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礼拝説教 桜井良一牧師
最初の弟子たち

(2008.1.13)

聖書箇所:ヨハネによる福音書1章35〜51節

35 その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。36 そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。37 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。
38 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、
39 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。
40 ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。
41 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア『油を注がれた者』という意味に出会った」と言った。
42 そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ『岩』という意味と呼ぶことにする」と言われた。
43 その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。44 フィリポは、アンデレとペトロの町、ベトサイダの出身であった。
45 フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」
46 するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。
47 イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」
48 ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。
49 ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
50 イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」
51 更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

1. 洗礼者ヨハネの使命
(1)洗礼者ヨハネは倫理の教師?

 今日の聖書箇所でも先週と同じように洗礼者ヨハネが登場しています。しかし、彼の姿はこの物語の最初の部分だけに登場し、すぐに消えてしまいます。そしてその後の物語に登場するのはイエスと新しく彼の弟子となった人たちです。
 金曜日のフレンドシップアワーで聖書箇所は違うのですが、この洗礼者ヨハネについての物語を学びました。そこで使用しているテキストはこの洗礼者ヨハネの教える悔い改めから、私たちの信仰生活に関係する何らかの教訓を導き出そうと構成されていました。ところが、そのテキストの用い方の問題なのでしょうか。どうもテキストが示す私たちの信仰生活への適応がすんなりと心に入って来ないのです。よく考えてみると、どうもそのテキストは洗礼者ヨハネの教える悔い改めをイエス・キリストにある救いと切り離して取り扱っているように思えてなりませんでした。ですから、どうしてもそこで出てくる適応は「嘘をつくな」とか、「人と仲良くしよう」と言う倫理的な教えに終わってしまうのです。もちろん、私たちは人間生活を営むためにこのような倫理を学ぶ必要があるかもしれません。しかし、洗礼者ヨハネの活動を人の倫理を説いた教師と解釈するなら、彼の活動の大きな意味が失われてしまうような危惧を感じます。なぜなら、洗礼者ヨハネの使命はただ一つ救い主イエス・キリストを人々に指し示すと言うところにあったからです。

(2)イエスを指し示すことに終始した人生

 もし、このヨハネの教える悔い改めを人が教える倫理と同等なものと考えてしまえば、そこで自分たちがその教えに従い、満足できるならそれで終わってしまいます。それ以上、人は何も求めなくなってしまうからです。しかし、洗礼者ヨハネは私たちに正しい生活を営むための倫理基準を求めるようにと訴えたのではありません。もっとも大切なもの、いえ、私たちに罪人にとって絶対に必要な方、救い主イエス・キリストを私たちが真剣になって求めるようにと彼は訴えたのです。ですから彼の訴えた悔い改めはそれで自身で人々を満足させるものではなく、この救い主を心から求めることができるようにするためのものだったのです。ですから今日の物語でも洗礼者ヨハネはこのイエスを自分たちの弟子に指し示すことで使命を終え、その舞台から姿を消していきます。洗礼者ヨハネは自分の教えに耳を傾ける人々の心に、このイエスだけが残るように願って活動したのです。
 このヨハネの姿は説教を語る説教者はもとより、すべての信仰者の模範であると言っていいかもしれません。私たちもヨハネと同じように救い主イエス・キリストを伝える使命を神様からいただいています。私たちがこの使命を果たすことができる秘訣はどこにあるのでしょうか。私たちにとって大切なのは自分のことが誰か他人に覚えられることではなく、このイエス・キリストによって覚えられていると言うことです。つまり私たちが神様から与えられた使命を喜びを持って全うする秘訣は、自分が誰か他の人間から評価されたり、覚えられていることではなく、神様に覚えられていること、神様に選ばれていること知ることにあると言ってよいのです。

