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礼拝説教 桜井良一牧師
「『これだけある』ことへの感謝」

(2008.2.03)

聖書箇所:ヨハネによる福音書6章1〜15節

1 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。
2 大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。
3 イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。
4 ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。
5 イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、
6 こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。
7 フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。
8 弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。
9 「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」
10 イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。
11 さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。
12 人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。
13 集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。
14 そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。
15 イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。

1.欠乏を通してキリストに導かれる

 皆さんは、おそらく数多い聖書の言葉の中で特別の思い出があると言う言葉をいくつか持っておられると思います。私たちはよく聖書を読む機会を得ますが、その割には聖書の言葉をあまり覚えてはいないようです。個人的な差はあるとしても、その大きな原因は読んだ聖書の言葉が自分の心にピント来ない、残らないと言う場合が多いのではないでしょうか。それは残念なことですが仕方がないことです。しかし、そんな私たちも「この聖書の言葉はどうしても忘れることができない」といったものをいくつか持っているものです。
 私はこのように毎週、皆さんに聖書のお話をします。自分でもいろいろな問題を抱えながらこの聖書の言葉に向き合い、その意味を探ろうとしています。そこで不思議なことなのですが、私がどうしていいかわからないような深刻な問題で悩むときほど、読んだ聖書の言葉はとりわけ、自分の心に語りかけ、忘れられないと言う体験を何度もして来ました。今考えてみると、私はそのような困難を覚えるたびに、自分の中の欠乏、つまり自分の力ではこの問題を決して解決することができないと言うことを痛切に感じました。そしてそのときに聖書の言葉がむしろ自分に語りかけてくるのを感じることが多くあったのです。満腹している者は目の前にどんなごちそうが並んでも、食欲がわきません。しかしその反対に空腹を覚える者は、どんなものでもごちそうと感じ、それに飛びつくものです。これはいい譬えではないかもしれませんが、私たちが本当に自分の心の空腹感を覚えるときに、聖書の言葉は私たちに特別に語りかけて来ると言うことが確かにあるのではないでしょうか。
 今日の箇所はイエスがわずかな食べ物を通して、5000人の人々、この場合女性や子供の数は勘定に入れられていませんから、さらにもっとたくさんの人の空腹を満たされたと言う出来事が記されています。つまり、そこにはたくさんの空腹を覚える群衆が集まっていました。聖書はこんなにたくさんの群衆がどうしてイエスの後を追ったかについての理由をこう語っています。

「大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである」(2節)。

 群衆がイエスの後を追ったのはイエスが病人を癒されたことを目撃したからだと言うのです。「イエスに付いて行けば病気を治していただける」。そこには健康を害して、病で苦しんでいる人がたくさんいたのかもしれません。彼らは健康についての欠乏感を持っていました。このようにここに集まった人々はイエスの言葉を受け入れる準備を持っていたと考えることができます。

2.王としようとした群衆の意図
(1)イエスと群衆の断絶

 それではその群衆は本当にイエスの語られる言葉を自分に語られているものとして受け止めることができたのでしょうか。イエスにこそ、自分たちのための救い主であると言うことを覚え、信仰を告白することになったのでしょうか。実はそうは行かなかったようなのです。

「イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた(15節)」。

 この出来事によってたくさんの人々の空腹が癒されました。そこで彼らの欠乏が満たされたのです。そしてこの出来事を体験した群衆はイエスを王様にしようとしたと言うのです。「このイエスがいれば自分たちはいつも欠乏を感じることがない、飢えに苦しむことがなく幸せに暮らすことができる」。群衆たちは自分たちが欠乏から解放される手段としてイエスを自分たちの王としようとしたのです。いえ、むしろ王とは名ばかりのものであって、群衆はイエスを王として彼に仕えようとしたのではなく、自分たちに仕えさせようとしたのです。つまり彼らはイエスを「王」と名付けられた僕にしようとしていたのです。
 しかし、イエスはこの群衆のたくらみを知って一人で山に退かれてしまいます。ここには群衆とイエスとの間に断絶が生まれています。群衆は確かに、自分の欠乏を覚えて、真剣にイエスの後を追ったまではよかったのです。しかし、彼らは自分たちが欲しているもの以上のものを持って来てくださったイエスを知ろうとはしなかったのです。

