Message2006 Message2005 Message2004 Message2003
礼拝説教 桜井良一牧師
天の国が近づいた

(2007.12.09)

聖書箇所:マタイによる福音書3章1〜12節

1 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、
2 「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。
3 これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」
4 ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。
5 そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、
6 罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
7 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
8 悔い改めにふさわしい実を結べ。
9 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
10 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
12 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

1.預言されていたメシアの到来

 私は以前、青森県の三沢という町にある教会で牧師として働いていたことがあります。三沢と言う町の名前を、もし皆さんが知っておられるとしたら、それはこの町にある大きなアメリカ軍の基地のせいであるかも知れません。三沢にはアメリカ空軍と海軍、さらには日本の航空自衛隊の基地が併設されており、さらにはその施設を共用する民間の飛行場もある大きな基地の町です。ですから町を歩いているとたくさんのアメリカ人と会うことができます。この点では東北地方の町としては特別な雰囲気を持った町であると言えます。
 この三沢基地には結構、頻繁にアメリカの要人が訪れることがあります。私がいたときにも、アメリカの副大統領がこの基地を訪れて、アメリカ兵の慰問をして行ったことありました。ところがこのような訪問は軍事上の秘密に入るのか、一部の人は例外としてほとんどの人には事前に知らされることはありません。私たちがそのことを知りうるのは訪問が終わったあと、その事実を伝える新聞記事などを見ることによってです。本来の訪問の目的がアメリカ兵の慰問や基地の視察にあるのですからしかたがありませんが、私は後でその新聞記事を読んで「目と鼻の先のようなところに、そんな重要人物が来ていたのか」と不思議に感じたことを思い出します。
 アメリカ合衆国の副大統領とは違い、イエス・キリストの到来は遙か昔より、様々な預言者たちの言葉を通して預言され続けてきました。今日の礼拝で最初に読まれた旧約聖書のイザヤ書11章の言葉もその預言の一つです。ここに登場する「エッサイ」とはイスラエルの王であったダビデの父親の名前です。「エッサイの株」とか「エッサイの根」と言う言葉がここには記されています。株や根があってもその木の幹はこの預言に登場しません。これはイスラエルの王であったダビデとその子孫たち辿った歴史を示しています。一時は栄華を極めたダビデの王朝もやがて大国によって滅ぼされ、その歴史の表舞台から消えてしまいます。ですから、ここにはエッサイの幹は登場しないのです。
 しかし、命を失ったかに見えた切り残しの株、その根から新たに王が立てられるとイザヤは預言します。それがここで「ひとつの若枝」と呼ばれている者の正体です。そして普通の王はその巨大な力、武力によって国々を制服し、支配を行います。しかし、やがて来られる王は彼の上にとどまる「霊」の力によって国々を治める正義と平和の王であるとイザヤは預言しているのです。

2.ヨハネとは何者か

 ところがこのように長い間、聖書の言葉によって預言されてきたメシアの到来が実際に実現しようとしたとき、たくさんの人がその到来を歓呼の声を持ってお迎えしたわけではなかったのです。むしろ、多くの人々はその到来に無関心であったと言うのです。それではどうして人々はメシアの到来に無関心であったのでしょうか。それは聖書に約束されてきた素晴らしいメシアと、自分との関係を多くの人が理解することができなかったからです。毎日の生活を生きるので精一杯、理想的な王の到来より今の自分の抱えている悩みをどうするべきかで頭が一杯と当時の人々は思っていました。ですからせっかくのメシアの到来も多くの人の心を動かすものとはなりません。
 そこで登場するのが「洗礼者ヨハネ」と呼ばれる人物です。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ』」と言うイザヤの言葉の通りに荒れ野に現れたヨハネ、このヨハネの使命は一口に言えば、来るべきメシアと人々との関係を明らかにし、その到来を全ての人が待ち望むための準備を行うことでした。
 先日の祈祷会で「断食」について学ぶ機会がありました。現在の私たちの信仰生活ではあまり断食と言う習慣はありませんが、聖書にはたびたび断食をして神様に祈る信仰者の姿が記されています。そのような人々はどうして断食をしたのでしょうか。人はぎりぎりの状態に立たされたとき、始めて自分が何によって生かされているかが分かるからだと言うのです。つまり、断食は私たちと私たちの命を支える神様との関係を明確にするために行われてきたものなのです。
 今日の聖書箇所に登場する洗礼者ヨハネは「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」(4節)と紹介されています。このヨハネの姿は彼がほとんど日常に的に断食に近い生活を続けていた信仰者であったことを表わしています。洗礼者ヨハネが自らの舞台を何もない荒れ野に選んだのは、全ての虚飾を捨てて、神様と自分たちとの関係をあらためて自覚すること、そしてそれを人々に知らせるためであったと考えることができます。毎日たくさんのもので満ち足りている者、いえ、そう思いこんでいる者は本当に自分の命を支えている方が誰であるのかを知ることができません。そしてそれを知り得ない者は、すべての虚飾が取り除かれるときに、すべてのものを失って狼狽えるしかありません。

