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礼拝説教 桜井良一牧師
今をどう生きるか

(2007.12.02)

聖書箇所:マタイによる福音書24章37〜44節

37 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。
38 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。
39 そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。
40 そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
41 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。
42 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。
43 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。44 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

1.イエスと共に歩む一年
(1)イエスと道連れの生涯

 今日から教会暦ではアドベント、待降節と呼ばれる季節に入ります。教会暦は一足先にこのアドベントの第一主日から私たちが新しい年の歩みを始めるように作られています。実はキリスト教会が昔から使っているこの教会暦は日曜日の礼拝だけではなく、毎日、「今日は聖書のどこを読むべきか」と言う聖書箇所が決まっています。私たちはこの教会暦に従ってキリストの誕生、その生涯と死、更には復活と言うイエスの歩みを一年を通して追体験するように作られているのです。
 私たちキリスト者の信仰生活は簡単に言えば、主イエスと共に歩む生活と言っていいかもしれません。私の母教会の一人の長老は昔、流行した演歌を替え歌にして「決めた。決めた。イエスと道連れに」と言う歌をある日私たちに披露してくださったことがありました。確かに私たちは信仰を得て、洗礼を受け、教会生活を始めるときから、イエスに着いて行く人生が始められたのだと言っていいでしょう。私たちの主イエスは聖霊を私たちに送って、私たちといつも共にいてくださることを約束してくださっています。ですから私たちの人生の行く手がどのように困難であっても、私たちはそこに一人で歩んでいくのではありません。このイエスが私たちの道連れとなって歩んで行くと言っていいのです。それでは、私たちと共に歩んでくださるイエスとはいったい、どのようなお方なのでしょうか。私たちは私たちの共に歩んで下さるイエスを正しく理解することで、たとえ私たちの歩みは困難の中にあっても安心することができます。そのために教会暦は私たちと共に歩んで下さるイエスがどのような方であるかを一年間で再確認するように作られていると言っていいのです。

(2)アドベント、到来

 毎年、この時期になると、アドベントを教会をどのように考えるのか、その意味を再確認することにしています。それはこの時期に読むことが決められている聖書の箇所の言葉が、どうしてクリスマスの前に読むべき言葉なのかと疑問に思われる方があるかも知れないと言う心配からです。
 実はアドベントと言う言葉を私たちは「待降節」と言う日本語で読んでいます。私たちは「待っている」のです。それでは何を待っているのでしょうか。待降説の「降」と言う字はキリストがお生まれになった「降誕」の日をと言う意味を示しています。ですからこの言葉から言って、私たちはクリスマスを待っていると言うことになります。しかし、このアドベントは元々のラテン語では「到来」と言う意味を持った言葉で、日本語の待降はその点では直訳ではないのです。キリストが来て下さる、その「到来」を記念するのがアドベントの本当の意味です。キリストの到来、それはまずキリストが私たち人間の肉体を取られてこの地上に来てくださったクリスマス、降誕の出来事を指し示すと言えるのでしょう。しかし、聖書はもう一つ、同じようにこのキリストについて大切な「到来」の出来事を語っているのです。聖書はやがてやってくる終わりの日にキリストは再び、私たちのところに来て下さると言うことをはっきりと記しているのです。
 ですからこのアドベントはこのキリストが再び来られる日を記念するときでもあるのです。私たちを罪から救い出してくださった主イエス・キリストはその救いを完成させるために、この地上に再び来て下さいます。ですから教会暦はこのキリストの降誕と言う到来を思い起こす時期に、同時にやがてやってくるキリストの新たな到来を思い起こし、そのための備えをするようにと私たちを促していると言っていいのです。

