1.知っておられる主
(1)イエスの十字架の死と復活
今日の日曜日は教会のカレンダーでは「棕櫚の主日」と呼ばれています。これは主イエスがエルサレムに入城される際に民衆がなつめやしの枝を手に持って迎えた出来事を記念しています(12章12〜19節)。そして今日から一週間は受難週となり、主イエスの十字架の出来事を記念し、それを思いこす一週間が始まります。もし、私たちが主イエス・キリストの十字架上での死を歴史の中で起こった、単なる一人の宗教家の死とだけ考えているとしたら、彼の十字架の死は私たちにはあまり意味を与えないものとなってしまうでしょう。もしかしたら、十字架の出来事をどんなにすばらしい人物であっても、周りの人々の反応を読み間違えてしまうなら取り返しの付かない悲劇となると言った教訓を私たちに残す、それだけのものになってしまうかもしれません。
ですから、この受難週に私たちがすべきことは、この主イエスの十字架の死と私たちとの関係をはっきりと理解すると言うことにあると言えるのでしょう。主イエス・キリストが私に変わって十字架につけられたと言うこと、そしてその十字架の死は神に呪われた者の死を意味します。ですからイエス・キリストが本当は呪いを受けるべきだった私たちに代わってその呪いを引き受けられて十字架にかかってくださったと言うことになります。
この関係を理解しなければ、私たちがこの次の週に祝おうとする復活祭、イースターの意味も分からなくなってしまうかもしれません。私たちはどうしてこのイースターに主イエスの復活を心からの喜びを持って祝うのでしょうか。その理由はイエス・キリストの甦りこそが、私たちの命の回復を意味しているからです。以前は神に呪われた者であった私たちが、今、キリストによって新しい命に甦らせられ、永遠の命に生きる者となったのです。そしてこれが復活祭で私たちが抱くべき喜び正体です。ですから、この喜びを私たちが得るためには、まずキリストの十字架の死の意味を正しく理解することが大切となってくるのです。
(2)主導権はイエスにある
主イエスの十字架の死の意味を正しく理解することを求められている私たちに、この礼拝で与えられている御言葉は主イエスの逮捕を取り上げているヨハネによる福音書の物語です。ご存じのようにこのイエスの逮捕の物語は他の福音書も同様に取り扱っています。ところがその取り上げ方はそれぞれの福音書では異なっており、特にこのヨハネの福音書は他の福音書とは違った独特の取り上げ方をしています。たとえば、他の三つの福音書に記されているゲッセマネの園でのイエスの祈りはこの福音書には省略されています。また、他にも誰がイエスであるかを知らせるためにイスカリオテのユダが行った、イエスへの接吻の合図もこの福音書には記されていないのです。
しかし、ヨハネが他の福音書記者たちと違ってイエスの逮捕の物語を大雑把に取り上げていると言うのではありません。ここにはヨハネだけが記す出来事も登場しますし、何よりもイエスの逮捕の意味を伝えようとするヨハネの独特の視点がこの福音書の物語には貫かれていると考えることができるのです。
この視点、つまり同じ出来事でもその見方が変わればその解釈は全く違ってきてしまいます。それではヨハネはこの福音書でイエスの逮捕をどのような視点から描写しようとしたのでしょうか。それは一言で言って、この出来事の主導権はイエスの捕まえにやって来たユダヤ人たちや、イスカリオテのユダにあったのではなく、イエスの側にあったと言うことです。たとえばそれはこの物語の最初の記述にも明らかにされています。
最後の晩餐を終えたイエスはこのときエルサレムの町から言えば、キデロンの谷を挟んで向こう側にあった園に行かれています。当時、エルサレムの町に住む裕福な人々はエルサレム市街に自分の家を持ちながら、それとは別にエルサレムの町の外、キデロン谷の向こう側に庭園を持っていたと言われています。この園はそのような庭園のことを言い、おそらくこの園が他の福音書で紹介されているゲッセマネの園であったと思われます。その園にイエスと弟子たちはエルサレム滞在中、毎日の習慣のように通っていたようです。それはイエスと弟子たちがそこで祈りをささげ、また体を休めるためであったと考えられます。そして、この場所はユダもよく知っていたと聖書は記しています。つまり、イエスの逮捕と言うユダの計画が実現しやすいように、イエスは自分の居場所を彼に分からせるためにこの場所にやって来たと言うことが分かるのです。そしてこの視点はこの物語を通じて一貫しています。つまりイエスは敵対者に不本意な形で逮捕されたのではなく、自ら主導権を持って彼らに自分の身を渡された、逮捕させたのだと言うのがヨハネのこの物語についての見方なのです。
