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礼拝説教 桜井良一牧師
「イエスの勝利」

(2008.4.27)

聖書箇所:ヨハネによる福音書16章25〜33節

25 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。
26 その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。
27 父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。
28 わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」
29 弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。
30 あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」
31 イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。
32 だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。
33 これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

1.勝利と敗北を繰り返す人間
(1)不安定な信仰生活

 私が洗礼を受けて信者になってからまだ間もない頃の話です。私が通っていた教会で一人の高校生が洗礼を受けることになりました。彼は洗礼にそなえて、その日の朝から断食をして教会に出席しました。そこで教会のみんなは洗礼後にお祝いだと言って彼に鍋焼きうどんをごちそうしたことを今でもはっきりと覚えています。このように信仰生活の出発を成し遂げた彼でしたが、その後の彼の信仰生活は私から見て、とても心配を覚えることがありました。なぜなら、彼は日曜日ごと教会にやって来ると、ある日曜日は「今週は恵みにあふれた信仰生活だった」と喜んでいたと思えば、次の日曜日には「今週は誘惑に負けてテレビを見てしまった」と言っては暗い顔をしてとても不安定な信仰生活を送っているように思えたからです。
 彼の信仰生活が不安定に見えてしまう原因はどこにあるのかと言えば、それは彼が自分の行動を毎日観察しては、今日は成功だった、あるいは失敗だったと判断して、それによって自分と神様との関係を考えようとしていたからです。彼はたまたまその日の信仰生活が自分の期待通りにうまくいけば、自分は神様の祝福の中に生かされていると感じます。しかしそうではなく、自分が誘惑に負けて何かの失敗を犯してしまったと考えると、自分から神様が離れてしまったのではないかと思って彼はがっかりしてしまうのです。彼の信仰生活はこのようなことの繰り返しですから、とても不安定なのです。

(2)不完全な私たち
 
ご存知のように私たち人間はこの世にある限り、たとえそれがキリストに救われた信仰者であったとしても不完全な人間の一人に過ぎません。その生活において成功と失敗を繰り返すのはしかたがないことだと言えるのです。ですから私たちの信仰生活は天の御国に入れられまでは戦いの連続であるとも言えるのです。もしその戦いの中で私たちが神様との関係をしっかりと結んでいなかったとしたら、あるいはそれを確信できなかったらどうでしょうか。それこそ私たちは「どうせ私は信仰者として失格だ」と諦めて、敗北感に満たされた信仰生活を送らなければならなくなります。そのために私たちは神様と自分とのしっかりとした関係をどこかで確認しておく必要があるのです。それでは私たちはその関係をどこで知ることができるのでしょうか。
 もし、私たちがその関係を不安定な自分の毎日の行動から確認しようとするなら、いつも不確かで、確信のない信仰生活を送らなければなりません。そこで私たちは今日の聖書の箇所に登場するイエスの「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と言葉に目を向けながら、このことについて少し考えてみたいと思うのです。

2.イエスによってもたらされた新しい神との関係
(1)聖霊によって始まった新しい関係

 まず結論から言ってしまえば、私たちは神様と自分との関係を救い主イエス・キリストを通して確認する必要があるのです。なぜなら、イエス・キリストこそ昨日も今日もいつまでも変わらないお方であるからです。このイエスを通して神様と自分との関係を知った者は、その関係が変わってしまうことを心配する必要がなくなるのです。つまり、私たちの信仰の確かな根拠はいつもこのイエス・キリストに求めなければならないのです。

