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礼拝説教 桜井良一牧師
「香油を注がれた主」

(2008.3.2)

聖書箇所:ヨハネによる福音書12章1〜8節

1 過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。
2 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。
3 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。
4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。
5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。
7 イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。
8 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

1.引き裂かれた一家
(1)ベタニア村

 今日の箇所は多くの人々に「ナルドの香油」と言う呼び名で親しまれている物語です。ヨハネと同じようにマタイとマルコもそれぞれの福音書でこの物語を記しています(マタイ26章6〜13節、マルコ14章3〜9節)。またルカによる福音書もこの物語と似たような出来事を記しています(ルカ7章36〜38節)。ただし、ルカの伝えた物語は内容的には似ていますが、状況設定などに大きな違いがあるため、別の物語が収録されていると考えるのが定説となっているようです。
 「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた」と記されているようにこの物語はエルサレム近郊にあった小さな村ベタニアが舞台となっています。マタイとマルコはこの出来事の舞台となったのはベタニア村の「らい病人シモン」の家であったと紹介しています。おそらく、シモンはその病をイエスに癒していただいた人だったのでしょう。しかし、このヨハネの福音書はこのすぐ前の11章で同じベタニア村で起こった驚くべき出来事を記した後、今日の物語がその同じベタニア村で起こったことを記しています。しかもその席には11章で登場した、ラザロ、マルタそしてマリアの兄弟たちが名を連ねているのです。つまり、この物語は11章に記されるラザロの復活と言う物語と深い関係があることがここから分かるのです。

(2)引き裂かれた兄弟姉妹

 「そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来(た)」(1〜3節)。

 この物語ではこの三人の家族が重要な役割を演じています。そして、聖書はこの出来事が起こる前にこの家族がどのような境遇に置かれたのかを詳しく語っています。まず、マルタとマリアの姉妹です。この性格の異なった二人の姉妹の関係がかつて大きな問題にぶつかったことがありました。その出来事を福音記者ルカは10章38〜42節で紹介しています。そのとき姉のマルタはちょうど今日の物語と同じようにイエスの一行をもてなすために一生懸命働いていました。ところが、妹のマリアはそんな姉の苦労などお構いなしにイエスの足下に座り、そのお話に聞き入っていたと言うのです。そこでこの妹マリアの態度に腹を立てた姉のマルタは、この妹はもちろんのこと、その妹の行動をそのまま容認しているイエスにまで腹を立て、自分の妹を叱ってくれるようにとイエスに訴えたのです。イエスはこのとき彼女に妹マリアの方が今は正しい行動をしていると言う判断を下しています。しかし、このイエスの言葉でマルタとマリアの姉妹の関係がどれほど回復されたかは分かりません。ただこの物語から、この姉妹の間にはかつてかなりの緊張関係があったことがわかるのです。
 それだけではありません。この一家にはさらに大きな問題が起こります。それがこのヨハネが11章で伝えるラザロの死と言う出来事です。ラザロはこの姉妹の弟であったと考えられています。その弟がある日、病に陥り、看護の甲斐無く死んでしまいました。今度は一時的ではなく、永久にその関係が引き裂かれると言う出来事が起こったのです。ある意味ではどの家族にでも起こりうる出来事がこの家族にも起こっています。しかし、ここで大切なことはこのような出来事を通してこの家族が今、一つとなり、イエスと共にいると言うことです。

2.一つにされた家族
(1)それぞれが異なった働きで、イエスに仕える

 この夕食の席で弟ラザロはイエスの横に座って一言も言葉を語っていません。不思議なことにここだけではなくラザロの発言は聖書の中で一つも記されてはいないのです。その上さらに不思議なことに先ほど紹介したマルタとマリアの間に起こった物語を伝えるルカの記述の中にはその存在さえ登場してはいないのです。しかし、ラザロは自らは言葉を何も語らなくてもこの物語では重要な役割を果たしています。なぜなら、病の故に死んでしまった彼がイエスによって復活させられると言う出来事が起こったからです。ですから彼が今、生きていること自体がイエスのすばらしさを表す証拠となっているのです。ですからイエスに反対するユダヤ人はイエスはもちろんのことこのラザロまで殺してしまおうと計画を立てたと言うのです(9〜11節)。
 もちろんこの物語の中心はイエスに高価なナルドの香油を注いだマリアになるのかもしれません。しかし、ラザロが静かにイエスの横に座ることができ、マリアが高価なナルドの香油をイエスに降り注ぐことができたのは、この食事の席で一生懸命に働くマルタの働きがあったからではないでしょうか。ここでは一つの家族がそれぞれ別々の働きを担いながらも、イエスに仕えることの故に一致しています。どうしてこのときマルタは何もしないでじっと座っているラザロはもちろんのこと、おそらくこの一家が大切にしていたはずのナルドの香油を惜しげもなくイエスに注いだ妹マリアの行動を文句も言わずに受け入れ、むしろ彼らを助けたのでしょうか。少なくともこのマルタやマリア、そしてラザロの兄弟の上に変化が起こっていたことがここから分かるのです。

