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礼拝説教 桜井良一牧師
「メシアへの信仰」

(2008.2.17)

聖書箇所:ヨハネによる福音書9章18〜34節

18 それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、
19 尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」
20 両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。
21 しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」
22 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。
23 両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。
24 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」
25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
26 すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」
27 彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」
28 そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。
29 我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」
30 彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。
31 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。
32 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。
33 あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」
34 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。

1.ファリサイ派の人々の事情聴取

 今日の箇所は9章のはじめに登場する生まれつきの盲人がイエスの御業によって癒された物語から始まる続きの部分です。ここでは舞台は一転してファリサイ派の人々によるこの事件に関する事情聴取が記されています。13節ではこの奇跡を目撃した人々が「前に盲人であった人」、つまりイエスに癒された人を連れてファリサイ派の人々の元を訪ねています。この出来事を目撃した人々は驚き、この事態をどう判断してよいのか分からなかったのでしょう。「いったい、このような奇跡を行うことができる人物は誰なのか」。彼らは当時、聖書の知識を一番身につけていると考えられていたファリサイ派の人々にこの判断を求めたのです。
 ところがファリサイ派の人々がここで注目したのはこの出来事が「安息日」に行われたと言うところです。ご存じのように安息日は旧約聖書の十戒にも記されているように、私たち人間が一週間の内、一日だけを聖別し、神様のために用いる日と定められています。ユダヤ人の間ではこの安息日である土曜日には神様を礼拝しなければならず、それ以外の行為を行ってはならないと言う厳しい戒めがありました。そしてファリサイ派の人々はこの安息日に行ってはならないことを細かく決めて、人々を指導していたのです。
 イエスが盲人を癒したのは、緊急性を必要としない日常の医療行為と判断され、それは安息日の禁止事項に入るものと考えられたのです。また、イエスが地面に唾を吐いて、土をこね、目に塗ったのは壁塗り職人と同じ労働を意味するものとして、これも安息日への違反だと彼らは主張したのです。ですからファリサイ派の人々は「イエスは安息日を守らないから、神のもとから来たものではない」と判断を下そうとしました。しかしそれだけでは「生まれつきの盲人の目が癒された」と言う決定的な事実は否定することができません。そこでファリサイ派の人々の中でも意見が分かれる結果となったと言うのです(16節)。困ってしまった彼らは目を癒された本人に意見を求めます。すると彼は「あの方は預言者です」(17節)大胆に答えたのです。

2.会堂追放令
(1)両親たちの答えの理由

 イエスが彼の言う通り預言者であると認めるなら、ファリサイ派の人々もイエスの言葉や行動を尊重しなければなりません。彼らにとってそんなことは受け入れることができるものではありませんから、彼らは今度はこの盲人が癒されたと言う事実そのものに疑いを挟もうと疑問を投げかけたのです。そして彼らはそのために癒された盲人の両親をわざわざ呼んで、尋問を始めます。
 この両親はファリサイ派の人々の「どうしてお前たちの息子は目が見えるようになったのか」と言う問いかけに対して「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」(20〜21節)と答えています。
 両親は目の前にいる人物が自分たちの子供で、生まれつき目が見えなかったと言う事実は認めています。しかし、それ以上のことは自分たちには分からないし、答えられないと言うのです。そして自分たちの息子はもう一人前の大人なのだから彼に聞いてほしいと返答します。聖書を読むと生まれつきの盲人が癒された現場にこの両親が立ち会っていたかどうかははっきりと記されていません。おそらく、彼らはこの出来事を後になって、もしかしたらここに呼び出されて来て初めて知ったのかもしれません。しかし、福音記者ヨハネはこの両親の答えの本当の理由は彼らが事実を知らなかったと言うことよりも、もっと別のところにあったとわざわざ説明を加えているのです。「両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」(22節)。
 このときすでにイエスを信じる人々に対してユダヤ人たちは会堂追放の命令を公に公布していたとヨハネの福音書は語るのです。ですから両親は自分たちが会堂を追放されるのを恐れてこのような答えしかできなかったと言うのです。この部分の言葉の解釈は聖書学者の中で論議を呼ぶものとなりました。なぜなら、この後もイエスもイエスの弟子たちは神殿やユダヤ人の会堂に入って、そこで活動している記述があるからです。この福音書の記述は歴史的事実と異なると言うのです。そこで、多くの人々が考えたのはこの文章はこのヨハネの福音書が書かれた時代の状況が読み込まれていると主張するのです。

