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礼拝説教 桜井良一牧師
その子の名はイエス

(2007.12.23)

聖書箇所:マタイによる福音書1章18〜25節

18 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。
19 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。
20 このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。
21 マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」
22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

1.関係を絶つことによって解決を図る人間
(1)神の計画の中で選ばれたヨセフとマリア

 私がまだ小中学生だった頃だと思います。テレビの時代劇で「木枯らし紋次郎」と言うドラマがありました。俳優の中村敦夫さんがこの主演の紋次郎役をしていました。そのドラマで無宿渡世人の紋次郎は口に長い楊枝をくわえながら「あっしには、何の関わり合いもないことでござんす」と言う決めセリフを口にしながら、旅から旅への毎日を送ります。当時、あの長い楊枝は身近にありませんでしたので、私も家の爪楊枝を口にくわえて紋次郎のまねをよくしたことを思い出します。
 紋次郎はいつも「あっしには、何の関わり合いもないことでござんす」というセリフを口にしながら、結局旅先で出会う人々の人生と深い関わり合いを持つことになり、命まで危ぶまれる出来事に毎週出会うことになります。
 今日の聖書の箇所では突然に神様の計画に関わらなければならなくなった人物が登場します。それがマリアとヨセフと言う二人の男女です。彼らの存在はそのままでは誰も気にも留めないであろうと思われる、ごく普通の一般的庶民でしかありませんでした。ナザレの町で働く大工であったヨセフは許嫁のマリアとの結婚を間近に控えていました。聖書に「夫ヨセフ」と書かれていますが、当時のユダヤの婚約は法的には結婚と同じ意味を持つもので、まだ実際の結婚生活を初めていなくても社会は彼らを「夫」とその「妻」と呼んでいたのです。
 おそらくヨセフは間近に控えるマリアとの結婚生活を前にいろいろな準備をしながら毎日を送っていたはずです。ところがヨセフはやがて自分の婚約相手であるマリアの上に起った変化に気づきます。マリアが妊娠していることに気づいたのです。ヨセフにはマリアの宿している子供が自分の子ではないことがはっきり分かっていました。ヨセフはこのことのために驚きととまどいを感じたはずです。マリアはどうして自分以外の誰かの子を宿すことになったのか。その相手はいったい誰なのか。自分はこれからどうすればいいのか。マリアはこれからどうなってしまうのか…。いろいろな思いが彼の脳裏に起こっては消え、どうにも出来ない状態になっていたのだと思います。

(2)正しい人ヨセフの対処

 聖書はヨセフについて「正しい人であった」と説明しています。この正しいと言うのは神様が与えてくださった律法と言う掟に忠実に従う者であると言う意味と、その律法をイスラエルの民に与えられた神の愛に自らも倣う者、つまり愛に満ちた人であったと言うことを意味しています。そしてヨセフが持っていたこの二つの性質が彼に次のような判断を下させたと言えるのです。

 「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(19節)。

 マリアがもし夫以外の男性の子供を宿したとしたら、彼女は律法違反の姦淫の罪を犯したと言うことになります。その場合、彼女は掟に従ってイスラエルの共同体から死を持って除外されなければなりません。つまり、マリアの命はなくなってしまうのです。しかし、もし彼女が誰かに乱暴されて、妊娠していたとしたら、その場合の律法の判断は大きく異なってきます。ですからマリアがもし、この時「自分は誰かに乱暴された」と自己弁護していたなら彼女の立場は大きく変っていたのです。しかし、聖書を読むとマリアは自分が聖霊によって神の子を宿していると言うことを自分の胸の内にだけしまって、夫のヨセフには何も話していなかったように見えます。だからこそ、ヨセフは彼女を密かに離縁しようとしたと言うのです。そうすれば、社会はこれから生まれ出るマリアの子供は夫ヨセフの子だと判断し、その上で彼女に何らかの不都合があって夫になるべきヨセフは彼女を離縁して家から出したのだろうと考えることになるからです。おそらく人々はヨセフとマリアの間にどんなもめ事が起ったのかと詮索することはしても、それ以上、マリアの子供のことで彼女を疑うことはなくなるでしょう。確かにヨセフは自分の名誉を幾分は傷つけられることになっても、自分の正しさをある意味で貫くことができると考えたのでしょう。