(2)イエスの命がけの愛に動かされる

 そこで彼らの変化の原因を知るために私たちはもう一度、11章のラザロの復活の物語を思い出すべきでしょう。マルタとマリアの願いに応じてイエスはこのベタニア村にやってきました。しかし、それがどんなにイエスにとって危険な行為であったかと言うことを弟子のトマスの発言が証言しています。彼はイエスがこのベタニアに向かおうとしたときトマスは「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(16節)と自分の決心を語っています。イエスのエルサレム行きは死を覚悟しなければならないほどに危険な旅であったのです。事実、このラザロの復活の出来事を経てイエスはファリサイ派の人々に指名手配の犯人のように扱われています(11章57節)。つまり、イエスは命がけでこのマルタとマリアのためにベタニアにやって来られたのです。それではどうしてイエスはそのような危険を顧みずにこのベタニアにやって来られたのでしょうか。それはイエスがラザロ、そしてマルタとマリアの姉妹を深く愛していたからだと聖書は伝えています(3、5、36節)。つまりイエスは、この三人の兄弟を自分の命に代えてまでも愛し抜かれようとされたのです。そしてそのイエスの愛が11章のラザロの復活の物語に記されているのです。
 今、このラザロとマルタとマリアの兄弟姉妹を動かしているものは何でしょうか。このイエスの彼らに対する命がけの愛がこの家族を動かしていると言えるのです。自分たちを命がけで愛してくださったイエスのために、彼らは今一つになって奉仕をしようとしています。もちろん、彼らの役割はそれぞれ異なっています。しかし、彼らがイエスの愛によって動かされ、イエスを愛し、イエスのために奉仕しようと考えたことは全く同じなのです。そしてここに家族の見事な調和と一致が生まれていると言うことが分かるのです。

3.マリアの行為の意味

 さて、マリアはここでイエスのために高価なナルドの香油を持ってきて、その足に塗り、自分の髪の毛でそれを拭き取りました。彼女のこの行為はとても唐突であり、またある意味で人間の常識を越えるものであったと言えます。ここで登場する「ナルドの香油」が実際どのようなものであったのかははっきりとは分かりません。おそらく現在でも、特殊な油がアロマセラピーなどに用いられますように、この油もたいへんよい香りを放つ「香水」のような役目を果たすものであったと考えることができます。しかも、この油には「高価」と言う言葉がわざわざ付け加えられていますし、この後のイエスカリオテのユダの発言から「三百デナリオン」相当で売れる価値を持つものであったことが分かります。一デナリオンは当時の労働者の一日分の賃金ですから、その価値は相当なものです。ある説教者は労働者の休日を差し引いて考えて計算すると三百デナリオンはちょうど労働者の一年分の賃金であると言っています。
 昔のイスラエルでは、このようなよい香りを放つ油は様々な儀式に用いられました。たとえば旧約聖書では王や預言者、祭司が任命されるときにはそのような油を頭に注ぎました。私たちが親しんでいる「キリスト」と言う言葉は「油注がれた者」と言う意味を持っています。つまり、ここでマリアがイエスに油を注いだということは彼がキリスト、油注がれた者であることを表し、イエスが私たちの真の王であり、預言者であり、祭司として来てくださったことを表していると言えるのです。
 またもう一つ、当時のイスラエルでは油は特別な役目を果たしました。イエスはここでマリアが「わたしの葬りの日のために、それを取っておいた」(7節)と言っています。この言葉の通り当時、油は死者が放つ死臭を消す役目を果たすため、葬儀のときに死体に塗られたのです(19章39、40節)。つまり、この油はやがて訪れようとするイエスの十字架上での死を先取りして、それを示すものだったと考えることができるのです。つまりマリアはイエスの死が近いことを知って、事前に油を準備したと言うことになります。ある解説者はこの油はマリアが弟ラザロに用いるために用意したものではないかと言っています。ところがイエスの奇跡によってこの油はもう必要なくなりました。だから、その油をマリアはイエスに惜しげもなく提供することができたと言うのです。

4.ユダヤの怒り
(1)捧げ物に必要なこと

 ここでイエスの弟子の一人イスカリオテのユダはマリアの行為を「馬鹿げた行為で、たいへんな無駄遣いをしている」と非難しています。ところがマタイでは弟子たちが、マルコではそこにいた何人かの人々がこのマリアの行為を見て不満を漏らしていますから、このユダの言葉は彼一人の気持ちだけではなく、そこに居合わせた弟子たちの共通の気持ちを表していると言うことができるかもしれません。それほど、マリアの行為は常識を反した、狂気じみたものだと考えられていたのです。