2.主が知らせてくれるもの
(1)シオンの山に向かう人々
 キリストの降誕と再臨の預言は旧約聖書の預言者たちの言葉の中にもたくさん残されています。特にその中でもイザヤ書はキリストについての証言を数多く残している書物として有名です。この礼拝の最初に読んだ、イザヤ書2章の言葉もキリストについての重要な証言を残しています。
 この箇所にはキリストと言う言葉は直接には登場しません。しかし、この箇所には「主の神殿の山」とか「シオン」と言う言葉が記されています。シオンはエルサレムの神殿が立つ小高い丘を指す地名で、その意味で「主の神殿の山」と「シオン」は同じ意味を持った言葉であると言えます。イザヤは「終わりの日」に様々な国々の人々がこの神殿の山シオンに向かうことになると預言しているのです。どうしてでしょうか。彼らはそこで主の道を示されて、その道を歩むためにシオンの山に向かうとここでは説明されています(3節)。
 それでは人々がシオンの山で主の道を示され、その道を歩み出すとき、そこでどのようなことが起るのでしょうか。イザヤは続けて語ります。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない」(4節)。神様の正しい裁きが地上に実現し、その戒めの結果、私たち人間はもはや争う必要、戦う必要がなくなると言っているのです。戦う必要がないからもはや剣も槍も必要ありません。そこで剣は鋤に打ち直され、槍は鎌に打ち直されて、争いではなく平和を作り出す道具と変えられると約束されているのです。

(2)争うことしか知らない

 きっとここに集まっているほとんどの皆さんは「戦争には反対です」と言う言葉を語るでしょう。「人と争うことを好まない」と考える人もたくさんいるはずです。しかし、そのように考え、また行動しようとしても私たちのほとんどは争いと無縁なところで生きることはできません。国家間の争いは別次元の問題かもしれませんが、私たちの多くは隣人や家族とのトラブルを抱え、悩み、また争い合うこともしばしばです。ある問題から、あるいはある人との問題からやって解放されたかと思うと、今度はまた新たな争いごとが私たちの生活に起ります。そのために、どうして私の周りにはこんなに問題の多い人が集まるのだろうと首をふることがあるかもしれません。
 しかし、実は私たちは気づいていないのではないでしょうか。問題を作り出しているのは自分自身であることを、そして争いによってのみしか解決策を知らないのが自分自身であると言うことをです。私たちは本当は、「争うことを好まない」のではなく、争うことこそが自分の唯一の生き方であると信じ、行動しているのです。だからこそ私たちは人と争い、そして自分自身とも争うことによって毎日の生活の大半を送っているのです。ときには自分の身の回りに争う相手がいないと、寂しさを感じて、新たな争い相手を探し出すような、そんな奇妙な行動を私たちは自分も気づかないうちに行っているのです。

 聖書はこのような私たち人間の本当の姿を示します。争い合うことでしか生きる道を知らない私たちに、終わりの日に神様は真の平和を教えてくださると言うのです。そしてイザヤが預言した主の神殿の山、シオンとはこの終わりの日に私たちのところにやってきてくださるイエス・キリストを預言しています。私たちはこの方によってのみ争いから解放され、平和の内に生きることができると聖書は語っているのです。

3.知らないことを知っている恵み
(1)神の警告は余計なもの

 上方落語のお話の一つ「ちろとてちん」では普段から知ったかぶりする知人を何とか懲らしめてやろうと言う主人公が登場します。彼は腐った豆腐を長崎名物「ちりとてちん」と言う食べ物だと偽って、その知人に食べさせようとするのです。結局その知人はまんまと罠にはまり、だまされてその「ちりとてちん」を、「こんなの食べ飽きるほどたべてきました」と知ったかぶりをして、腐った豆腐を食べさせられることになってしまいます。知ったかぶりはともかくとして、私たちは本当は知らないのに、知っているような気になってしまっていると言う過ちを犯してしまうことがあるのではないでしょうか。今日のマタイによる福音書の箇所のイエスのお話はそんな人間の過ちを指摘していると言えます。
 最初にイエスは創世記6章に記されているノアの物語を話題に取り上げています。「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである」(37〜39節)。
 ノアの時代に人々は毎日をおもしろおかしく暮らす術を知っていました。それで事足りる、これだけ知っていれば自分たちは十分に幸せに暮らすことができると彼らは思っていました。しかし、彼らは肝心なことを知らないことに気づいていなかったのです。この世界に実現しようとする神様の隠された計画をです。神様はその計画をノアを通して彼らに知らせようとしましたが、彼らはそれを知る必要を全く感じることがなかったのです。そのために彼らは一人残らず洪水で滅ぼされてしまいました。自分たちの知識で事足りると考える人々はノアを通して明らかにされる神様の警告を自分たちにはつまらないもの、余計なものとしか考えることができなかったのです。

