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礼拝説教 桜井良一牧師
私たちの希望はどこに

(2007.11.11)

聖書箇所:ルカによる福音書20章27〜38節

27 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。
28 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
29 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。
30 次男、
31 三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。
32 最後にその女も死にました。
33 すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
34 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、
35 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。
36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。
37 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。
38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」
39 そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。
40 彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。

1.復活を信じないサドカイ派の人々
(1)旧約聖書と人間の死後

 カトリックの神父が探偵となって登場するイギリスの作家G・K・チェスタトンの書いた『ブラウン神父の秘密』は推理小説の中の名作として世に知られています。実はアメリカのある作家が記した推理小説にはカトリックの神父ではなく、ユダヤ教のラビ(教職者)が探偵のように数々の事件を解決する小説のシリーズがあります。この小説は主人公のラビの推理も面白いのですが、何と言っても普段私たちには知ることができないユダヤ人社会の生活を知ることができるところにも特徴があります。ユダヤ人とほとんど関わりをもたない日本では残念ながらこの小説はあまり人気を博さなかったようで、せっかく日本語に翻訳されたものも今は絶版になっているようです。
 この小説の中で今でも覚えているところにユダヤ教のラビとカトリックの神父との会話を記す部分があります。そこでユダヤ教のラビは「キリスト教徒は死後の世界について考えて、自分が死んだら天国に行くのか、地獄に行くのかなどと言うことを悩んでいるからノイローゼ患者が多くなるのだ」と言うようなことを語ります。果たして、ユダヤ教徒はキリスト教徒と比べてノイローゼになる者が少ないかどうかはよくわかりません。しかし、このラビのセリフからユダヤ教徒は死後の世界や、自分が死んだらどうなるのかと言うところにあまり関心を寄せていないことが分かるような気がしました。
 私たちの持っている聖書を読んでも分かりますが。旧約聖書には死んだ者たちが行く場所、「陰府(よみ)」と言う言葉が登場しますが、果たしてそれがどのようなところなのか、詳しい説明は記されていません。つまり、旧約聖書をいくら調べても、人間が死んだらどのようになるのかと言うことは明確には語られていないのです。むしろ、このことがはっきりするのはイエス・キリストが来られて、ご自身の死と復活を通して、私たちに復活と命の世界を知らせてくださったことによると言えるでしょう。

(2)祭司中心のサドカイ派

 今日の箇所では、復活についての論争がイエスとサドカイ派と言うグループの人々との間で起こっています。イエスの時代のイスラエルには大きく分けて、三つの宗教グループが存在したと考えられています。一つは新約聖書の中にたびたび登場するファリサイ派です。彼らは日常生活の中で神様が与えてくださった律法を厳格に守ることを重要視し、人々にそれを教えました。もう一つはエッセネ派と呼ばれるグループで、聖書に登場するバプテスマのヨハネはこのグループに近い主張を持った人だと考えられています。彼らはバプテスマのヨハネと同じように人々から離れた場所に住み、世俗の生活から離れて宗教的な修行をすることに力を注ぎました。さらにもう一つは今日の論争の相手であるサドカイ派と呼ばれる人々です。この「サドカイ」と言う言葉は昔の祭司の名前から取られたものと言われています。このグループは神殿で働く祭司を中心とした地位も経済的にも優位に合った人々によって構成されていたようです。祭司が中心のグループですから、神殿で行われる祭儀を重んじ、特にその祭儀を細かく規定する書物、モーセの記したとされる五つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記のみを自分たちの正典として信じていたようです。
 ちなみにこのサドカイ派はローマ帝国の軍隊によってエルサレム神殿が徹底的に破壊(紀元70年)されてしまった後は、神殿とともに消滅してしまいます。ですから、現代私たちがユダヤ教徒と読んでいる人々はこの神殿崩壊後も残ったファリサイ派の伝統を引き継ぐ人々と考えてよいと思います。
 このサドカイ派とファリサイ派は聖書の解釈においてことごとく対立していました。今日の部分に登場する復活についての考えは、サドカイ派はそれを否定し、ファリサイ派はそれを肯定する立場にありました。このように様々な点で対立する両派が唯一一致できたのは主イエス・キリストを十字架にかけて殺すことを要求したことだけであったことをこの後、聖書は私たちに伝えています。

