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礼拝説教 桜井良一牧師
終末の徴

(2007.11.18)

聖書箇所:ルカによる福音書21章5〜19節

5 ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。
6 「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
7 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」
8 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。
9 戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」
10 そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。
11 そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。
12 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。
13 それはあなたがたにとって証しをする機会となる。
14 だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。
15 どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。
16 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。
17 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。
18 しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。
19 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」

1.何の徴?

 いつもこの礼拝のお話を準備するとき、次に語るべき聖書の箇所は既に教会暦に従って指定されていますので、私はまずその聖書箇所から語るべきお話の題名を考えます。だいたい私の場合、説教の内容は金曜日から土曜日にかけて作られることがほとんどです。ですから、この説教箇所を予告する一週間前にはお話の内容は一欠片も私の頭の中には存在していないことになります。そのようなわけで私はこの題名をつけることにとても毎週苦労しています。今回は、一番簡単な方法として、この新共同訳聖書が小見出しにつけている「終末の徴」と言う題名を、自分の語る説教の題名に選びました。ところが、その後この箇所を学んでいく中で、このお話に取り扱われている徴は「終末の徴」ではなく、エルサレムの神殿崩壊について徴であると言う解説を読みました。それを書いた人は実は、私の神学校の先生で、私はこの先生に直々に聖書の読み方を学びました。試験ではなかなか合格点をもらえなかったのですが。そんな特別な関係もあるせいか、その先生の説明がとても私には説得力があるように思えました。
 確かにこの聖書の箇所はエルサレム神殿でイエスが語った「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と言うエルサレム神殿崩壊の預言から始まっています。そして、このイエスの言葉を聞いた弟子たちが「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか」と尋ねるところから、今日のイエスの語る数々の徴が登場しているのです。この点では確かにここで語られる徴は「終末の徴」ではなく、エルサレム神殿崩壊にともなう徴が語られていると言ってよいのかもしれません。
 ただ、多くの人がこの箇所を「終末の徴」と考えるのはこの後にすぐにキリストの再臨の預言とその出来事のために備えるべき心構えが説かれている部分が続くからだと思います(25〜36節)。私の持っているフランシスコ会訳新約聖書には便利な解説が付け加えられていて、ここで「彼らは神殿やエルサレムの滅亡と、世の終わりとは同時に起ると思い、このような二つの質問をした」と説明されています。
 実際にこのエルサレム神殿は紀元70年にローマ軍によって徹底的に破壊されてしまいます。ですから、イエスの預言は、このときから30年後に成就したことになります。ところが、このイエスの話を聞いた人々はエルサレム神殿崩壊の出来事を世の終わりの出来事と同じものと勘違いしてイエスに質問したと言うのです。その質問者たちの誤解に対して、イエスはこの二つの出来事をあくまでも切り離して、ここではまずエルサレム神殿崩壊の預言とそれに伴う徴を語ったと考えることができます。

2.確かなものが崩れ去るとき

 ところでどうしてイエスの話を聞いた当時の人々はエルサレム神殿の崩壊の預言と世の終わりの出来事とを混同するような誤解をしたのでしょうか。それは彼らの持っていたエルサレム神殿に対する特別な思い入れが原因を作っていたと考えることができるでしょう。なぜなら当時のイスラエルの人々はエルサレム神殿がこの地上の歴史が続く限り、なくなることがないと考えていたところがあるからです。
 ご存じのようにエルサレム神殿の中心である至聖所(しせいじょ)には神の契約の箱が置かれていました。神がイスラエルの民を祝福してくださるという約束の象徴としてその神の契約の箱は神殿に安置されていたのです。イスラエルの人々にとってこの神との約束は永遠に変わることのない確かなものと信じられて来ました。ですから、その約束を象徴する神の箱を安置するエルサレム神殿はなくなることがないと彼らは考えたのです。ですからもし、その神殿がなくなってしまうとしたら、それはその神ご自身が地上の歴史に介入されるとき、終末のときでしかないと彼らには思えたのです。
 しかし、彼らの信仰の対象であったエルサレム神殿はこの後、先ほども申しましたようにローマ軍の進入によって跡形もなく破壊されてしまいます。しかしそれでは神様の約束もこの神殿の崩壊と共に跡形もなく、なくなってしまったのでしょうか。そうではないと思います。イスラエルの人々はこの地上のエルサレム神殿が、本当は何を示しているのかを知らなかったのです。ヨハネによる福音書の中にはこの神殿においてイエスが語られた次のような言葉があります。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(2章19節)。ヨハネはこの言葉を解説して、「三日で建て直してみせる」と言ったのはイエスが死者の中から三日目に復活されたことを指し示しており、この神殿はイエスの体のことを言っていると説明しています。
 つまり神様の約束を確かであることを知ることができる証拠は本当にあったのです。それは地上のエルサレム神殿ではなく、昨日も今日もいつまでも変わることのない主イエス・キリストご自身であったのです。私たちはこのイエス・キリストを通して、神様の祝福の約束が真実であることをエルサレム神殿が無くなってしまった後でも確信することができるのです。