 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」(25節)。

 父なる神と私たちとの関係を私たちがはっきりと理解できるときがやってくるとイエスはここで語っています。この16章ではイエスが弟子たちを離れて天に昇られることが、その弟子たちにとってどんな意味をもたらすのかと言うことが説明されています。これはイエスの昇天以後の、信者とイエス・キリストがどのように関係に入るのかを教える重要な言葉です。私たちはキリストの弟子でありながらも、聖書に登場する十二弟子のようにイエスとともに寝食を共にして生活することも、実際にイエスを自分の目で見ることもできません。なぜなら、イエスはすでにこの地上を離れて天に昇られたからです。それでは、この昇天後の私たちとイエスとの関係は、十二弟子たちが経験した関係に比べれば劣っているものであり、不完全なものだと言えるのでしょうか。そうではありません。イエスは自分が天に昇ることによって、その関係をより親密で強固なものになると教えてくださったのです。そしてその変化をもたらすものがイエスが天から送ってくださる聖霊なる神の働きです。聖霊は私たち一人一人の心に送られて、イエスが生きておられること、そしてイエスが私たちの信仰生活を日々、確かなものとしてくださることを確信させて下さるのです。

(2)神と自分との関係を知り得ない日本人

 今、日本人の多くは宗教や特定の信仰を持つことを避けているように思われます。しかし、日本人の宗教心を調べるアンケートの結果を見ると、多くの人々は神の存在を否定するのではなく、むしろ神様がいるように思えると考えていることがわかるのです。神様の存在を否定することはしない、しかし、積極的にそれを肯定することもしないのが多くの現代日本人の見解です。しかし、問題なのはおそらく神様の存在を肯定しても、その神様と自分との関係を知ることができないことにあるのではないでしょうか。だから多くの人はその関係を得体の知れない霊能力者の力とか、占い師の言葉を頼りに知ろうと努めるのです。しかし、本当に彼らの伝えるメッセージは真実を教えるものだと言えるのでしょうか。いったいどこで彼らの言葉の正しさを知ることができると言うのでしょうか。
 聖書はイエス・キリストだけが神様の元から遣わされた方であることを明確に示しています。福音書に書かれているイエスの言葉や行いは、彼が神の元から遣わされた方であることを証明していると言ってもよいでしょう。だからこそ、イエスだけが神様と私たち人間の関係を正しく教える資格を持った方だと言えるのです。このイエスが私たちに次のように語っています。

 「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである」(27節)。

 イエスを救い主だと信じる私たちに「心配することはない、父なる神はあなたたち愛してくださっていることを私は知らせよう」とイエスは語ってくださるのです。そしてその神の愛を一人一人に理解できるように、イエスはさらに天から聖霊を送ってくだると約束してくださっているのです。ですから私たちと神様との関係はこのイエスとイエスが遣わしてくださる聖霊によって確かなものとされているのです。

3.私たちのすべてを知っておられるイエス

 この後でイエスと弟子たちの間には興味深い会話が交わされています。

「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」(29、30節)。

 弟子たちはここでイエスが神様から遣わされた救い主であることを信じますとその信仰を告白するに至っています。それではその信仰を告白するきっかけになったこととはいったい何だったのでしょうか。弟子たちは語っています。「あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました」と彼らはそう語っているのです。つまり、弟子たちはイエスが自分たちの何もかもご存じであって、自分たちがその疑問を口に出す前から、答えを与えてくださっていることに驚いたと言うのです。だから自分たちはイエスが神のもとから来られた方であることを信じざるを得ないと告白しているのです。このように揺るがすことのできない証拠をイエスに突きつけられて、彼らは今、この信仰を告白せざるを得ないと語っているのです。
 ところがイエスはすぐにこの弟子たちの語った言葉に次のように答えています。

「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る」(31、32節)。

 弟子たちはイエスの言葉を聞いて、「本当に自分たちのことをよく知っておられるな」と驚かされました。ところが次にイエスが語るのは彼らがまだ知らない、彼らの身の上に起こる事実なのです。やがて彼らはイエスをひとりだけ置き去りにして散り散りになり自分の家に帰ってしまうと語られるのです。これはたとえば、このヨハネの福音書の21章を見れば、イエスの預言が成就したことがわかります。ここでは弟子のペトロたちは生まれ故郷のガリラヤ湖に帰って漁師に戻ってしまっています。自分の家に帰って行ってしまったのです。イエスのこの言葉が文字通りに実現したのです。
 ここには私たちの救い主が私たちのことを私たち以上にご存じであること、そしてその私たちの知らない私たちのことまでご存じで、それだけではなくその私たちのために先回りして、解決の道をも備えてくださることが明らかにされているのです。