(2)イエスが提供する祝福

 イエスが私たちに対してなされようとする救いは、空腹を満たすものでもありません。また、私たちの健康を回復させることでもありません。なぜなら、それらの欠乏は一時的には満たされてもまた、元に戻ってしまうからです。イエスは私たちが元に戻ることのない救いを提供するためにやってこられた方です。それではイエスは私たちに何を与えてくださるのでしょうか。それをヨハネ福音書は「永遠の命」と紹介しています。罪の虜であった私たちは死に運命づけられていた者たちでした。この私たちにイエスは「永遠の命」を与えてくださるために、この地上に救い主として来てくださったのです。
 しかし、私たちはそのことがよくわかりません。どうしても自分の目先の願望や欠乏を満たすことのみに心奪われてしまい、イエスの提供されようとする「永遠の命」の祝福のすばらしさに気づくことがないのです。だからこそ、イエスは私たちを絶えず試されるのではないでしょうか。私たちは試練の中で、今まで自分が追い求めていたものが頼りのならないものであることに気づかされます。そして私たちは様々な試練を経て、イエスが提供されようとする「永遠の祝福」のすばらしさに気づかされるのです。その意味で試練は私たちの心をイエスの提供する祝福へと導く、すばらしいチャンスであると言うことができるのです。

3.「試み」の意味

 今日の物語の中でも次のような言葉が登場します。「こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである」(6節)。自分たちを追って来るたくさんの群衆を見てイエスは、弟子の一人のフィリポに「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(5節)と尋ねられます。実はこの質問はイエスがフィリポを試すために語られたものだと聖書は説明しているのです。イエスは、少し意地悪なのではないか。そんなふうに聞かれたら誰でも「無理です」と答えるのは当たり前なのにとここを読む私たちは思ってしまいます。しかし、イエスはこの試験にフィリポが合格すれば、自分の弟子として認めるが、そうでなければ失格者として家に返そうと考えておられるのではないのです。
 私は神学校でほかの人よりもたくさん再試験を受けるチャンスに恵まれました。再試験でだめだったので、再々試験も受け、それでもだめらならレポート提出と言ったことになるのもたびたびでした。しかし、神学校の教師たちは私を試験で落として、牧師になることをあきらめさせようとしたのではないのです。それなら試験は一回だけで済んだはずです。そうではなく、神学校の教師たちは私を何とか合格させたい、牧師にさせたと思ってくださったからこそ、試験を何度も繰り返し受けるチャンスを私に与えたのです。
 イエスの試験もそのような意味があったのだと思うのです。イエスは弟子を自分の本当の弟子にするために試験をされたのです。そしてその試験を通して弟子たちはイエスが救い主として、何を行われ、何を私たちのためにしてくださったかを知ることとなったのです。

4.今、あるものを用いるイエス

 弟子のフィリポもこのイエスの質問に最初から模範解答を答えることはできませんでした。「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」(7節)と答えています。フィリポは計算が得意だったのでしょうか。群衆を見て、すぐに二百デナリオン分の食料があっても足りないくらいだと試算しています。一デナリオンは当時の労働者の一日分の賃金に相当すると言われていますから、二百デナリオンは二百日分の賃金にあたります。皆さんが二百日働かれたとしたらいくらになるでしょうか。たしかに、かなりの大金ですぐには用立てることができない金額になるかもしれません。しかしたとえそれだけの大金が作れたとしても、肝心の食料を提供する人がいなければ何の意味もなしえません。ヨハネはこの出来事が起こったのは「山」(3節)の上であったと言っています。こんなところで群衆のための食料を手に入れることはほとんど不可能なのです。
 すると今度はシモン・ペトロの兄弟アンデレがこのフィリポの答えを補足するようにこう答えています。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」(9節)。「今の自分たちの用意できるのは、こんなものでしかありません。これでは何の役にもたちません」とアンデレは語っているのです。
 しかし、物語はそこから弟子たちの思いもかけない展開を遂げて行きます。不可能と思われるところで、何の役にも立たないと思われたもので、たくさんの人々の空腹が満たされたと言う奇跡がイエスによって起こされたのです。
 この部分の解説を読んでいて、ある解説者はイエスの奇跡の特徴についてこう述べています。イエスはカナの婚礼の席では、そこにあった瓶に水をくませ、それを葡萄酒に変えられた。そして今度は少年が持っていたパン五つと魚二匹を用いて空腹を覚えていた群衆を満腹にさせたのです。このようにいつも、イエスはそこにあるものをそのまま用いて驚くべき業をなされます。そう語るのです。
 私たちはどうでしょうか。いつも「ここにあれがあったら」、「あれがあったら困らなかったのに」と思ってしまいます。自分たちにそれができないのは、何かが足りないからだと思ってしまうことが多いのです。しかし、主は「奇跡をするにはこれが足りない」などとは言われないのです。そこにあるものをそのまま用いて驚くべき御業を行われるのです。むしろそこで足りないのは、そのイエスの御力を信頼することができない私たちの信仰であると言えるのかもしれません。

