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礼拝説教 桜井良一牧師
神に用いられたザアカイ

(2007.11.04)

聖書箇所:ルカによる福音書19章1〜10節

1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。
2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

1.エルサレムへの旅の意味
(1)旅の目的

 私たちがこの礼拝で学んでいるルカによる福音書は、その9章51節よりイエス・キリストのエルサレムへの旅の途上で起こった出来事、あるいはその途上でイエスが語られた事柄を記しています。そして、このイエスのエルサレムへの旅は19章27節で終わり、28節からはイエスのエルサレム入城の物語が記されています。つまり今日、私たちが取り上げている徴税人ザアカイとイエスとの出会いの物語はこの旅行の最後、クライマックスに起こったことが分かります。
 このようにルカはその福音書の中でたくさんのページを費やしてイエスのエルサレムへの旅の出来事を記しています。どうしてこの福音書を記したルカはこの旅行についてこんなにも拘りを持って、その出来事を記したのでしょうか。それはこの旅の出来事を伝えることが、イエスがどうしてエルサレムに向かわなければならなかったのか、旅の理由をよく説明していると考えたからではないかと思われます。すでに私たちが学んできたように、イエスはこの旅の途中で特に神様から離れ、迷い出てしまった人たちを探し出し、その人々を神様の元に連れ戻すことに力を注いでいます。またご自身がこの地上に来られた使命がそこにあることを説明されたのです。
 イエスがこの旅の目的地として選んだエルサレムでは、十字架の死が彼を待ちかまえていました。それではどうしてイエスは十字架にかかり死なれるためにエルサレムに向かわれたのでしょうか。その理由をエルサレムへの旅の出来事ははっきりと私たちに知らせているとルカは教えているのです。それは神の元から離れてしまった私たちを見つけ出して、神の御元に連れ戻すためのものだったのです。イエスの十字架の死を通して私たちは罪赦され、神の子とされたのです。そしてその恵みを私たち一人一人の人生に実現させるために、イエスは聖霊を私たちに送ってくださいました。この聖霊によって私たちはイエスを信じることができるようにされているのです。イエスは今でも、聖霊を私たち一人一人に遣わして私たちと出会い、私たちを神様の御元に引き戻してくださるのです。そのような意味で今日学ぶザアカイの物語はイエスを信じる私たち一人一人に起こった出来事として読んでいいのだと思うのです。

(2)イエスの愛を示す十字架

 昔こんなお話を聞いたことがあります。ある一人の娘さんがおりました。彼女の母親はとても優しい人でしたが、体の一部にとても醜い痣がありました。その痣のために彼女は母親のことを嫌い恥ずかしく思っていたと言うのです。「お母さんとは恥ずかしくて一緒にどこも出かけられない」。そう思っていた彼女は家の中ではともかく、外ではなるべく母親と一緒に歩くことをしないで、他人のようなふりをしています。「どうして、お母さんはそんな醜い姿をしているの」と彼女はときどき自分の母親を責めたと言います。しかし、そんなとき彼女のお母さんは悲しそうな顔をして黙って何も答えなかったと言うのです。
 そんな彼女にことの真相が伝えられたのはだいぶ後のことでした。実は彼女はまだ物心も付かない幼い頃事故で彼女自身が大きなやけどを負ったことがあったと言うのです。そこで大やけどを負った自分の娘のために、母親は自分の皮膚を移植してくれるように医師に申し出て、その手術が行われたと言うのです。つまり、母親の醜い傷跡はそれを恥じていた娘のためにつけられたものだったのです。
 十字架は古代における最も残酷な処刑方法の一つです。しかし、私たちがこの十字架を大切にして、教会の屋根や、礼拝堂に着けるのはその十字架にこそ私たちを愛して、私たちのために命を捧げてくださったイエスの愛が明確に示されているからです。そして、この十字架を私たちが信仰の目を見るとき、私たちもまたイエスに探し出されて、ここにいると言うことが分かるのです。