2.宗教に何を求めるか
(1)決して死なない

 先日、教会によく訪れておられた一人の姉妹が天に召されました。幸い私も時間の都合がつきましたのでその葬儀に参加することができました。民間の葬祭場で行われた葬儀でしたが、式はそのご家族が関係する教会の牧師が司式をされていました。私は自分も葬儀を行う立場にあるので、こんなときに牧師はどこのような説教をするのかとても関心があります。特に私の教派とは違った教会の牧師の説教を聞く機会はあまりありません。ですから私はとても興味深くその牧師の説教を聞いたのですが、聞いた後に「聖書のテキストとあのお話はどのような関係があったのだろう」と首を捻りながら葬祭場から帰ることになりました。それはおそらく私の説教の聴き方にも問題があったのかもしれません。
 その牧師は「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(ヨハネ11章25〜26節)と言う有名なイエスの言葉をテキストにして語っていました。ところが、そこで彼が「このような話があります」と言って、かなり詳しく語り出した二つの例話はどちらも難病で医師からも見放された人の病がイエスを信じることによって癒されたと言うお話だったのです。もしかして、このお話は「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と言う言葉の部分を説明しているのかとも私は推理しましたが、そうなると「決して死ぬことはない」と言うイエスのみ言葉は「病気が治る」と言うことを言っていると言うことになります。やはり「決して死ぬことがない」と言う言葉の解釈が、私と全く違うのだろうかと思わされました。

(2)この世の利益だけを追い求める信仰

 今日の箇所に登場するサドカイ派の人々は「復活」を否定していたと言われます。私は復活を否定するこの人たちは果たしてどのような信仰を持ち、自分たちの希望をどこに置いているのだろうかと疑問に思いました。しかし、考えてみると私たちの周りのほとんどの人々は私たちのように「復活」に希望を置く人々ではありません。宗教を信じている人も、自分が死んだら後どのようになるのか、自分の命とはどのようなものなのかを真剣に問う人はもしかしたら少ないのかもしれません。それでもたくさんの宗教が存在するのは、むしろ多くの人の宗教に対する関心や要求が、病気が治ることや、自分の悩みが解決されること、また自分の生活が豊かにされることに置かれているからだと思えるのです。そしてその関心にうまく答えることのできる新興宗教には今でたくさん人々が集まっている姿を私たちは目にすることができるのです。
 おそらくサドカイ派の関心も非常に現実的なものであったのだと思います。毎日の生活が豊かで平穏無事ならばそれでよい、そう考えるなら「復活」について真剣に考える必要はありません。しかし、本当に「復活」に対する信仰は私たちの日常の生活には関わりを持たない、遙か遠い世界のことを取り扱っているのでしょうか。イエスとサドカイ派の議論は「復活」への希望が私たちの今の生活に重要な影響を与え、あるいは光を与えていることを明らかにしているようにも思わされます。

3.生きている者の神

 さて、このサドカイ派はモーセ五書の中にある結婚についての戒めを取り出して、復活の教えは論理的に矛盾すると批判しています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』(申命記25章5節)と言う言葉が引用されています。旧約聖書に登場する神様の約束はその本人のためであると同時のその子孫のためにも結ばれています。ですから神様はアブラハム対する約束の中でも彼の子孫を祝福することを言及しています。この約束を信じるイスラエルの人々にとって自分の子孫が途絶えてしまうと言うことは、神様の約束から自分が漏れてしまうと言う意味を持ち、信仰的に重大なことであると考えられました。ですからこの申命記の律法は子孫が絶えることがないように、あるいは女性の権利が認められていなかった古代社会で未亡人になった女性の生活を守る役目を果たした重要な戒めであったと考えることができるのです。
 サドカイ派の人々は、もしこの戒めに従えば、一人の女性が結婚した夫が次々と死んだなら、この女性は復活した後、だれの妻となるのかと論じます。その女性は重婚の罪を犯すことになってしまうではないかと語るのです。イエスはこの主張に対して、復活と言う出来事はこの世の生活がそこで再び際限なく続くことを意味するものではないことを説明しています。むしろ、復活の後の世界はこの地上の生活とは全く違った世界であり、一方の地上の生活が不完全なものとすれば、やがて訪れる復活の世界は完全な世界であり、そこで私たちは天使のように、あるいは神の子として生きることができるとイエスは語られたのです。
 そしてイエスはこの後、サドカイ派の人々が依って立つところのモーセ五書の言葉を使って復活についての論証を企てています。かつて、モーセに現れた神はご自分を「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と自己紹介をされました。そこでイエスは神が「生きている者の神」であると言われるのだから、この神の自己紹介に登場するアブラハムも、イサクも、ヤコブも今も何らかの形で生きていることになるのではなかと言うのです。つまり、私たちの命は死で終わってしまうのではなく、その後も神によって生かされ続け、やがては完全な姿で復活することを待っていると言うことをここでイエスは語っているのです。
 聖書が問題にする命、それは私たちが普通考える生物学的な命とは違います。聖書は私たちの考えている命のもっと根底にある本当の命のことを語っています。そしてその命の源は神にあって、私たちはこの神様によって生かされていると教えるのです。ですから信仰によってこの神様との関係を回復された人は、どのような状態にあっても命を失うことがなくなるのです。なぜなら、信じる者はいつも命の源である神と結びつけられているからです。イエスが「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」と言われたのはこの真理を教えているのです。
 ですから神を信じて生きたアブラハムや、イサクや、ヤコブも死んでしまったのではなく、今も神と共に生かされ、やがて訪れる復活のときを待っている人々だと言えるのです。