 しかし、結局ヨセフの取った行動はマリアとの「縁を切る」、つまり彼女との関わり合いを断ち切ることでしかありませんでした。この方法こそ、問題の解決能力を持ちえない人間が取り得る唯一の方法です。これはヨセフだけが選ぶ方法ではありません。私たちは、これはどうにもならないと思ったときその問題の当事者との関係を絶つ方法を選びます。無力な人間はそうするほかに取るべき方法がないからです。そして、ときには人は自分自身の持っている問題を解決できないと考えるとき、自らの人生との関係を絶つことさえ選ぼうとするのです。

2.人間の歴史に関わり続ける神

 ところでどうして平凡な庶民でしかなかったヨセフとマリアの上にこのような重大な出来事、それこそ人間の力では解決することも、理解することも出来ないことが起ったのでしょうか。それは聖書の預言がこの二人を通して実現されるためであったとマタイはこの福音書で説明しています。
 ヨセフの夢の中に現れた天使は彼を「ダビデの子ヨセフ」と呼んでいます。このマタイの福音書を読み始めると、私たちはそこで読み慣れない外国人たちの名前が列挙されていることにとまどいを覚えます。ここにはヨセフの家の系図が書かれています。この系図によればヨセフはかつてイスラエルの国を治めたダビデ王の子孫にあたることがわかります。これは神が遣わされる救い主がこのダビデの家系を通して生まれると言う旧約聖書がその子孫であるヨセフを通して実現したことを説明するために記されたものです。確かに生まれてくる子供は直接にはこのヨセフとの血縁関係を持ってはいませんでしたが、ダビデの子孫であるヨセフが戸籍上の父親となることでこの預言は成就したのです。
 一方、結婚を間近に控えていたマリアがどうして神の子供を産むことになったのでしょうか。そのことも実は聖書の預言が成就するためであったと言うことをこのマタイの福音書は述べています。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(23節)。

 これもまたイザヤという預言者が残した言葉の一つです(イザヤ書7章14節)。つまりこの預言の言葉が成就するために「おとめマリア」が神の子の母として選ばれたと言うのです。
 実はこのイザヤ書が書かれ時代はイスラエルにとって大変な問題が起っていたときでした。イスラエルの国は近隣の大国の侵略を受け、やがて滅ぼされようとしていました。そしてその後、イスラエルの人々は囚われの身となり遠い外国の地に連れていかれることとなります。イザヤはこの出来事の原因が神に背いて、自らを驕る彼ら自身の犯した罪にあることを明らかにしています。しかし、イザヤは神様がそんな民との関係を断ち切ることなく、関わり続けることを語り続けました。「神はやがて、あなたたちのために救い主をお遣わしになられる。神はあなた達のとの関係を断ち切ることはない。なぜなら、神だけがこの問題をかけする力を持っておられるから、あなたたちのために救い主を送ってくださる」と預言したのです。
 イザヤの預言は身勝手な罪を犯して滅びを招く人間たちをそれでも見捨てることなく、関わり続ける神様の計画を語っています。そしてその計画が今、ダビデの子孫のヨセフとマリアを通して、またおとめマリアを通して実現しようとしていたのです。

3.神我らと共におられる
(1)私たちに同情できない方ではない

 夢の中で神様の隠された計画を明らかにされたヨセフは、やがてマリアを自分の妻として迎え入れます。そして彼は天使のみ告げに従って、マリアが生む子が無事に誕生するために行動し、生まれて来た子供にイエスと言う名前を付けました。ところで、このイエスもう一つ別の名前があることを聖書は教えます。