2.不安を抱く捕らえ手たち
逮捕する側とされる側、普通不安や恐怖を抱き混乱するのは逮捕される側ではないでしょうか。しかしヨハネのこの記述の中で分かってくるのはこの出来事の中で冷静に、しかも堂々とした態度を取られているのはイエスだけであったと言うのです。それ以外の者は皆、不安を抱え、混乱しています。確かにイエスの逮捕を目の前で目撃した弟子たちは慌てふためき、混乱しました。しかし、それは彼らだけではありませんでした。世の権力を使ってイエスを逮捕しようとしたユダヤ人たちもまた不安と混乱の中にあったことをヨハネの福音書は記しています。
ユダは祭司長やファイサイ派の人々の手下を引き連れてこの園にやって来ました。ところがヨハネはこの福音書で意外な人々をその一行の中に付け足しています。それが「一体の兵士」です。これは当時、エルサレムに駐留していたローマの占領軍の兵士たちを意味する言葉で、「一体の兵士」と言う言葉はローマの軍団を数えるときに用いものです。そしてこの場合ですと少なくとも600人の兵士がそこに駆けつけたと言うことになると考えられています。600人の兵士が手に手にたいまつと武器を持ってこの園の周りを取り囲むと言うのは大変なことです。園にいるのはイエスと彼の弟子と言ったわずかな数の人々です。おそらくこのとき、ユダヤ人たちは数日前にイエスを大歓迎して迎えたエルサレムの民衆を恐れていたのかもしれません。そのために彼らはローマ兵たちの手を借りたいと考えたのです。イエスを捕まえる計画が成就しても、そのことがもし民衆に分かってしまえば、今度は自分たちが攻撃の対象になるかもしれない、ひょっとしたらイエスを守るためにたくさんの民衆がこの園にも押し寄せてくるかもしれないとユダヤ人の指導者たちは考えたのです。つまり彼らの抱えていた不安が、ローマの軍団をもこの物語に巻き込むこととなったと言えるのです。
3.どうして地に倒れたのか
イエスはどうして逮捕されたのか。普通の人は世の権力に対して彼があまりにも無力であったからだと考えるでしょう。しかし、この福音書はそうは言っていないのです。先ほど申しましたようにこのヨハネによる福音書は他の福音書に記されているユダの接吻の合図を記していません。ところがそれとは代わってこの福音書はイエスを捕まえにやって来た捕らえ手とイエスの間に起こった興味深いやりとりを記しているのです。まず、捕らえ手たちがイエスに近づいたときにイエスの方から進み出て「だれを捜しているのか」と彼らに尋ねます。そこで捕らえ手たちはそれに答えて「ナザレのイエスだ」と言っています。するとイエスはすぐに「わたしである」と答えています。そしてそのイエスが「わたしである」と答えたとき、捕らえ手たちは後ずさりして、地に倒れてしまったと言われているのです。この後、もう一度イエスは同じように捕らえ手たちに「だれを捜しているのか」と尋ねています。すると捕らえ手たちは再度「ナザレのイエス」と答えます。そしてイエスはもう一度「「わたしである」と言ったではないか」と言っているのです。
ここでヨハネはしつこいようにイエスの語った「わたしである」と言う言葉を三回もこの物語の中に記しています。しかも、不思議なことに捕らえ手たちはこのイエス「わたしである」と言う言葉を聞いたとたん、後ずさりして、地に倒れてしまったと言うのです。
実はここでイエスが語った「わたしである」と言う言葉は、他の箇所では「わたしはここにいる」とか「わたしはある」と言う言葉で訳されています。そしてこの同じ言葉は旧約聖書のモーセの物語に登場する神の自己紹介で用いられる言葉としても記されているのです(出エジプト記3章14節)。どうして捕らえ手たちはそこで倒れ伏したのか。その原因をこの言葉は説明しています。捕らえ手たちはイエスの言葉を聞くやすぐに倒れずにはおれなかったのは、それは神の前に立たされたすべての人間が取らざるを得ない共通の反応です。罪人なる人間はそのままでは神に近づくことはできないからです。そこで倒れ伏すか、悪くすればそこで命を失ってしまうような出来事さえ起こったことを聖書は語っています。
ここでヨハネは逮捕する側には何の力もなかったことを明らかにしているのです。力があったのはご自身を「わたしはある」と語ることができるイエスの側だったことをこの福音書は説明しているのです。