(2)迫害の中にある人に向けて書かれた福音書

 ヨハネがこの福音書を記したのはこの出来事が起こったずっと後のことだと考えられています。そしてその時代、イエスを信じる者と、それを拒否するユダヤ教徒の間に激しい対立が生まれていて、実際にイエスを信じる人々がユダヤ人社会から追放されると言う決定がなされていたのです。ですから、この福音書を読む読者はこの部分の言葉を読んで「ああ、ここに自分たちと同じ立場に立たされた人たちがいる」と考えることができたと言うのです。
 先日、水曜日の夜の学び会でヨハネの黙示録を始めました。最初の学びで、このヨハネの黙示録は紀元90年頃に起こったローマ皇帝ドミティアヌスのキリスト教迫害の嵐の中にある信徒に向けて記されているということを学びました。キリスト教会は当時、激しい迫害の中でおそらく人目を避けながら秘密裏に神様への礼拝を献げていました。そしてその彼らが黙示録によって示されたのは全世界とその時をすべて支配されるイエス・キリストのすばらしい姿だったと言うのです。
 今から60年以上も前となりましが、この日本でもキリスト教会は迫害の嵐の中に投げ来られた経験があります。天皇を神と仰ぎ、神社参拝を強要する政府の政策の中で、真の神のみを礼拝するキリスト教徒は非国民と言われました。その中で残念ながらたくさんの信徒が教会から離れて行きましたし、残された人々もその信仰の故に迫害され、牢屋に入れられてそこで獄死した人々もありました。私たち改革派教会の創立者たちはその経験をふまえつつ、キリストへの真の信仰を貫く教会を日本に作ろうとして改革派教会を創立させたのです。

3.真実が見えないファリサイ派の人々

 しかし、ファリサイ派の迫害の恐れを身に感じながらもイエスに自分の目を癒された人はさらに大胆にイエスについての証言を展開します。ファリサイ派の人々が安息日を守らないイエスを罪人と断じたのに対して彼はこう主張しました。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」(25節)。「難しい律法の規定は自分には分からない。しかし、生まれたときから何も見ることができなかった自分が今、イエスによって目を癒され、見えるようになったことは確かではないか」と彼は断言しています。
 そこでファリサイ派の人々はイエスの律法違反を何とか告発しようと、もう一度彼に「イエスはどんなことをそのときしたか。禁じられている医療行為や、壁塗りの行為をしたのではないか」と尋ねようとします。ところがこの質問に対して彼はさらに大胆にこう問い返したのです。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」(27節)。この言葉に腹を立てたファリサイ派の人々は彼にこう反論します。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない」(28〜29節)。「自分たち律法の専門家で、聖書の知識に熟知している。お前に教えてもらわなくても正しい判断ができる」と言って、彼らはイエスを否定したのです。
 この物語、生まれつきの盲人がイエスによって「目が見えるようになる」と言う奇跡の出来事から始まっています。しかし、この物語を読み続けるとこの「目が見える」と言うことが単に肉体の目が見えるようになると言うことを言っているのではなく、信仰の目が開かれること、つまり人がイエスを救い主と信じ、告白することはどうしてできるのかと言うこと取り扱っていることが分かります。なぜなら、確かにファイサイ派の人々は誰よりも聖書を読み、宗教的知識に精通していたのに、イエスに対する信仰を得ることができないからです。それは彼らの信仰の目が罪によって閉ざされているからです。そして、彼らはそのことさえ気づかずにいるのです(40〜41節)。