3.何をするべきなのか
(1)惑わされてはならない

 「世の終わりが来ない限り、いつまでもなくなることがない」とイスラエルの民が考えていたエルサレム神殿が崩壊すると言う事実、それは彼らにとって想像もできない大事件であったと言うことができます。そのようなことが起ろうとするときに彼らはどうするべきなのでしょうか。イエスはここで二つの指示を語っています。第一は「惑わされないように気をつけなさい」と言う言葉です。当時のイスラエルの歴史を記した歴史書によれば、ローマ軍がエルサレムに進入したとき、たくさんの市民がエルサレム神殿の建物の上に避難しました。そしてローマ軍はこの神殿の建物に火をつけて、そこに避難していたたくさんの人が焼け死んだと言うのです。どうして多くの人々が神殿に非難することになったのかと言えば、「神殿に非難すれば神様がこの苦難から守ってくださる」と語った偽預言者が現れたからだと言うのです。もし、彼らがこの偽預言者の声に惑わされることがなく、エルサレム郊外に非難していればこのたくさんの命は奪われることはありませんでした。いつの時代にも人々を惑わす者は存在します。しかし、彼らの言葉に惑わされてしまうのは、私たち自身の責任です。ですからイエスは私たちに惑わされてはならないと語られたのです。

(2)おびえてはならない

 第二の指示は「おびえてはならない」と言うことです。自分の存在さえ危うくなるような出来事に遭遇するとき、私たちは恐れを抱き、おびえます。先日、テレビのニュースを見ていましたら、頭痛がもたらす重大な病についての特集が放送されていました。頭痛は誰もが体験する身近な病気だけれども、中には人の生死に関わる重大な病気の前兆である場合もあるようで、十分な注意が必要だと言うのです。たとえば「くも膜下出血」と言う病気があります。実はこのくも膜下出血が起る際に、何日も前から頭の中に少しずつ出血が起っていて、それが引き起こす頭痛があると言うのです。心配性の私はその番組を見ただけで、どうも頭が痛くなるような気がしてきました。しかし、その番組はそのような兆候が起ったなら、医者に行って診断してもらい、適切な治療を受けることを薦めているのです。素人考えで恐れを抱いたり、勝手に何らかの判断をくだしても何の役にも立たないのです。
 イエスが「おびえるな」と語るは、自分勝手な判断をするのではなく、その専門家に助けを求めることを私たちに教えてくださっているのです。復活されたイエスが弟子たちに語られた言葉を思い出してみましょう。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14:27)。私たちの存在を揺るがすような恐ろしい出来事が起るとき、それに対する適切な処置を行う名医が私たちには与えられています。そしてその名医であるイエスはわたしたちに「平和」を与えてくださるのです。

4.迫害の預言
(1)言い訳を準備する必要はない

 イエスの言葉はエルサレム神殿の破壊だけに止まりません。私たちの存在を危うくするような出来事が起る以前にも、私たちには次のようなことが起ると彼は預言します。「しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く」(12節)。更にもう一つは「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる」(16節)と言うのです。この二つとも信仰者に向けられる迫害と関係する預言の言葉です。
 信仰者が投獄され、この地上の人々によって裁きの座に立たされるときがやってくるとイエスは語ります。これはイエス御自身がこの後、エルサレムで体験される出来事とも重なりますし、使徒言行録を読めば、この言葉のような体験をイエスの弟子たちもしたことが報告されています。このような出来事を前にしてイエスが語る指示は次のようなものです。「だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい」(14節)。この言葉、何か日本語としては不自然な言い回しですぐに理解出来ない方もおられるかも知れません。このところは新改訳聖書の翻訳の方が意味が分かりやすいかもしれません。「それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい」。
 「弁明」と訳される言葉は日本語で「いいわけ」とも訳される言葉です。私たちは少しでも自分が有利になるようにいろいろな「いいわけ」を考えます。しかし、イエスはそれをしないように決心しないさいと語るのです。その理由は「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」(15節)と言います。イエス御自身が私たちに適切な言葉を与えてくださると言うのです。ですから、私たちは自分の言い訳を考えるのではなく、このイエスの言葉をいつでも聞き分けることができるための備えをする必要があります。確かに私たちはイエスの言葉の通り「いいわけ」を準備する必要はありません。その代わりに、このイエスの言葉を聞き分けることができるために日々、聖書のみ言葉に耳を傾け、それを聞き分ける力を聖霊が与えてくださることを祈る必要があるのです