「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である」(23節)。

 インマヌエル、神は我々と共におられると言う意味の名前がイエスの別の名前として紹介されています。この名前は神の子でありながら、人間の姿をとってこの地上に来てくださった救い主イエス・キリストの生涯の意味を説明しています。神様は遙か天にあって私たち人間を遠くから眺めておられるのではなく、御子イエス・キリストに私たちと同じ姿をとらせてこの地上に送ってくださったのです。それは私たちとどこまでも深く関わり、その関係をいつまでも断つことを決してされない神の御業が示されています。
 しかも、イエスは私たち人間と同じ姿をとられて、この地上に来てくださったのです。貧しい大工のヨセフとマリアの子供として生まれ、そして彼らによって育てられたのです。新約聖書のヘブライ人への手紙の著者はこの人としてお生まれになったイエスについてこのように解説しています。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(4章15節)。イエスは弱い人間の姿をとられることで、私たちと同じ境遇に立たれました。だからこそ、彼は私たちの弱さを同情することのできる方なのだとこの聖書の言葉は説明しているのです。

(2)どうしてその子犬を選ぶのか

 ある日のこと、ペットショップの扉を開けて、一人の少年が店にやって来ました。彼はゆっくりペットショップの主人のところに近寄ると、自分が持ってきた袋を主人に見せて言いました。「おじさん、ぼくこれだけしかお金がないんだけれども、このお金で買える子犬あるかな」。その袋の中には今まで少年が一生懸命に貯めてきたであろう小銭がたくさん入っていました。「お母さんがね。僕が面倒見るなら、家で子犬を飼ってもいいって言ってくれたんだ」。そううれしそうに語る少年を見てペットショップの主人は「これではお金が足りない」とは言えなくなってしまいました。
 主人は少し考え込んだあと、すぐに奥の部屋の方にむかって口笛をピーピーと吹きました。するとその口笛に誘われてとても元気な子犬たちが飛び出して来て少年の周りに駆け寄ったのです。少年は可愛い子犬たちを見て興奮しました、でも少年はこの子犬たちからだいぶ遅れて同じような小さな子犬が、よろよろとこちらに近づいて来るのにすぐに気づきました。「おじさん、この子犬はどうしたの」。少年はペットショップの主人に尋ねました。「この子かい。この子は生まれたときから足が不自由なんだよ」。

 するとどうでしょう。少年はその子犬をじっと見つめながらペットショップの主人にこう言ったのです。「おじさん。ぼくにこの子犬が売ってくれない。この子犬を僕に欲しい」。この少年の申し出に納得のいかない主人はこう尋ねました。「君、いいかい。この子犬は足が不自由なんだよ。だから公園に連れて行って君と一緒にかけっこをして遊ぶこともできないよ。他の子犬を選んだほうがいいよ」。ところが少年は首を横に振って答えます。「ぼく、この子犬が絶対にほしいんだ。この子犬じゃないとだめなんだ。おじさんお金が足りなかったら、後で必ずお金を貯めて払うから、この子犬を譲って」と少年は必死に主人に語りかけます。少年のこの願いに根負けしたペットショップの主人は最後にこう尋ねました。「わかったよ。でもどうして子犬じゃないとだめなの」。すると少年は自分の履いているズボンを少しまくり上げました。なんとその少年の片足には義足がつけられていたのです。少年はその上でこう語ります。「だって、この子犬はぼくと同じなんだもの。僕たちは同じなんだ。だから僕とこの子犬はきっとお互いを理解できて、一番の友達になれると思うんだ」。
 聖書は神がイエス・キリストをこの世に人として遣わした理由を、私たちを理解して、私たちと共に生きるためであることを語るのです。神様は私たちの人生にこのイエス・キリストを通してどこまでも関わり続けてくださるのです。このインマヌエルの祝福、それがヨセフとマリアの二人を通してこの世に実現したのです。このクリスマスの奇跡を私たちは心からの喜びをもってお祝いしたいと思います。

【祈祷】
天の父なる神様。
 私たちのために尊い御子を私たちと同じ人として送ってくださったことを心から感謝いたします。その御子は私たちのためにこの地上の生涯を送り、私たちのために十字架につけられ、三日の後に死より甦ってくださいました。そしてあなたは私たちといつまでも共にいてくださいます。そのことを心から覚えて、御子の降誕を心から祝う者とさせてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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