3.ヨハネの言動
(1)古い生活と別れを告げる

 それではヨハネは荒れ野で何をしたのでしょうか。「そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(5〜6節)。ヨハネは彼の元に集まる人々に罪を告白させ、ヨルダン川で洗礼を受けさせたのです。私たちにとって洗礼とは信仰を公に告白して教会の仲間となる入会儀式です。この当時の人々にはそのような意味での洗礼は存在しませんでした。ただ当時も、水に全身を浸す、あるいは水で体を洗うという洗礼に似た行為は自分についた汚れを洗い清めるために行われてはいたようです。またその他に、異邦人が信仰に入る際に、まず洗礼を受けてから、正式な入会儀式である割礼を受けることがあったようです。ヨハネの施した洗礼がどのような意味を持つものであったのかと言うことを考えるときに重要なのは、彼が人々に「悔い改め」を熱心に呼びかけたと言うところです。聖書の言う「悔い改め」と言う言葉は日本語では「回心」とも訳せる言葉です。これは180度、回れ右をして自分の生きてきた方向を大転換させることを意味します。その回心と共に受けるのがこの洗礼ですから、今まで自分が向き合ってきた古い生活と、あるいは自分が頼りとしてきたものから別れを告げることを意味するものがこの洗礼であったと考えることができるのです。

(2)我々の父はアブラハムだ

 ところがそのような意味を持つ洗礼を表面では受けに来ながら、実際には全くそのような意志を示さないでヨハネから洗礼を受けようとした人々がいました。ヨハネはそのような人の心を素早く読み取り、そして彼らを激しく非難しました。その非難の相手とは当時の人々に聖書を教える立場にあったファリサイ派やサドカイ派と呼ばれる人々でした。

 「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(7〜10節)。

 それではヨハネによって「蝮の子」とまで呼ばれているこのファリサイ派やサドカイ派の人々の過ちとはいったいどのようなところにあったのでしょうか。ヨハネによれば彼らは「我々の父はアブラハムだ」と言う誇りを持っていたと言います。何もかも捨てて神様と向き合うためにこの荒れ野までやってきたのに彼らはまだこの「我々の父はアブラハムだ」と言う誇りを持ち続けていたのです。そしてヨハネはそれを捨てることができない彼らを激しく非難したと考えることができます。

(3)メシアを必要としない自力宗教

 それではどうして彼らが自分たちを「アブラハムの子」だと誇ったことは、こんなにも激しいヨハネの非難の対象となり得たのでしょうか。彼らの誤りは結局は、自分の力に頼るところにあったと考えることができます。彼らの信仰は日本の宗教用語を借りて言えば「自力信仰、自力宗教」と呼べるものでした。ファリサイ派の人々はアブラハムの子に神様から与えられた律法を厳格に守ることが大切だと考えました。そして彼らは自分の力でその律法を守り得ると主張し、人々にもそれを教えたのです。
 一方のサドカイ派の人々はどうでしょうか。彼らの多くはエルサレム神殿で働く祭司たちであったと言われています。彼らの宗教もまた律法に定められた儀式を自分で守ることによって救われると教えるものであったのです。どちらの人々も自分の力で、自分の救いを成し遂げると言うところでは全く同じものでした。そしてこの自力信仰の最大の特徴はいつもその信仰の目が自分にだけ向いているところにあります。その信仰生活に神様の名前は出てきても、それは形ばかりで、いつも重要なのは自分がどんなことをしたかと言うところに終始します。こうなるとせっかく、神様がメシアを遣わされてもその方に信仰の目を向ける余裕はありません。いえ、彼らにとってはメシアは不必要な者でしかなく、実際に彼らは力を合わせて真のメシアとして来られた主イエスを十字架にかけることになったのです。
 突然ですが牛丼をお好きな方は皆さんの中でもおられるでしょう。以前、牛丼にまつわる面白い話を読んだことがあります。ある人がお店で牛丼を注文しました。するとすぐに牛丼が出てきました。しかし、よく見てみるとその牛丼に一本の髪の毛が入っていたと言うのです。すぐにお店の人にそのことを告げると、「申し訳ありません」と謝った上で、お店の人は見ているとその牛丼をそのままゴミ箱にぽんと捨てて、新しい牛丼を作ってまたすぐに出してくれたと言うのです。
 その人は書いています。もし、これが自分の家だったら髪の毛が入っていると言われたら「ごめんなさい」と言って、その髪の毛を一本取り出した上でそのまま出すに違いない。でもお店でそんなことをしたら、たぶんお客は怒り出して大変な問題になるはずだと…。その上で、その人は私たちは自分の生活をちょっとばかり改めれば、神様に通用すると思っている。でもそれは牛丼から髪の毛を一本取り出して、またお客に出すようなことで、神様には全く通用しない。私たちが神様の前に出るためには全く新しくされなければならないと言うのです。自力宗教の誤りはこの髪の毛を一本取り出してお客に出される牛丼のようなもので、そのような者を神は受け入れられることはありません。

