は神様に近づけば近づくほど、返ってその栄光の光に照らされることで自分の惨めさに気づき、神様に顔を上げられなくなると言っているのです。このカルヴァンの言葉に従えばまさに、この徴税人は神殿の遙か後ろに立っていたのですが、その心は誰よりも神様に近づいていたことが分かります。 4.私たちの祈りを可能とする者 (1)自分を頼りにする祈り さてイエスはこのたとえの結論でこのように語ります。 「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(14節)。 神様に「義とされて家に帰ったのは」この徴税人で、あのファリサイ派の人ではなかったとイエスは語ります。神様に「義とされる」、それは言葉を換えれば神様が彼を受け入れてくださったと言うことです。彼と神様との関係が回復されたことを語ります。いなくなった羊が見つかり、失われた銀貨が見つけ出され、放蕩息子が帰ったように、今、この徴税人は神様の元に帰ることができ、神様との関係が回復されたのです。 それではどうして、この徴税人の祈りは神に受け入れられ、ファリサイ派の人の祈りは神に退けられたのでしょうか。まずそれを知るために、ここでもう一度注目したいのは、このイエスのたとえがどのような人に語られたかと言う記述です。「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された」(9節)。このたとえはフィクションではなく、このお話に登場するファリサイ派の人と同じような人が実際に存在したのです。そして、イエスはこのたとえ話をそのような人に向けて語ったのです。 「自分は正しい人間だとうぬぼれる」と言う文章の「うぬぼれる」と言葉はギリシャ語では他に「信用する、信頼する」と言う意味を持っています。つまり、このたとえで登場するファリサイ派の人、そしてイエスからこの話を聞かされた人たちは「自分を頼りにしている人」であったと言うのです。ですから、どんなに神殿で祈っていても、彼らは神様の助けを求めているのではありません。自分を頼りにしているからです。これでは神様の出番はありません。そして当然、その祈りは神様に届くことはないのです。 (2)ありのままの自分を示して助けを求める もう一方の徴税人の祈りはそうではありませんでした。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」。彼は罪人である自分のありのままの姿を認め、心から神様の助けを求める祈りを献げたのです。彼は神様を心から頼っているのです。 イエスはかつて御自分が地上に遣わされた使命をこのように語りました。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(31〜32節)。この言葉に従えば、ファリサイ派の人は「自分は健康だから医者はいらない」と思っていたことになります。そしても一方の徴税人は自分が深刻な病に陥っていることを悟り、それを癒してくれる医者を心から求めたことになるのです。 さて、私たちはこのたとえに登場するファリサイ派の祈りと徴税人の祈りのどちらが自分の祈りに近いと思えるでしょうか。本来、私たちは自分の弱さを認めることはできません。そして「どこかに優れたところがある」と自己弁解を繰り返します。そうしなければ神様は自分を受け入れてくださらないと考えるからです。しかし、神様は私たちを私たちの行為によって受け入れられるのではありません。キリストの贖いの犠牲を通して私たちを受け入れてくださるのです。 ですからもし、私たちが自分の姿をありのままに認め、徴税人のように祈れるとしたら、それは私たちが福音を聞いて、イエス・キリストの救いを受けれている証拠と言えるのです。神様が私たちのそばに来て下さっているから、いえ私たちの心の中に聖霊を送ってくださるから、私たちは自分のありのままの姿を認め、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈れるのです。ですからこの徴税人の祈りは神の救いにあずかっている人だけが献げることのできる祈りだと言うことができるのです。 【祈祷】 天の父なる神様。 「罪人の私を憐れで下さい」と徴税人は神殿の後方で祈りました。しかし、彼がそう祈れたのはあなたがその人の近くに立ってくださり、その恵みの光で彼を照らしてくださったからであることを知りました。どうか、私たちも同じようにあなたの恵みで照らしてください。私たちが自分が罪人であることを知り、その私たちを招き癒してくださるために主イエスが来られたことを悟らせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン このページのトップに戻る