(1)キリストに見つめる信仰

「あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる」。イエスの預言される危機は周りから始まって、自分の最も近いところへと話題が移されて行きます。エルサレム神殿を頼りにしていなくても、自分の親や兄弟、親族、そして友人を頼りにしている人は多く存在するでしょう。自分が頼りにしていたものが当てにならない、いや、むしろ自分を裏切り、命までも奪おうとすることが起るとイエスは預言するのです。このような事態が起ったとき私たちはどうすればよいのでしょうか。
 イエスは語られます。「しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」(18〜19節)。この「髪の毛の一本も決してなくならない」と言う表現はすべての出来事の上に神様の計画があって、その神様の計画の内に私たちが守られていることを表わす言葉です。自分が頼りにしている家族が自分に敵対し、危害を加えようとすること、それは私たち取って思いもかけないことです。しかし、神様の計画はそのような出来事を通しても私たちを確実な救いへと導いてくださるのです。
 「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」。私たちが憎まれるのは、イエス・キリストの名のゆえであると語られています。つまり、私たちが憎まれると言う出来事を通してもイエス・キリストの名がすべての人に伝えられると言うのです。
 水曜日の祈祷会で使徒言行録を学んでいます。使徒パウロを伝道者として派遣したアンティオキア教会はもともと、ステファノの殉教に始まったキリスト教弾圧でエルサレムから逃れた避難民によって作られたものであったと言います。キリスト教会は厳しい弾圧によって小さくなったり、なくなってしまうのではなく、返って伝道の地域が広がり、大きくなって行ったことを初代教会の歴史は告げているのです。
 そのときイエスは私たちに「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」と薦めます。私は中学生頃に日光にバス旅行に行った帰りに「忍耐」と書かれた置物をおみやげに買ってきたことを思い出します。子供の頃から「お前は三日坊主だ」と言われて育ったものですから、「自分に必要なものはこれだ」と思って、それを買い求めてしまったのだと思います。普通「忍耐」と言う言葉から私たちは「我慢」と言う言葉を連想します。しかし、ここでその言葉を読み込めば信仰は我慢比べのような形になり、なんだかおかしくなってしまいます。
 聖書の言う忍耐はこの我慢と違います。パウロは「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマの信徒への手紙5章3〜4節)と言う「忍耐」についての有名な言葉を残しています。私たちがいくら我慢しても、そこに希望が生まれることはありません。しかし、信仰における忍耐は私たちに希望を生むとパウロは言うのです。
 この忍耐とは私たちが神様の約束に信頼を起き続けると言うことではないでしょうか。確かにイスラエルの人々もこの神様との約束に信頼を置こうとしました。しかし、彼らはその神様との約束の確証を目に見えるエルサレム神殿に置こうとしたために、エルサレムの神殿の崩壊と共にその信仰も揺らぐ結果になったのです。私たちにとってこの神様の約束を確証できるものは、救い主イエス・キリスト御自身です。私たちの救い主はこの地上にどのような変化が起ったとしても決して変わるようなお方ではありません。だからこそ、彼が私たちのために勝ち取ってくださった救いはどのようなことがあっても変わることがないと私たちは確信できるのです。私たちにとっての忍耐とは、何が起っても私たちの信仰の目をこの方に向け続けることなのです。そうすればこの方は私たちを守り、導き、真の命を与えてくださると約束してくださっているからです。

【祈祷】
天の父なる神様
 あなたの約束が真実であることをイエス・キリストを通して表わしてくださったことを覚え、感謝いたします。変ってしまう世の出来事の中で、変ることのないイエス・キリストに私たちの信仰の目を向けることができるように助けてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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