2.木に登るザアカイ
(1)徴税人の頭ザアカイ

 さて今日のお話に登場するザアカイはエリコの町に住む徴税人の頭で、金持ちであったことがまず聖書では紹介されています。そしてそれに加えて彼は背が通常より低かったと言う身体的特徴が語られています。これは後に続く「群衆に遮られて見ることができなかった」と言う言葉を補足し、結果的に彼がどうしていちじく桑の木に登ったのかと言う理由を説明するために書き記されたものと考えることができます。
 前回もファリサイ派の人と徴税人の祈りのお話でこの徴税人については少し解説をしました。彼らはローマへの税金を人々から取り立てる仕事を請け負っていました。さらに、彼らの収入はその実際の徴収額とローマ帝国への税金の納入額の間に差額をつけて、その差額を自分のものにすることで手にしたものでした。そのような訳で彼らはユダヤ人たちからは嫌われ者であり、ユダヤ人のコミュニティーからつまはじきにされるような存在だったのです。今日の部分でイエスがザアカイについて「この人もアブラハムの子なのだから」と言う言葉を語られていますが、この言葉の背後にはザアカイがユダヤ人でありながら、ユダヤ人として扱われていなかったこと、人々から「彼はアブラハムの子ではない」と言われていたことが前提となっています。
 しかし、彼はその一方で徴税人の頭で、金持ちであったと記されています。彼は何人もの部下を抱える徴税人の頭であり、その収入は普通の徴税人のものとは比べものにならないほど巨額であったのでしょう。そのために彼は金持ちになっていたと想像することができます。彼の持っている富は人々から奪い取ったものとも言えますから、彼が金持ちであったと言うことはそれだけ彼が人々から嫌われていたことを意味しているのかもしれません。ですが現代でも「金さえあれば何でも買える」と豪語するIT長者がいるように、彼もまた生活の面では何不自由なく暮らすことができていたのでしょう。
 イエスはエルサレムへの旅の最後として彼の住むエリコの町を通りかかられました。そしてそのニュースを聞いたザアカイは「イエスがどんな人かみたい」と考えたと言うのです。彼のイエスへの好奇心が並々ならぬものであったことは、彼が最後に木に登ると言うことまでしていることからもよく分かります。それほどまでにザアカイがイエスを見たかった訳を聖書は何も説明していません。読者の好奇心を駆り立てるところですが、ここではその問題に立ち入るよりもザアカイがどのようにしてイエスを見ようとしたかと言うところに焦点をあててお話しを進めたいと思います。なぜなら、その方法は彼のそれまでの生き方を象徴的に表わしているように思われるからです。

(2)他人を押しのける生き方

「(ザアカイは)イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである」(3〜4節)。

 彼は人よりも背が低かったとようです。私は背が低い方ではないので、背が低いために損をしたと言う体験があまりありません。満員電車に乗っても、必ず頭は人よりも上に出ますので、若干背の低い人よりは新鮮な空気を吸うことができるような気がします。人垣があってもちょっと背を伸ばせば、人の頭越しに前の風景を見ることができるのです。しかし、ザアカイは背が低いためにそれができませんでした。既にイエスの到来を待つ群衆が町に溢れていて、その人垣のためにザアカイは町を通りかかろうとするイエスと弟子たちの一行を見ることができませんでした。
 皆さんならこんなときどのようにされますか。一番簡単な方法はその人垣をかき分けて前に進む方法です。しかし、ザアカイはその方法を選びませんでした。あるいは人に嫌われていたザアカイが人垣に無理に入り込もうとすれば、普段、彼のことを快く思っていない人々から酷い目に遭う、そのような恐れを彼は感じていたのかも知れません。彼はすぐにそれとは別の方法、近くにあったいちじく桑の木に登る方法を見つけ出します。そうすれば人々の頭の上からそこを見下ろせることができるからです。
 ザアカイは問題の解決にあたって、人と同じレベルに立つことを選びません。「すみません。私にも一緒に見せてください」と隣人に頼み込んで一緒に生きると言う方法を取らないのです。むしろ、人々の頭の上に立って彼らを見下ろすことを彼は選びました。少しでも人々の上に立って、群衆の方が自分にぬかずくような生き方、彼が金持ちになったのもそのような生き方を実現させるためだったのかもしれません。激しい生存競争に生き残り、戦いに勝利して、人々の上に立つのが彼の今までの生き方でした。しかし、その生き方は結果的に一人の友も作ることができません。自分で自分を孤独にしていくような生き方を彼は選んでいたのです。ですから彼がイエスを見たいと考えたのは、その生き方から生まれた心の寂しさによるものだったのかも知れません。

3.イエスに用いられたザアカイ
(1)ザアカイを見上げたイエス

 これほどまでに努力して木に登り、イエスを見ようとしたザアカイについて、不思議なことに聖書は「だからザアカイはイエスの姿を木の上から見ることが出来た」とは記していないのです。代わりに聖書は次にこのように語ります。