4.開かれた目に示されたもの

 私はこの聖書が記す生まれつきの盲人の物語について個人的な思い出があります。それはまだ私が洗礼を受けたクリスチャンとなる前のことであったと思います。ラジオ放送を通して聖書のメッセージを聞くことが当時、様々な事情で生きる希望を失っていた私にとって励ましと感じていたときでした。ある伝道番組で一人の視覚障害者の証しが放送されました。その方はこの生まれつきの盲人の物語を通してイエスを信じる信仰に導かれたとお話しされたのです。自分はどうして、目が見えないのか。その障害のために自分は今までどんなに苦しみ悩んできただろうか。どうして自分だけがこんな苦しみに合わなければならないのか。自分の障害に関する疑問を抱えて生きていたその方はこの聖書の物語で語られるイエスの言葉に取らえられたと言うのです。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(3節)。

 この言葉を聞いて、その方は自分の今までの生涯はこのイエスに導かれるために準備されたものに違いないと確信されるようになったと言うのです。確かに自分の肉体の目は未だに光を見ることはできていないが、自分の心の目はこのときイエスによって開かれた、そしてイエスを信じることができるようにされたと言う体験を放送で語られたのです。
 イエスの弟子たちはこの物語の中で「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(2節)。人は災いや問題に出会うときにまず、犯人捜しを始めます。そうすれば自分はその責任から一時的に回避されることができるからです。しかし、問題は解決されないままですから、その人はやがて絶望せざるを得ません。しかし、そこで神様は私たちの目を開いてくださるのです。今まで災いや問題と思っていたものが、神の栄光があらわされるためのものであり、大切な神様の恵みであったことに気づかされるのです。私もこの方の証しを聞いたときに、自分も今までの人生を呪ったり、残念がって生きて来たけれども、実はそれは見当違いなのではないかと気づかされました。そして自分の人生に隠されている神様の恵みをもっと知りたいと考えるようになりました。そこで私は恐る恐るではありましたがキリスト教会の門を叩くことになったのです。
 不思議なことにこのファイサイ派の人々との論争の中で、この目を癒された人は、はじめは漠然としていたイエスへの思いが、その心の中で固まっていきます。イエスに癒された心の目が、少しずつ視力を回復させ、今はっきりと見えるようになったと言わんばかりに彼はこう語ります。「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」(32〜33節)。
 このヨハネはこの物語を迫害の中で信仰を貫こうとする人々に向けて書かれていると先ほど言いました。ユダヤ人社会からの追放、そしてローマ皇帝からの迫害の中で彼らはもしかしたら自分の弱さを痛感していたのかもしれません。しかし、聖書は自分の弱さを一番よく知る者こそ、迫害の中で強く生きることができることを教えています。なぜなら、私たちがイエスへの信仰を告白し、その信仰を持ち続けることができるのは、私たちの目を開き、私たちの人生を導くイエス・キリストの御業だからです。自分の弱さを知るものは、この主の力を知ることができます。
 パウロはローマ人への手紙の中で私たちの信仰告白についてこう教えています。「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」(10章9節)。どうしてこんなことが言えるのでしょうか。それは私たちの信仰告白は私たちの目を開いてくださるイエスの御業の結果だからです。だからこそパウロは続けて語ります。「聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります」(10章11節)。自分や自分の力に頼る者は必ず失望に終わります。しかし、私たちの人生を導く主に信頼する者は、だれも失望に終わることはないのです。なぜならば私たちの目を開いたくださった主が私たちを最後の勝利の日まで導いてくださるからです。

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天の父なる神様
 私たちの信仰の目を開き、あなたへの信仰の告白をさせてくださったあなたに心からの感謝を献げます。なお、この地上の生活にとどまる限り、戦いを続けなければならない私たちです。その私たちにあなたの御業を覚えさえてください。ファリサイ派の人々の脅迫にも屈せず、「主が私の目を開いてくださった」と語ることができた人のように、私たちも「あなたが私の目を開いてくださった」と告白できるように日々、聖霊を送ってください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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