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礼拝説教 桜井良一牧師
イエスの洗礼

(2008.1.06)

聖書箇所:ヨハネによる福音書1章29〜34節

29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
30 『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。
31 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、"霊"が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。
33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『"霊"が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。
34 わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」

1.ヨハネの証言
(1)誰の治療を受けたらよいのか

 新しい年を迎えて最初の礼拝を捧げています。皆さんはこのお正月をゆっくりと過ごすことができたでしょうか。私も少しでしたが茨城の実家に行って一泊することができました。初めての父のいないお正月を迎えて、遠方から久しぶりにやってきた妹とこれからの母のことについてなど少し話すこともできました。考えて見れば、昨年のお正月はまだ亡くなった父が健在で、そのときに一家で揃って撮った記念写真が父の葬儀のときの写真に用いられました。
 もちろん昨年のお正月が今年よりよかったと言う訳ではありません。昨年、今頃父は癌の転移を押さえるために抗ガン剤を服用していました。そしてそのための副作用でいろいろな障害が出て困っていた頃です。何よりも家で一番の食いしん坊の父がお正月に、目の前に並んだご馳走を食べられなかったのは可哀想でした。その代わりにカニのスープを「おいしい、おいしい」と飲んでいた父の姿を思い出します。
 父が抗ガン剤を飲み始めたのは胃ガンの手術をした担当医の薦めのためでした。このとき私は抗ガン剤の治療が父にとって適切かどうかを聞くために父を国立がんセンターに連れて行って診察を受けさせましたが、がんセンターの医師は抗ガン剤の投与に否定的な見解を示しました。そこで私達一家はどうすべきかかなり迷ったのですが、結局父が自分から決めて抗ガン剤の治療を受けるようになったのです。

(2)世の罪を取り除く神の子羊

 私達は深刻な病に冒されたとき、それを治すことができる名医の診察を受けたいと考えます。しかし、異なる医師が異なる見解を示すようになったらどうしたらよいのでしょうか。誰の見解と誰の治療を受けるべきか迷ってしまうはずです。しかし、今日の聖書の箇所に登場するバプテスマのヨハネのアドバイスは明確です。私達が冒されている深刻な罪の病を癒すことができる方はただ一人しかおられないと彼は私達にはっきりと証言しているのです。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」とヨハネはイエス・キリストこそが私達の罪を癒す唯一の名医であることを指し示すのです。
 それではこの名医は私達の罪をどのように癒してくださると言うのでしょうか。ヨハネはそのことについて「神の子羊」と言う言葉を使って私達に教えます。「神の子羊」それ第一に、イエス・キリストがイスラエルの民を災いから救った過ぎ越の子羊と同じように、自らの命を持って民を救い出す方であることを表しています。昔、神様は奴隷状態であったイスラエルの民を解放して、自由にしないエジプト王のためにエジプトの国に災いを与えられました。一晩にしてエジプト中のすべての初子の命が奪われると言う出来事です。その災いをイスラエルの民はあらかじめ知らされていた方法、つまり自分の家の門柱に羊の血を塗ることで免れることができたのです。イエスはその命を持って私達の上にくだされるべき災いから免れさえてくださる方なのです。
「神の子羊」は第二にイザヤの預言する苦難の僕(53章)を意味しています。苦難の僕は私達が受けるべき苦しみを身に受けて、裁かれるべき私達に代わって裁きを受けて、命を捧げられる方です。そして私達はこの方によって命を受けることができるのです。
 「神の子羊」は第三に勝利者としてのすべての権威を持つお方を意味します。黙示録にはこの子羊によってすべての悪が滅ぼされる姿が示されています。イエス・キリストはこのような治療方法を持って私達の抱える死の病、罪から私達を完全に解放してくださるのです。

(3)私よりも先におられた方(先在のイエス)

 ところで、私達は自分が治療を受けようとする医師がどのような経歴を持っているかを気にします。実はヨハネはここでイエス・キリストの経歴を披露しています。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』(30節)。

 ルカによる福音書にはイエス・キリストの誕生物語に先立って洗礼者ヨハネの誕生の物語が記されています(ルカ1章5〜25節、57〜66節)。これによればヨハネはイエスよりも先に誕生していることが分かります。ヨハネはイエスの先輩なのです。しかし、ヨハネは「その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである」と語っているのです。つまりヨハネは自分が地上に生まれる前からイエスはおられたのだと語っているのです。それはこのヨハネの福音書が冒頭で語った証言と重なっています。イエス・キリストは世のはじめから神と共におられた方、神ご自身であられると言うことをこのヨハネの証言は教えているのです。
 人間には他人の罪を解決する力はありません。もちろん、自分の罪を解決する力もないのです。しかし、イエスにそれが可能なのは、彼が最初から神と共におられた「子なる神」神ご自身であるからなのです。ですからイエスの治療が信頼できることをヨハネが示したイエスについての経歴も証ししているのです。