「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた」(5節)。

 イエスとザアカイの出会いはザアカイの必死の努力が実を結んだものではなかったのです。それはイエスが「上を見上げる」ことによって起こったと聖書は記しています。私たちの信仰生活において私たちがどんなに人一倍の努力をしたとしても、それによって私たちが神様の関心を自分に引きつけて、その救いを得ることはできる訳ではありません。神様と私たちとの関係においては人間の側の努力はそれだけでは何もよい結果を生むことができないのです。むしろ私たちの方にイエスが目を向けてくださったからこそ、私たちと神様との関係が回復され、救いを受けることができるのです。ですから、私たちは信仰生活の中で自分が必死になって木に登ったことを考えるのではなくて、この自分にイエスが目を向けてくださったことを覚え、感謝を献げるべきなのではないでしょうか。自分の努力にばかり目を向ける信仰はいつまでも確かなものとはなり得ません。しかし、イエスのみ業に私たちの救いの確信を置くなら、それはどのようなことがあっても揺るがされることがない確かな信仰となるのです。

(2)イエスに用いられる

 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(5節後半)。

 どうしてイエスが初対面のザアカイの名前を知っていたのか不思議でなりません。聖書によれば真の羊飼いは自分の羊の名前を知っていて、その名前を呼んで自分のところに導くと言われています。イエスがザアカイの名前を知っていたのはザアカイがイエスの羊の群れの一匹であったことを表わしているのかも知れません。
 ところでこのイエスの宿泊計画がどんなに意外なものであったかを福音書は7節で語っています。「これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」」。エリコの町の人々は「自分たちの町にはイエスを泊めることができる家はたくさんあるのに、よりによって彼は一番ふさわしくない家に宿泊先を決めた」と言っているのです。つまり、ザアカイはイエスを泊める資格を持っていないとエリコの町の人々は考えていたのです。
 人間は自分たちの持っている条件を見て、自分が神様に用いられる者であるか、あるいはそれにふさわしい人物かどうかを確かめようとします。しかし、神様の選びは人間の側の条件に関わりがないことをこの出来事は記しているのです。
 先日、三郷教会の持田先生がされている伝道番組の「対談相手になってほしい」と急遽言われてその録音に行ってきました。その対談の中で「どうして牧師になろうとしたのか」と言う質問を私に向けられました。そこで自分が30年近い前に引きこもりで家の外に一歩も出られなかったときのこと、手紙で「何もできなくても。牧師ならできる」と書いてくださった石井正治郎牧師(前ラジオ伝道部主事)のことをお話しました。すると、持田牧師はすぐに「何も出来ない引きこもりの青年を見て、「彼なら牧師になることができる」と言えた石井先生の信仰は素晴らしいですね」と言うのです。なるほどそうだなと自分も改めてそのときの石井先生のことを思い出しました。神様は人間的に見てたとえ可能性がないように見える人も用いてくださるのです。なぜなら、神の働きに必要なのは神様の力であって、私たちの持っている条件ではないからです。

 「しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」」(8節)。

 イエスとの出会いによって人生が全く変えられたザアカイのその後の生涯を聖書は記していません。しかし、教会では彼こそがイスカリオテのユダの代わりに使徒として、イエスの復活の証人になるべく選ばれたマティアであった言う伝承が残されています。その伝承が真偽は確かめようがありません。しかし、確かに彼の存在はこのルカの福音書に書き留められました。そしてたくさんの人がこの物語を愛して、この物語を通してイエスと巡り会う人が生まれました。その意味でザアカイもまたイエスを証しする弟子として神様に豊かに用いられたことは確かなことなのです。
 「どうしてこんな人が神様から用いられるのか」。そのように人々が首を横に振るうような人物であったザアカイが豊かに神様に用いられたように、私たちもまたこのイエスに出会い、彼を信じる者とされ、また神の働きに用いられるためにこの教会に召されていることをこのザアカイの物語を通して改めて確認したいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様
あなたが私たちを見つけ出してくださいました。聖霊を通して確かに私たちの名前を呼び、ご自身の者としてくだったことを感謝します。私たちは一人一人あなたを証する証人として召されています。自分の持っている条件でとても担い切れにない使命ですが、それを可能にしてくださるのはあなたの力です。そのことを確信し、あなたに信頼して歩ませてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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