 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」。ユダはこの香油を売って、その代金を得ればたくさんの貧しい人々を助けることができるのに、彼女は全く馬鹿げた無駄遣いをしていると言っています。しかし、ヨハネはユダのこの発言の動機は本当に貧しい人々を心配しているのではないと語ります。「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」(6節)。

 ある解説者はこのユダの言葉の中に生まれたばかりのキリスト教会で起こった問題が隠されていると述べています。実はこのユダの言葉の中に語られる「貧しい人々に施す」行為はすでにキリスト教会の信仰生活の中で奨励された行為であったと言うのです。確かに、使徒言行録を見ても教会員は互いに持っている財産を売って、その財産を教会に献げ、そして教会はそのお金で貧しい人々を助けると言うことを行っています(使徒4章32〜37節)。
 しかし、キリストに対する愛によって献げられた献金がいつのまにか効率第一となり、教会の中でもいくら金額が集まったかと言うことだけが問題とされ、そこで大切な信仰の心が忘れられてしまったのだと言うのです。つまり、この物語を記したヨハネはもちろんここで無駄遣いを奨励しているのではありません。そうではなく、貧しい人への施しにしろ、その他の捧げ物にしろ、ここで高価なナルドの香油を惜しげもなくキリストに注ぎだしたマリアと同じ信仰を私たちも持って献げているのかと問うていると言うのです。マリアは自分のために命を捧げてくださるイエスの愛に動かされて、自ら喜んでこの高価な油を献げました。ヨハネは私たちの捧げ物もこのキリストの愛、私たちをご自身の命を持って救い出してくださったその愛に動かされているのだろうかと言っているのです。

(2)自分のために、神のものを盗む

 実は、この信仰によってイエスのために高価なナルドの香油を注いだマリアの対局にあるのはここに登場するユダの考えです。「彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」と聖書は語っています。どうしてユダがそこまでお金に執着していたのかわかりませんが、彼の発言は貧しい人のためではなく、自分のためであったと言うのです。私たちはこのユダを他人ごとのように思ってしまうことがあります。しかし、ある説教者はそうではないと語ります。なぜなら、私たちの行為の内にも、いつも神様のためではなく、自分のためと言う動機が隠されているからだと言うのです。確かに貧しい人に施しをしています。しかし、それは貧しい人のためではなく自分のために、自分の信仰的な行為が讃えられ、自分がそこで高められるために行っており、それをヨハネはここで「盗人の行為」だと非難していると言うのです。
 しかし、マリアの行為にはそのような気持ちがありません。他人から見れば常識はずれのような行為ではありますが、そこにはキリストの愛に動かされ、キリストのために献げる信仰の行為がはっきりと表されているのです。そしてヨハネはこのマリアを動かしたキリストの愛が、私たちにも同じように向けられていると語るのです

5.今もキリストに献げることができる

 私たちは近づく復活祭、イースターを前にしてキリストの受難、十字架の苦しみを覚えるときを送っています。このとき私たちはキリストが誰のために、何のために苦しみ、死なれたのかを思い起こします。
 キリストは私たちの罪のために苦しみ、十字架につけられたのです。罪と死に捕らえられてこのままでは墓に葬れたラザロと同じように死臭を放つだけの存在でしかなかった私たちを、命へと導いてくださるために、イエスは自ら死に向かわれたのです。ナルドの香油はこのイエスの死の意味を証しする大切な出来事です。そしてこのイエスの死を見つめる者は、そこからイエスがマルタとマリア、そしてラザロの兄弟を命がけで愛したように、自分をも愛してくださっていることを確信することができるのです。
 このときマリアはこのイエスの愛に応えて、高価なナルドの香油をイエスの体に注ぎました。そのときイエスは「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」(8節)と語りました。確かにイエスにナルドの香油を注ぐ特権を与えられたのはマリア一人だけでした。しかし、私たちは今、様々な献げ物を通して、また神様に自らを献げる献身的な行為を通して(ローマ12章1節)、キリストに香油を注ぐことができる特権と同じ恵みにあずかることができるのです。

***
天の父なる神様。
「ナルドの壺ならねど、献げまつる我が愛、御業のため、主よ清めて受けませ、受けませ」と賛美をささげ、あなたたからの豊かな愛に促されるように信仰に生きた人々と同じように、私たちもまた、喜びを持ってあなたへの愛を表すことができるようにしてください。私たちそれぞれがあなたから与えられた賜物をもって、主のために働くことができるようにしてください。願わくは、ベタニア村の食卓の席を喜びを持って取り囲んだ人々と同じように、主の聖餐の食卓につくことができますように、聖霊を送り、私たちの心を整えさせてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。


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