4.主を守るのではなく、主に守られる
(1)剣を振りかざすペトロ
さらに、普通は逮捕されたり、捕まえられる人は、それを避けるために誰かに守ってもらう必要があります。しかし、イエスはそうではなく、むしろイエスが他の人々を守られたことをヨハネは語っています。
イエスはご自分がユダヤ人たちに捕らえられることは許しても、一緒にいる弟子たちが捕らえられることは許されませんでした。むしろ「あなたたちは自分を捕らえに来たのだから。他の者たちはここから立ち去らせてほしい」と捕らえ手たちから弟子たちを守られたのです。ヨハネはイエスのこの行動はかつてイエス自身が語った「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」(9節)と言う言葉が成就するためであったと説明しています。この言葉はこの前の17章に登場するイエスの祈りの中に登場する言葉であると考えられています。「わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです」。このイエスの祈りの言葉がここでイエスを通して実現したとヨハネは語るのです。
しかし、事件はそこで簡単に終わっていません。ここで一つのハプニングが起こっています。弟子の一人ペトロが隠し持っていた剣を抜いて、大祭司の手下に斬りつけたのです。そこでマルコスと言う人物がペトロによって右耳を切り落とされてしまいました。イエスはすぐにこのペトロに向かって「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」(11節)と諫められています。他の福音書が記したイエスのゲッセマネの園での祈りの中には「この杯をわたしから取りのけてください」(マルコ14章36節)と言う言葉が登場します。ヨハネではこの祈りが省略されていますが、ここでイエスの確信に満ちた言葉として甦っているのです。ペトロはこのとき何とかイエスを悪者たちから守ろうとしたのでしょう。しかし、ヨハネはここでイエスを守っていたのはペトロではなく、むしろイエスがペトロを守ってくださっていたのだと記しているのです。
(2)イエスが守ってくださる
私たちはどうでしょうか。さすがに剣を振りかざすことはしなくても、いつの間にか自分が神様の権威を守るのだと息巻いてしまうことはないでしょうか。神様から与えられた信仰を守るのは私なのだと勘違いしてしまうことはないでしょうか。しかし残念ながら、私たちには神様を守る力も、自分の信仰を守る力もありません。何よりも神様は私たちの力を借りなくてもご自身を守ることがおできなるのです。そして私たちの信仰を守るのも神様なのです。確かに私たちもまた、厳しい信仰の戦いの中に立たされます。そしてその中でどうしたら自分の信仰を守ることができるだろうかと悩んだりもするのです。しかし、悩んでも、悩んでも解決策を見いだすことはできません。私たちを守ってくださるのは主イエスなのです。私たちを守るためにご自分を十字架の死に引き渡されたイエスが私たちを守ってくださるのです。
このイエス逮捕のときに無力な弟子たちはイエスの前から逃げ出す他ありませんでした。しかし、その同じ弟子たちがやがて自分の命も省みず、主イエスに従う道を選び、その道を歩んだことを聖書はこの後教えています。彼らがこのように変化したのは彼らがどこかのブートキャンプに入隊したからではありません。自分たちを守ってくださる方がイエスであることを知り、その主に信頼することができたからこそ、彼らはそのような道を歩むことができたのです。このようにヨハネの福音書はイエスの逮捕と言う場面を通しても、イエスの力の素晴らしさ、その主に信頼することが信仰の戦いの中で悩み苦しむ私たちに与えられた道であることを教えているのです。
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天の父なる神様。
主イエスの十字架の意味をもう一度確かめるときを与えてくださりありがとうございます。主は私たちのためにご自身を十字架の上に献げてくださいました。私たちを救い得ることのできる方はこの方を他にして誰にもできません。私たちの上にもその主導権を持っておられる主イエスに私たち自身が信頼して、喜んで従うことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
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