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礼拝説教 桜井良一牧師
聖霊に導かれる教会

(2008.1.27)

聖書箇所:使徒言行録1章7〜8節

父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

1.教会設立の年
(1)改革派教会を建てる使命

 この礼拝では今日の午後に行われる会員総会のために、今年の教会の年間テーマと年間聖句を取り上げてお話ししたいと思います。今年の教会の年間テーマは「聖霊に導かれる教会」です。また、年間聖句として選んだ箇所は今、読んでいたただいた新約聖書の使徒言行録1章7〜8節です。このテーマと聖句を選んだ訳についてはすでに皆さんに配布いたしました教会の年報にその説明を記しておきました。少しその一部をここで読ませていただきたいと思います。
 今年はミッションの長期計画に従い、東川口伝道所が教会設立を行い、日本キリスト改革派教会東部中会に加入する予定の年となりました。この教会設立の目標が達成されるため私たちはそれぞれが神様から与えられている賜物を用い、協力し合ってこの事業を成し遂げる必要があります。もちろん、教会設立だけが私たちの教会に与えられた目標ではありません。主イエスはこれからも私たちの群れにもさらに大きなビジョンを与えて続けてくださるでしょう。
 皆さんがご存じのように今年は、この東川口伝道所が「伝道所」から「教会」になろうとする年となりました。この東川口伝道所は北アメリカのキリスト改革派教会(CRC)の日本伝道会によって1993年にこの東川口の地に開設されました。日本にはたくさんのキリスト教会があります。そのような中で、改革派教会の宣教師たちがアメリカからわざわざ日本にやって来て、伝道を開始した理由は、宣教師たちが日本に改革派教会を建てるという使命を持っていたからです。
 今から500年近く前に当時のヨーロッパで興った宗教改革の活動によって、私たちのルーツともいうべき改革派教会が生まれました。改革派教会は当時、聖書の教えからたいへん離れてしまっていた教会を本来の教会に再生すべく、教会にとってもっとも大切な聖書の権威を回復させ、今までのキリスト教会の信仰の伝統を再検証した上で、その伝統を正しく受け継いだ教会を作ろうとしました。その改革派教会の伝統を受け継ぐ教会をこの日本の地に生み出すために、アメリカから宣教師たちが海を渡ってやって来たのです。もちろん、この宣教師たちの活動は彼らだけではなくアメリカにある無数の信徒の祈りと献身(献金)によって支えられてきたものでした。

(2)長老主義と改革派信仰

 私たちは今、教会設立のために特にこの教会に長老候補が与えられることを祈っています。私たちの改革派教会は長老の集まる会議によってイエス・キリストから教会にゆだねられた権能、天国の鍵を行使します。この制度は改革派教会が聖書の権威と正しい教会の伝統を継承するためにもっともふさわしいものだと考えてきたものです。つまり、改革派教会にとって長老が会議を行って教会を運営することは、改革派教会の信仰を守るために不可欠であり、その信仰と切っても切り離せない関係にあるのです。
 もちろん教会はこの長老たちだけが作っているものではありません。そこに集まるすべての信仰者が作り上げるものです。聖書はこの仕組みを人間の体にたとえようとしています(コリント一12章12〜31節)。ある者は足の役割をし、ある者は手の役割をしています。そしてその頭はイエス・キリストだといわれています(コロサイ1章18節)。長老制度はこのようなキリストの体である教会が生き生きと働くためにもうけられたものだと言えます。ただ、私たちがここで忘れてはならないことは教会の制度がいくらよく整えられていても、そこに生きたイエス・キリストが働かなければ、真のキリスト教会とはなり得ないということです。
 どんなにすばらしい車でも、その車に運転手が乗り込まなければ、車は動き出すことができず、ただの鉄の固まりでしかありません。ですから教会を本当の教会にするための運転手は、イエス・キリストなのです。そしてイエス・キリストはこの東川口教会を導くために聖霊なる神を送ってくださるのです。