4.激しい裁きを免れるには

「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」(11〜12節)。

 ヨハネは全ての人々が自分の行いに頼る自力宗教から離れて、あるいはそのために自分自身を見続けることを止めて、神様が遣わされるメシアを迎える準備しなさいと教えます。しかし、ここでヨハネの預言するメシアは激しい裁きを行う方として紹介されています。メシアは「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と言うのです。そして「聖霊と火の洗礼」とはこの激しい裁きを行われることを別の言葉で語っていると言っていいでしょう。
 このようにヨハネの来るべきメシアに対する預言の言葉はともて厳しいものです。皆さんはこのヨハネの言葉を聞いてどう思われるでしょうか。「それは素晴らしい、早くそんなメシアが来てほしい」と思われる方があるでしょうか。むしろ、「そんな怖ろしいメシアには来てほしくない」と思うのではないでしょうか。なぜならここで語られている「火で焼き払われる」はずの籾殻は自分ではないかと考えてしまうからです。
 聖書の勉強会で先日、使徒言行録に出てくるアナニアとサフィラの話(使徒言行録5章)の話題になり、「こんなお話を読むと怖くなってしまいます」と言う感想を聞きました。ご存じの通りアナニアとサフィラは教会に献げるはずだった献金の額をごまかしてしまいます。その結果、彼ら二人はたちどころに神の怒りを買い、その場で倒れて息を引き取ってしまうのです。新約聖書の中ではこのようなお話は珍しいのですが、旧約聖書では神の怒りを買って滅ぼされる人が数多く登場します。私たちはこのような部分を読むと、怖い話だなと思います。どうして私たちはそのようなお話を読んだり、聞いたりすると怖いと感じるのでしょうか。それはその話の中に少なからず自分との関係を私たちが見つけ出すことができるからです。神様に厳しい裁きを受ける人々の姿を聖書で読むとき、私たちはその裁きを受けている人たちと同じ罪を自分が抱えていることに気づいて、怖れを抱くのです。だから自分も同じように神様に裁きを受けるのではないかと心配になるのです。
 メシアの到来を前にして、実はこの思いを抱くことこそが私たちにとって大切になってくると言えるのです。なぜなら、ヨハネの非難したファリサイ派やサドカイ派の人々はその怖れを感じていなかったからです。彼らは自分たちがアブラハムの子孫だからその裁きから免れることができると考えました。自分たちのやっている立派な行いがあるから、そんな裁きなど恐れる必要がないと思っていたのです。しかし彼らと違って、神の裁きを前に自分がそこで裁かれるべき張本人であると感じることができる人は幸いだと言えます。なぜなら、その人こそがメシアとして来られたイエス・キリストと自分との関係を理解し、その到来を心から喜んで迎えることができるからです。
 どうして「ユダヤ人の王」として来られた真のメシアが十字架の上で死なれることになったのでしょうか。どうして彼は神に呪われた者としてその人生を全うする必要があったのでしょうか。それは本来、神の裁きの前に籾殻のように火に入れられて、焼き払われてしまうはずだった私たちを救い出すためです。私たちに変わってメシアはその罪人の運命を担われたのです。ですから神の裁きを怖れる者は、このメシアの到来を心から喜んで迎えることができるのです。洗礼者ヨハネの使命はこのメシアとの関係を教えるところにあったのです。ですから迫り来る神の厳しい裁きを前にして、私たちは今まで自分自身に向けられていた目を方向転換してメシアなるイエス・キリストに向けなければなりません。そして私ではなく彼こそが私の救いを成し遂げて下さる方と言う確信をもってこのイエスをお迎えするのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 あなたが遣わされるメシアの到来を荒れ野で人々に語ったヨハネは、私たちに自らの罪と、その罪のためにくだされるはずのあなたの厳しい裁きを語りました。そして、そのことを通して来たるべきメシアと私たちとの関係を明らかにしようとしたのです。どうか私たちもこのヨハネの言葉に導かれて、また聖霊なる神の内なる導きを通して、メシアであるキリストの誕生と再臨を喜び、そこに希望を者とさせてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

このページのトップに戻る