2.弟子たちの召命
(1)イエスにつながる

 そのような意味で、今日のイエスの弟子たちの召命物語は、イエスと弟子たちとの出会いを通して、彼らがイエスに選ばれていたこと、覚えられていたことを明らかにしています。
 さて、ヨハネがイエスを「見よ、神の小羊だ」と指し示したとき、二人の弟子がそれを聞いてイエスに従ったと語られています(37節)。この二人のうちの一人はシモン・ペトロの兄弟アンデレ(40節)で、もう一人の人物はここで名前が明らかにされていません。このもう一人の弟子と言うのはおそらく使徒ヨハネのことであろうと考えられています。なぜなら、この福音書はヨハネの取り扱いについて特別な表現を使っているからです。このヨハネに対してあるところでは「もう一人の弟子」と言う匿名が使われたり、あるところでは「イエスに愛された弟子」という表現が使われているからです。
 イエスは振り返って自分に従ってくるこの二人に「何を求めているのか」と問われています。そしてその問いに答えて二人はイエスがどこに宿をとっておられるのかと問い返しています。おそらく、この二人は洗礼者ヨハネの言葉に促されつつも、自分自身でこのイエスがどのような方であるかを確かめたいと願ったのでしょう。二人はこの晩、イエスと同じところに宿を取ります。
 ここで「イエスのもとに泊まった」と言う言葉はこのヨハネの福音書ではとてもよく用いられる言葉です。特に有名なのはこの同じ福音書の15章に記されている「ブドウの木と枝のたとえ」です。ここでイエスは私たちに何度も「わたしにつながっていなさい」と言う勧めを語っています。ここで「つながっている」と訳されている言葉と「泊まる」と言う言葉は同じ言葉です。つまり、この言葉はイエスと私たちとの命の関係を表す言葉であると言えます。私たちはこのイエスにつながっていなければ何も出来ない者たちです。そして信仰とはこのイエスと私たちの命の関係が堅く結ばれたことを意味するものです。ここでこの二人もイエスの元に「泊まる」ことで、イエスとの命の関係が生まれ、イエスの弟子として生きる人生が始まったのです。

(2)受け継がれる命の関係

 このようにイエスとの命の関係を始められたアンデレは、そのイエスの命にふれることで、じっとしていることができなくなったのでしょう。夜が明けると真っ先に自分の兄弟のシモンのところに行って「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」(41節)と告げました。そしてそのシモンをイエスのところに連れて行ったというのです。

 このアンデレの行動をきっかけにこんどはイエスとシモンの関係が始まります。イエスはこのシモンに出会うと「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言う名前をつけられます。聖書には神様によって名前を変えられた人が他にも登場しますが、この改名はいずれも神様がその人に与えようとする使命と深く関係しています。ペトロと言う名前についての解説はほかの福音書の方に詳しく書かれています。そして、いずれも彼の使徒としての働きの重要さを示す内容となっています。私たちはペトロとその後継者であるローマ教皇が教会の代表であると言う見解には同意できませんが、初代教会誕生の物語の中でペトロの働きが重要であったことは認めています。
 さて、このイエスとの命の関係はその翌日にも今度は別の人々を通して始められています。アンデレとペトロと同じカリラヤのベトサイダ出身のフィリポと言う人物がその人です。彼はイエスに「わたしに従いなさい」と言われてイエスの弟子となります。この命の関係が始まるとすぐにフィリポは友人のナタナエルにイエスを紹介しているのです。
 私は今から30年近く前、当時大学生だったころ教会に導かれて、洗礼を受けてキリスト者となりました。そのきっかけはいつも常磐線の電車の中で会う、高校時代の後輩との交流を通してでした。彼はいつも電車の中で私に会うと「櫻井さん。教会はいいですよ」と言うのです。彼は私を無理強いして教会に連れて行こうとしたわけではありません。ただ、いつも本当にうれしそうな顔をして「教会はいいですよ」と言う言葉を繰り返し私に語るのです。当時の私は学生運動の活動家で、無神論を貫く共産主義者として生きようとしていましたから彼の話を真剣に聞くことはありませんでした。しかし、彼の本当にうれしそうな顔と「教会はいいですよ」と言う言葉が私の脳裏に残されたのです。やがて、私は学生運動に挫折して、体も心も病んでしまいまいたが、そのとき思い出したのが彼のこの言葉と笑顔でした。そして、私は今まで自分とは何の縁もなかったキリスト教会の門をくぐることになったのです。考えてみると、あのとき私は先にイエスに出会った高校の後輩を通して、この命の関係に導かれたのだなと思います。皆さんがどのようなきっかけで、どのような人間関係の中で信仰に導かれたかはわかりません。しかし、皆さんに届けられた主イエスとの命の関係は、元をたどればこの弟子たちとの関係に行き着くのです。このときに弟子たちとイエスとの間で結ばれた命の関係が、聖霊の働きを通して今も私たちに伝えられているのです。そして、この関係を私たちは別の言葉で神様の選びと表現するのです。私たちはイエスによって選ばれているからこそ、今、この命の関係の中にあり、信仰生活を送ることができるのです。