2.ダイナミックな使徒たちの教会
(1)地の果てに至るまで

 私たちはこの主イエス・キリストとそのキリストが送ってくださる聖霊なる神、そして教会との関係をキリスト教会の最初の歴史を記す使徒言行録の記録から学ぶことができます。そのことについて年報ではこのように記しています。
 使徒言行録の記事を読むと、初代教会が困難の中でダイナミックに発展していった過程を学ぶことができます。そして初代教会の成長の秘訣は、神様が聖霊を通してその教会に豊かに働いてくださったことにあることがわかります。この教会にとって重大な転機を迎える年に私たちの東川口伝道所にも同じ主の聖霊が私たちを通して働いてくださることを信じたいと思います。そのために私たちは祈り、またこの聖霊の働きかけに従って、教会設立の業を成し遂げたいと願っています。
 実は今年、選んだ年間聖句はこの使徒言行録の一番最初に登場する物語です。このときを境にして、復活された主イエスは天に昇られます。しかし、キリストの地上での御業がここで終わってしまったと言うことではありません。これ以降、キリストは聖霊を教会に送り、その教会を通して働き続けておられるのです。この聖書の部分から、私たちが陥りやすい誤解とそれに対するイエスのアドバイスをいくつか学びたいと思います。
 第一の誤解は私たちが抱く目標、あるいは目的に関わる問題です。1章の最初でイエスは弟子たちに、やがて彼らに洗礼者ヨハネが預言していた通りに「聖霊によって洗礼を授けられる」ときがやってくると預言されています(4、5節)。そのとき弟子たちはイエスにこう問い返しています。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(6節)。
 当時、イスラエルの人々はローマ帝国の支配の元で苦しんでいました。もしかすると、彼らは自分たちの不幸の原因をすべてこのローマ帝国のせいにしていたところもあるかもしれません。ですから、自分たちが幸せになれるのはイスラエルの国がローマの支配から解放されて、再建されることにあると考えていたのです。そして神様の遣わされる救い主はこのためにやってきてくださる方だと彼らは勝手に思いこんでいたところがあったのです。
 ところがイエスは彼らの考えを直接にはここで否定していませんが、次のような答えを語っています。「そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(8節)。
 イエスの視野はイスラエルの国だけに向けられてはいませんでした。「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と彼らに教えられているのです。ですから私たちの教会設立は、私たちの最終目標ではありません。むしろ、私たちは地の果てに至るまで、主イエスの証人となる使命を果たすべく、この教会に集められていることを知る必要があるのです。

(2)聖霊によって

 第二の誤解は誰がその業を行うのかと言うことです。私たちは重要な事業を行おうとするとき、まずその事業を行い得る優秀な人材を集めようとします。ところが、初代教会に集められて人々はそのようなえり抜きの人材ではありませんでした。ペトロやヨハネはガリラヤ湖で働いていた漁師でした。そのほかにも税金取りや、農民、家庭の主婦、そこに集められたのは一般の庶民たちでしかありませんでした。そして、肝心なことは彼らがイエスの十字架を前にして、逃げ出すことしかできなかった無力な人たちであったと言う事実です。そして、彼らはむしろ大切な神様の事業に参加しようとしるとき、自分の無力さを痛感させられる必要があったのだと考えることができるのです。
 それ以前の弟子たちは、自分こそイエスの弟子にふさわしい、イエスが王国を再建されたときには自分はその総理大臣になれる才能を持っているとまで思い込んでいた傾向がありました。しかし、彼らのその自信はイエスの十字架を前に完全に崩されてしまったのです。だからこそ彼らはイエスの語られた聖霊の約束に希望を持つことができたのです。そして自分たちに聖霊が与えられる、その聖霊を通して主ご自身が働いてくださる、このことを確信するために彼らはまず、自分の無力さを知る必要があったのだとも言えるのです。
 昔、イスラエルの国が隣国の侵略行為に苦しめられたとき、神様はギデオンと言う人物をイスラエルのリーダーとして立てました。この戦いのためにギデオンの元にイスラエル中から二万二千人の人が集められました。実はこのときのイスラエルの敵の数はこの何倍もの大群で、これだけでもイスラエルの軍隊は劣勢であったのです。ところが神様はこの二万二千人の人々を「これでは多すぎる」とギデオンに言って、たった三百人にまで減らされてしまったのです。このとき神様はその理由についてこう述べています。「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう」(士師記7章2節)。
 昔も今も、神様はご自分の業をなさろうとするときに、私たちにこのことをまず悟らせようとされるのです。ペトロたちが主イエスの十字架を前にして打ち砕かれる必要があったのはこのためです。そして聖霊はそのような人々を通して豊かに働かれると言えるのです。

3.聖霊の導きを願い、そして従う
(1)祈る教会

 主イエスは、弟子たちが聖霊を受けて地の果てまで主イエスの証人となるためには、何をまず彼らに要求されたのでしょうか。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(4節)。人は案外、じっとしていることに耐えられないところがあります。何かをすることで今の事態を打開したいと考え行動するのです。それは自分の力で物事を動かしたいと願うからです。しかし、私たちが何かをして神様を動かすことはできません。神様が働きかけて、私たちを動かされるのであって、その逆では決してないのです。弟子たちはその神様の働きかけを受けるためにエルサレムにとどまり続けました。
 それでは彼らはそのエルサレムでどのような暮らしをしていたのでしょうか。使徒言行録は続けて記しています。「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」(13〜14節)。
 鎌倉時代の武士の心構えを示す言葉に「いざ、鎌倉」と言う言葉があります。一度、主である鎌倉幕府やその将軍に重大な事態が起これば、自分たちはすぐに駆けつけると言う決心を示した言葉です。弟子たちは聖霊が自分たちの上に降ったなら、いつでもその働きかけに応じることができるように祈りを持って備えました。祈りはこの教会に聖霊が働かれるためになくてはならいものです。言葉を換えて言えば祈りのないところ、その準備のないところには聖霊は豊かに働いてはくださらないのです。