(2)神は知っておられる

 イエスは続けて語ります。やがて人の子が訪れるときも同じようなことが起ると。「そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される」(40〜41節)。
 この場合「知らない」と言う言葉は二重の意味を持って語られています。まず、人の子がやってくるとき「連れて行かれる人」と「残される人」の違いは、一方は人の子の到来があることを知っていて、そのために備えている人のことです。しかしもう一方の残される人はその事実を知らないで、あたかもノアの時代の人々のように生きている人を表わしています。ここでは一方の人は知っていて、もう一方の人は知らないで生活していたと言うことになります。
 しかし、もう一つこのお話が教えるのはここに登場する男も女も、外面から、つまりその毎日の生活から見る限りではどちらが連れて行かれるか者で、残される者か区分けが着かない、分からないと言うとこです。信仰者もそうでない人々もこの世の生活と言った次元で見ると、区分けがつかない、そこには何の違いも見えないと言う事実がここには語られています。私たち信仰者も、そうでない人も地上では同じ問題を抱え、悩み苦しみながら、そして日々の労苦を背負って毎日を生きています。しかし、神様の目から見ればその違いは明らかで、誰がキリストに希望を置いて生きているか、それ以外のものに希望を置いて生きている者が誰かと言うことをはっきりと識別することがおできなると言うことなのです。私たちには分からないかもしれないが、神様はちゃんとご存じであることを知りなさいと言うことをこの物語は教えていることになるのです。

(3)知らないことを知っている恵み

 第三のお話は、「目を覚ましていること」が私たちにとってどのように必要なことなのかを教えるお話となっています。この「目を覚ましていること」とは「キリストに希望を置いて」毎日を生きると言うことを意味していると言っていいでしょう。
 家の主人は泥棒がいつ家にやって来るかを知らない、だから用心して、泥棒がいつ進入しても対処できるようにするのではないかとイエスは語っています。この主人の特徴は「知らないことを知っている」と言うところにあります。自分が知らないことを知っているからこそ、人は用心をして、それがいつであっても良いように備えるのです。しかし、私たちが犯す過ちは自分が知らないと言うことを理解していないところにあると言うのです。この人生は自分の持っている知識で事足りる、この世の提供する科学や知識で十分におもしろおかしく暮らすことができると考えてしまう人間の過ちが指摘されるのです。これはノアの時代の人々と同じことを言っています。自分は十分に知っていると思っているから、それ以上の備えをすることは必要ないと考えるのです。
 何度もこの礼拝でお話しましたが、今から100年ほど前に青森の八甲田山で実際に起った遭難事件を題材にした「八甲田山」と言う映画があります。日本陸軍はロシアとの戦争に備えて、酷寒の地シベリアでの戦闘に耐え得るべく雪の八甲田山を兵士たちの行軍訓練の場所として選びます。ところが雪の八甲田山の厳しさを彼らは軽く考えてしまったために、参加した兵士の大半が道に迷い、凍死してしまうと言う悲惨な事件が起りました。ところが、青森から弘前の地を目指して遭難してしまった部隊と違って、弘前から青森を目指した部隊は同じルートを同時期に行軍しながら全員無事に生還すると言う出来事が起ったのです。映画はその二つの部隊の運命を分けた決定的な事実を「知らないことを知っていた」と言うことにあると描きだします。
 自らの功績を得ることを考える青森隊のリーダーと違い、弘前隊のリーダーは自分が雪の八甲田の山々について無知であることを知っています。だから彼は密かに現地の人々を案内人に雇い、その助けを借りて厳しい行軍を無事に成し遂げることができたのです。
 私たちは知らないのです。だからすべてのことを知っておられるイエスに道案内して貰いながらこの人生を歩む決心をしたのです。私たちは平和を実現するすべを知らないからこそ、真の平和を実現してくださるイエスが再びこの地上に来て下さり、私たちの上に平和を実現してくださることを待ち望んで生きるのです。ですから知らないことは恥ではありません。私たちが知らないからこそ神は救い主イエス・キリストを私たちのために遣わしてくださったのです。そしてこの「知らないことを知っている」と言うことこそ、神様が聖霊を通して私たちに示して下さった恵みであることを今日の聖書のお話は教えているのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
 今年もアドベントの季節を迎えることができて感謝します。自分の人生の行き先さえ知り得ない私たちを主イエスはいつも導いてくださいます。どうか、そのあなたに望みを置き、私たちが再びキリストとまみえる日を喜びを持って待つことができるように私たちの信仰生活を励ましてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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