3.もっと偉大なこと
(1)ナタナエルを知っておられたイエス

 ナタナエルはおもしろいことをここで言っています。

「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(46節)。

 ナザレと言う村は旧約聖書には一度も登場しない、ガリラヤにあった田舎町でした。ですから、ナタナエルは「そんなところからは救い主はおろか、預言者さえ生まれることはない」と勝手に判断しているのです。これはナタナエルが持っていたナザレと言う村に対する偏見と言ってもいいでしょう。彼は神様の自由な業を人間の側で限定付けてしまう愚かな行為をしているのです。しかし、そのナタナエルを驚かせたのは次のイエスの言葉でした。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」この言葉の詳しい意味が何であったのかは別として、この言葉を聞いてナタナエルはすぐにイエスは自分のことをよく知っていることに気がつき驚きます。そして「どうしてわたしを知っておられるのですか」と尋ね返さずにはおれなかったのです。それに対するイエスの答えは「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言うものでした。ここにはナタナエルがイエスを知る前から、イエスはナタナエルのことをよくご存知であったという事実が記されています。

 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(15章16節)。私たちがイエスのことを知る前から、私たちを知って、私たちを選んでくださっていた神様の恵みがこの物語の中にもはっきりと表されているのです。神様が私を知っていてくださった。そしてこの私のためにイエスを救い主として遣わしてくださった。この神の選びこそ私たちに生きる力と喜びを与えるのです。

(2)天の梯子

 イエスは驚くナタナエルに続けてこのように語ります。「「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」」(50〜51節)。

 このイエスの言葉を聞いて皆さんはたぶん旧約聖書に登場する族長ヤコブの物語を思い出されると思います。ヤコブは兄のエサウを騙して長子の権利を彼からまんまと奪い取りました(創世記27章)。ところがヤコブは長子の権利を得たことの引き替えに、兄エサウの怒りを買い、命を狙われることになってしまうのです。そこでヤコブはひとりぼっちで生まれ故郷を捨て、遠い国へと逃亡の旅を始めることになります。
 その旅の途中でヤコブは、ベエル・シェバと言うところで宿を取ります。そこにあった石を枕に寝たと言うのですから野原に野宿したと言うことになります。本当に心細い旅であったと思います。ヤコブは自分からこの災いを招き入れたようなものですから、自業自得、ほかの誰かにこの責任を押しつけることもでいません。「ああ、自分はついにひとりぼっちになってしまった」と思ったときに、ヤコブは次のような夢を見ます。「すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」(創世記28章12節)。
 この夢は神様がヤコブに見せてくださった幻でした。神様はこの夢の解き明かしをヤコブに告げています。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」(15節)。そしてヤコブはこの力強い神様の励ましを聞いて、新たな人生への旅を出発したのです。
 この言葉は神様が私たちとともにいてくださると言う約束の言葉です。自ら罪を犯して、誰も頼ることなく、ひとりぼっちで歩むしかなかった罪人の私たちに、神様がともにいてくださると言う祝福を知らせる言葉なのです。そして、その祝福はこのイエス・キリストを通して私たちの人生に成就しました。罪を犯して神様とともには歩めない私たちが、イエスによって救われ、神様とともに歩む者とされたのです。ここでイエスはこの神様の約束こそ、私たちがイエスを信じることを通して知ることができる偉大な出来事だと告げているのです。

***
天の父なる神様。
 私たちを選んで、私たちに聖霊を送り、イエスとの命の関係に導いてくださった幸いを感謝いたします。アンデレやフィリポがその関係を兄弟や友人に伝えたように、この関係を人々に伝える者としてください。あなたは私たちがあなたを知る前から私たちのことをすべてご存知の方です。私たちがあなたに信頼して、与えられたそれぞれの使命を全うすることができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

 
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