4.イエスの勝利が苦難の中にあるものに希望を与える
(1)終わらない戦い

 「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(33節)。

 この言葉の中にはイエスが私たちのために世に勝利してくださったことが語られています。私たちのことをよくご存じの方が、私たちに先回りにして罪と死、そしてすべての悪の力に勝利してくださったことが記されているのです。イエスは十字架の死を通して確かにこれらのものに勝利してくださったのです。だから私たちはこのキリストによって平和を受けることができるとここで語られています。
 ここで間違ってはいけないことはキリストが勝利されたから、私たちはもう戦う必要がないとはここで語られていないと言うことです。「あなたがたには世で苦難がある」とイエスは語られています。私たちの地上での戦いは天の御国に私たちが入るまで続けられなければならないのです。この苦難は信仰の故に受ける迫害を意味した言葉です。私たちがイエスの弟子として信仰生活を送ることは決して簡単なことではありません。この世の力は信仰者に対して様々な戦いを挑んできます。あるときには力尽くて私たちの信仰を奪いにやってきますし、またあるときには私たちが救いを受けるためにはもっと簡単で楽な方法があると言って誘惑してきます。しかし、私たちが頼りにできるのは神の元から遣わされた唯一の救い主イエス・キリストのみなのです。先に申しましたように私たちはこの地上にとどまる限り不完全な人間です。当然、この私たちの信仰の戦いも、勝利と敗北を繰り返す結果となります。しかし、そこでこそ絶望せず、「勇気を出しなさい」とイエスは私たちを励ましてくださることが大切になってくるのです。
 「勇気」にはいろいろなものがあります。自分に残された力を振り絞るように立ち上がることもあるでしょうし、「空元気」と言う根拠もない力を出すべきだと言い張る人もいます。しかし、イエスの語る勇気には確かな根拠があります。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と言うように、イエスの勝利が根拠として示されているからです。

(2)イエスの勝利が私たちに勇気を与える

 
水曜日夜の黙示録の学びで先週はフィラデルフィア教会への手紙の部分を学びました。七つの教会に宛てられた手紙の中では珍しくなんのとがめの言葉も記されていない教会、イエスにお褒めの言葉だけをいただいている教会です。おもしろいのはこの教会の祝福の秘密はどこにあったかと言うところです。彼らの「力が弱かった」ことにあると語られています。それはギリシャ語原語ではミクロと言う言葉が使われていて原子顕微鏡で見ないとわからないようなわずかな力しかなかったことを表しています。力のない彼らだったからこそ、キリストだけを頼りにせざるを得なかったからだと言うことを学びました。キリスト以外はほかの誰も彼らの弱さをカバーすることはできなかったのです。しかし、このフィラデルフィア教会にイエスは新しいエルサレム都が天から現れたときに、その神殿の柱にしようと言う約束を語られています。それは彼らがキリストによって必ず勝利に至ることを約束する言葉です。
 目の前に起こる出来事は決して自分たちの都合通りに、いつも勝利とは言うことができない現実があります。しかし、そのような戦いを先回りする形で、キリストは私たちのために勝利してくださったのです。そして私たちの信仰生活のゴールにその勝利を準備してくださっているのです。だから、私たちは失望することなく、信仰の戦いを今日も戦い続けることがきる。このイエスの勝利によって、私たちは勝利への確かな確信を抱いて信仰生活を送ることができるのです。

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天の父なる神様
 苦難の中に生きる私たちです。力のない私たちです。あなただけを頼りとしなければならない私たちです。聖霊を遣わして、その信仰を堅くしてください。イエスの勝利を覚えて、たえず勇気を与えください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

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