2.ヨハネの態度
(1)終始キリストを示す

 さてこのようにイエス・キリストが私達の罪の病を癒す魂の名医であることを指し示したヨハネは、徹底して自分の使命に忠実に生きた人であることがこの箇所からもよく分かります。何を聞かれても結局は自分のことを話し出す、そんな人が私達の周りにもいるかもしれません。いえ、それは他人のことではなく、私達自身のことであるとも言えます。私達は人に自分の存在が無視されたり、忘れられてしまうことを恐れて生きています。だから、何とかして自分の存在を人にアピールしようと必死なのです。ところが洗礼者ヨハネはそうではありません。彼は何を聞かれても自分のことではなく、イエス・キリストを証しすることに一生懸命なのです。
 この直前の箇所で祭司やレビ人、さらにはファリサイ派の人々がヨハネの元にやって来てヨハネは一体何者なのか、あるいは彼が人々に授けている洗礼はどのような意味があるかについて尋ねているところがあります(19〜28節)。ここの部分を読んでいておもしろいのはヨハネは質問者たちの意図に結局は答えてはいないのです。彼は自分のことを説明し出したのかと思うとすぐに話が変わって、やがて来られる救い主について語り出してしまうのです。

(2)私は知らなかった

 そんなヨハネなのですが今日のところで彼は興味深い言葉を繰り返して語っています。「わたしはこの方を知らなかった」(31節、33節)と言う言葉です。聖書によればイエスの母マリアと洗礼者ヨハネの母エリザベトとは遠縁の仲であり、互いに面識があったことが記されています(ルカ1章36節、39〜46節)。ですからその子であるイエスとヨハネは全く面識が無かったとは考えられません。ここでヨハネが「わたしはこの方を知らなかった」と言っているのは、「このイエスが自分の預言してきた方であるとは知らなかった」と言う意味の言葉だと考えることができます。
 私達は預言者と言うと何でもよく知っていて、これから起こることをすべてズバリと当てると言った誤解を抱いてしまうことがあります。しかし、聖書に登場する預言者はそのような存在ではありません。彼らの重要な使命はそのときに神様から委ねられたメッセージを人々に伝えること、また自らもそのメッセージに示された神様の御心に従うことにありました。バプテスマのヨハネはそのような意味で私達と同じ普通の人間の一人に過ぎませんでした。彼はこれから自分の人生がどのようになってしまうかについても十分には知っていませんでした。しかし、彼は与えられた使命に忠実に生き、人々にイエス・キリストを証しし、自らもその到来を待ち望んだのです。
 このヨハネの生き方は信仰者としての私達の生き方をも指し示しています。私達もまた「知らないことが」あるのです。しかし、だからと言って私達はそこで立ち止まってはいけないのです。聖書にすでに示された神様の御心に忠実に生きることが私達に与えられた使命なのです。そして、神は御心に従って生きる私達にいままで知らなかったこと、知り得なかったことを少しずつ教えてくださるのです。

3.聖霊によるバプテスマ
(2)ヨハネの目撃した印

 さて、洗礼者ヨハネはどのようにしてイエスが自分の預言していた方であることを確信することができたのでしょうか。ヨハネはこう証言しています。

「そしてヨハネは証しした。「わたしは、"霊"が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『"霊"が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(32〜34節)。

これはイエスがヨハネの元にやって来てヨルダン川で洗礼を受けたときのことを語っています(マタイ3章13〜17節、マルコ1章9〜11節、ルカ3章21〜22節)。いずれの福音書もこのとき聖霊が鳩のような姿でイエスの上に降ったことを証言しているからです。ヨハネはこれこそが神より自分が示された、来るべき救い主の印であったことを証言しているのです。

(2)イエスの上に止まる聖霊と私達の洗礼

 このときより聖霊はイエスから離れず、彼の上に止まり続けているとヨハネはここで証ししています。イエス・キリストの救い主としての生涯、公の生涯(公生涯)はこのイエスの洗礼から始まっています。洗礼は本来、罪人が受ける者で罪を犯されなかったイエスが受ける必要はなかったものです。しかし、イエスがこのヨハネの洗礼を受けられたのはこれから救い主としてイエスが自分のためにではなく、私達罪人のために生きられることを決心されたことを示す印なのです。
 ところでヨハネはここでこのイエスが聖霊によって洗礼を授ける人であることをも証言しています。ヨハネの授けた洗礼は「水による洗礼」と言って、私達罪人とイエスとの関係を明らかにするために施されました。ですから、せっかくヨハネの洗礼を受けても、その人が真の救い主であるイエスを信じ、その方を受け入れなければ何の意味もなくなってしまいます。ヨハネの洗礼はその意味で、このイエス・キリストの聖霊による洗礼がなければ何の役にも立たないものなのです。
 しかし、私達がイエスを信じて受ける洗礼はこのヨハネの水による洗礼とは異なります。私達の洗礼は、キリストの救いが聖霊の力によって私達の人生に確かに実現したことを示す印なのです。私達はこの洗礼によって、私達を罪から解放するただ一人の名医イエス・キリストの治療を受けている患者であることが明らかになるのです。そのイエスは私達の上に聖霊を送り続け、私達の病んだ部分をすべて癒し、神の子としてふさわしく生きることができるようにしてくださる方でなのです。だから私達は迷う必要がなく、私達の人生をこのイエスに委ねて生きることができるのです。

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天の父なる神様
 私達が罪から救い出されるために、「神の子羊」であられるイエスを遣わしてくださったことを感謝します。どうか私達の信仰生活のうちに聖霊を豊かに送ってくださり、その癒しの業を続けてくださり、私達が神の子としてふさわしい者となることができるように導いてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン
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