(2)キリストを証しする教会

 初代教会が聖霊を受けて歩み出したときに、起こった出来事の中で足の不自由な人が歩き出したと言う奇跡はともて有名です(3章)。エルサレム神殿の門の前で、生まれつき足の不自由な人がそこに毎日訪れる参拝客たちを目当てに物乞いをしていました。そしてそこにペトロとヨハネが通りかかったのです。そのときペトロが語った言葉はとても有名です。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」(6節)。
 中世のキリスト教神学者トマス・アキナスに関する伝説にはこんなお話があります。あるときトマスがローマの教皇庁を訪ねたところ、ちょうどローマ教皇は教会に集まった金銀を数えていたと言うのです。教皇はトマスの姿に気づくと得意げにこう語りました。「トマス君、今の教会は『金銀は私にはない』とはもう言えないね」と。するとトマスは悲しげにこう答えたと言うのです。「はい教皇様その通りでございます。しかし、今の私たちはその後に続くペトロの言葉も言うことはできません」。
 初代教会に起こった奇跡のすべては主イエスが聖霊を通して今も働いてくださっていることを表す印でした。ですからペトロやヨハネはそのイエスの御業を人々に知らせるために用いられた証人だったのです。いつの時代も教会はこのイエスの御業の証人となる使命が与えられているのです。ですから、私たちは教会の会員数や献金額を誇る必要はありません。イエス・キリストが生きていることを証しすることが私たちの使命だからです。
 ペトロの言葉を通して足の不自由な人が歩き出したように、私たちにゆだねられている聖なる福音は罪人の罪を許し、死から命へとよみがえる奇跡を私たち通して起こし続けることができます。そのことを信じて、私たちにはキリストの御名によって福音を語り続けることが求められているのです。

(3)キリストの愛に満たされる教会

 毎週、水曜日の晩に雪の下カテキズムと言う改革派教会の伝統に立ちつつ、日本で作られた信仰問答集を学んでいます。この学びの中で信仰問答の著者は聖霊について「主イエスを生かした霊」であると教えています。聖書を読むとイエス・キリストは私たち人間にはとても不可能なことをいろいろと行っています。そう言うと私たちはキリストがなされた超自然的な奇跡を連想しがちですが、むしろもっと驚くことは主が喜んで父なる神に従い得たこと、そして父なる神と私たち人間を愛し抜かれたことです。私たちはこの事実を聖書から学ぶときとても自分にはこんな生き方はできないと考えてしまいます。ところがその聖書は私たちにこの主に倣って生きることを勧めているのです。
 どうしたらそんなことが可能となるでしょうか。答えは聖霊の働きにあります。聖霊はイエスの内で働いて、彼が救い主としての御業を成し遂げることができるようにと助け導いた方です。主イエスはその同じ聖霊を私たち一人一人に、そして私たちの教会に与えてくださると約束してくださっているのです。だから、聖書の勧めはとても厳しいものなのです。人間の条件を遙かに超えた従順が、そして愛が私たちには求められているのです。
 そのため、私たちはここでも十字架を前にして自らの力を絶望せざるを得なかった弟子たちと同じ体験を日々味わいます。自分の力では、そんなことはできない、どうしてイエスは私たちのために従順と愛のハードルを低くしてくれはしないのだろうかと不満を抱くこともあるでしょう。しかし、主イエスの語るハードルが遙かに高いのは、それを可能とする主イエスの霊、つまり聖霊が私たちに与えられ、私たちの内にで働いてくださるからです。他人も自分も愛し得なかった私たちの内に聖霊が働いて、主の御業を行ってくださるのです。ですから主が表してくださった愛が私たちの教会に実現するのはこの聖霊の働きによるものです。私たちは、この聖霊の働きに信頼し、祈りを持って備え、いつでもこの聖霊の働きかけに従い得る教会を作って行きたいと願うのです。

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天の父なる神様
 私たちをキリストの教会に集め、私たちに聖霊を送ってくださる御業に心から感謝します。私たちがあなたを動かすのではなく、私たちが聖霊によって動かされるようにしてください。どうか、私たちを通して今も生きておられるイエス・キリストの御業が日々、豊かに表されるようにしてください。私たちに与えられた教会設立という課題が、あなたによって確かなものとなりますように導いてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
 
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