4.完全な姿

 先日の定期大会で私の神学校のときからの親しい友人である岩崎牧師が大会議長の重責に選ばれました。今思い出すと神学生のときに私は岩崎牧師の部屋にひまさえあれば押しかけていたような気がします。親の反対を押し切ってひとりぼっちで神学校に入学した私にとって岩崎牧師はいつでも悩みを打ち明けられる親しい存在であったように思えます。岩崎牧師は私と違って、おじいさんもお父さんも、またおじさんも改革派の牧師と言う名門(?)の出でした。今は天に召されましたが、岩崎牧師のお父さんは当時、九州の福岡で伝道されていました。岩崎牧師のお父さんは神戸や大阪で会議があるたびに息子の部屋を訪れる、たいへん子煩悩な方でもありました。岩崎牧師の部屋に入り浸りの私は当然、そのお父さんの岩崎牧師とも度々話をする機会が与えられました。
 あるとき岩崎牧師(父)はこんな話を私にしてくださったのです。「やがて、私たちはイエス様と同じような姿に変えられると聖書に約束されている。だから私たちの不完全な姿が、復活の後、素晴らしい姿に変えられると信じてよいのだと…」。そのときに本当にうれしそうに語る岩崎牧師(父)の姿が私にはとても印象的でした。そのときに岩崎牧師(父)は続けてこう語ったのです。「自分の教会には今、統合失調症(分裂症)で苦しんでいるA君と言う人が来ている。彼はとても有名な大学を卒業した秀才なのに、いまはいろいろな問題を起こしたりしている。でも、彼もイエス様を信じているから、天国ではそんな病気も全く癒されて、完全な者になれるのだ。そのときはみんな同じ、完全な人に神様は変えてくださるんだよ」と言うのです。
 あのとき岩崎牧師(父)はもしかしたら、そのAさんのためにいろいろ苦しんでいたのかもしれません。だからこそ、岩崎牧師(父)はそのAさんをそれこそ不完全なこの世の価値観で判断してはならないと考えたのではないでしょうか。神様の前では私たち全ては皆不完全な人間に過ぎません。その私たちにイエス様によって真の命が与えられ、復活の希望を持つようにされているのです。やがて訪れる復活の世界では私たちは皆天使のようになり、神の子として生きることができるのです。だからこの希望を抱いて生きる私たちは今、この地上の人生の中で、新しい価値観を持って私たちの人生をそして世界を見ることができると言えるのです。
 この岩崎牧師(父)はそれから先何年か後にガンに冒されて天に召されました。先生は自分の地上の命がわずかでしかないことを知らされたとき、遺言のように一本のビデオを残されました。私はそのビデオを後で岩崎君から見せてもらうことができました。あのとき神学校で復活の希望を笑顔で語った先生がその通りの姿で登場します。そして先生は同じようにビデオの中で自分が今復活の希望に生かされていることを語られていたのです。
 サドカイ派の人々はこの復活の希望を知ることができませんでした。それは彼らが死から甦られたイエス・キリストを知ることができなかったこと、そのイエスを信じようともしなかったところに原因がありました。しかし、私たちは違います、イエス・キリストは私たちもやがて復活することができることをはっきりと示す「初穂」として、この地上に甦られたのです。だから、このイエスを信じる私たちの希望はいつもこの甦り、復活の事実の上にあると言えるのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 この限りある地上の生活の中で、イエスによって永遠の命をいただき、やがて訪れる復活のときを先に召された聖徒たちと共に待ち望む信仰を与えてくださりありがとうございます。私たちに聖霊を遣わして、毎日の信仰生活の中でその喜びを日々確かなものとしてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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