5.イエスの命によって支えられている私たち

 このイエスの奇跡物語は四つの福音書が共通して取り上げている出来事です。しかし、その取り上げ方はそれぞれの福音書で異なっています。福音書記者は単なる歴史を記した歴史家ではありません。キリストを救い主と信じる信仰者の一人でした。彼らはこの福音書を様々な資料に基づいて書き記しました。たくさんの資料が証言するイエスの言葉や活動の中で彼らはそれを選択しながら、この福音書を作っていったのです。そのときに福音書記者は今の自分のおかれた場所に響いてくるイエスの言葉を選択して記録したと考えることができます。言葉を換えて言えば、福音書記者はそれぞれが抱えている問題に答えるイエスの言葉や活動を選んでその福音書にまとめていったとも考えることができるのです。
 たくさんの研究者たちはこのヨハネの物語は私たちが礼拝で守る聖餐式を想定して書かれていると解説しています。ときは「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた」(4節)と記されています。この祭りの中心はそこで捧げられる動物犠牲、過越しの子羊です。そしてこの子羊はイエス・キリストを指し示していることをこの福音書は何度も証言しているのです。私たちの守る聖餐式は私たちの罪のために犠牲となられた過越しの子羊イエス・キリストを指し示すものです。
 また、「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた」(11節)と書かれている部分は聖餐式を定められたときのイエスの動作と思い起こさせるものだと考えられているのです(コリント一11章23〜24節)。つまり福音記者ヨハネはこの出来事を通して提供されたものは、本当は目に見えるパンではなく、私たちが永遠の命の得るために与えられたイエス・キリストの体と言っているのです。私たちはこのイエス・キリストの命に預かることにより、本当の命の欠乏から解放されることができたのです。
 福音書記者ヨハネは自らの信仰生活の中で、何らかの欠乏を感じていたのかもしれません。この出来事に自分はどう対処し得るのかと悩んでいたのかもしれません。そのときに彼はこの聖書に記されることになった主イエスの奇跡を思い出したのだと思うのです。私たちのためにキリストが命を捧げてくださったのではないか。私たちの命はこのキリストによって支えられているのではないかと、この聖書の出来事が彼の心に語りかけてきたのです。
 食事の後に「少しも無駄にならないように」(12節)とイエスは語られています。この言葉は「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3章16節)と言うこの福音書の中でもっとも有名な言葉に用いられている「一人も滅びないで」と言う言葉と同じ言葉が使われているとある解説者は述べています。つまり、ここでもまた主イエスの救いが、私たちの命ためであることを証ししていると理解することができるのです。私たちの欠乏をその命を持って満たしてくださった主イエスに感謝し、その奇跡を思い起こさせる聖餐式に私たちも参加したいと思います。

***
天の父なる神様。
 私たちを本当の欠乏から救い出すために、主イエスは過越しの子羊として地上に来てくださり十字架にかかって命を捧げられました。その犠牲によって私たちは今、永遠の命の祝福に預かっています。目の前の出来事に心奪われ、あなたを信頼することを忘れてしまう私たちです。どうかイエスが与えてくださった祝福を覚えて、感謝をもって真の王であるイエスに仕える者としてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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