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礼拝説教 桜井良一牧師
「キリストの昇天」

(2008.5.4)

聖書箇所:ヨハネによる福音書16章25〜33節

32 ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。
33 そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。
34 あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」
35 すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。
36 『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」
37 祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。
38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
39 イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている"霊"について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、"霊"がまだ降っていなかったからである。

1.イエスの「時」理解
(1)仮庵祭の三つの意味

 今日の箇所は「仮庵祭」と言う祭りの最中に起こった出来事が記されています。この祭りについては新共同訳聖書の巻末に付けられている「用語解説」と言うところにも簡単な説明が記されています。この「仮庵祭」はユダヤの三大祭りの一つで毎年10月頃、秋に行われるようです。この時期はちょうど秋の収穫の季節ですから、収穫感謝を祝う祭りでもあったようです。ただ、この祭りは単なる収穫祭だけで終わるものではないようで、特にその祭りの守り方は独特でした。イスラエルの民の先祖たちはかつて奴隷生活をしていたエジプトを脱出して、40年間にわたって旅を続け、荒れ野をすみかとすることとなりました。その際、彼らは定住の家を持たないで仮小屋生活をして暮らしましたが、その先祖たちの生活を忍んでこの祭りではそれぞれの家庭で仮小屋を作り、祭りの期間だけその仮小屋の中で寝泊まりをする習慣がありました。「仮庵祭」と言うのはそこから来た名前です。むしろ「仮小屋祭り」と呼んだ方がわかりやすいかもしれません。
 実はこの祭りにはもう一つ大きな意味があったようです。それはこの祭りが雨乞いを求める祭りでもあったと言うことです。祭りの最中に祭司は水を用いて、次の年の農作物の豊作を願いました。農作物が豊作になるためには雨が降ってくれることが大切になります。ですからその雨が降ってくれるようにと神様に求めることがこの仮庵祭の目的の一つだったと言うのです。実はこの目的が今日の後半に出てくるイエスの言葉の意味を解く一つの鍵となっています。

(2)イエスの兄弟たちの無理解

 この7章の始めにはイエスの兄弟たちがこの仮庵祭に参加するためにイエスにエルサレムに行ったらどうかと勧めている場面が登場します。イエスの兄弟たちはイエスがガリラヤのような田舎で活動するのではなく、もっとたくさんの人が集まる、神殿があるエルサレムに行ったほうがいいのではないかとここで語っているのです。実はこれはイエスに対して兄弟たちがよいアドバイスをしていると言うのではなく、むしろ兄弟たちはイエスを厄介払いしようとするための口実であったように思われます。なぜならこのときイエスの兄弟たちはイエスを信じていなかったからです。むしろ彼らはいつも人騒がせなことをする自分たちの兄弟の一人イエスの存在を煙たく思っていたようなのです。だからこんなところにいるより、祭りで賑わうエルサレムの町に行ったらどうだとイエスに語ったと言う訳です(1〜9節)。
 しかし、イエスはこの兄弟たちの勧めに対して「わたしの時はまだ来ていない」(6節)と語られ、その申し出を断っています。このヨハネの福音書ではたびたびこのイエスの言葉が登場します。この言葉の意味は神様の計画に従ってイエスがエルサレムで十字架の死を遂げるときはまだ来ていないと言うことでしょう。ですからイエスは「そのときが来れば誰に言われなくても自分はエルサレムに赴くが、今はそうではない」と語った訳です。
 しかし、この後でイエスはすぐにエルサレムに密かに向かわれたことが記されています(10節)。これは何を意味しているのでしょうか。イエスは兄弟たちへの前言を翻してエルサレムに向かうことになったのでしょうか。そうではないと思います。ここには時を支配する父なる神への信頼と、その計画に対するイエスの忠実な態度が表されているのだと思うのです。私たちはいつの間にか自分がときを支配することのできるような存在であるかのように思ってしまいます。だから自分の力でそのときを早めたり、あるいは遅くしたりすることができると考えているのです。しかし、神様の計画は変わることがありません。神はご自身が決められた最もふさわしいときにそれを行われるのです。私たちはその神様の計画を信頼することが必要です。しかし、私たちはそうだからと言って、自分には何もできないとあきらめるわけではありません。もしあきらめてしまうならその信仰は真の神信仰ではなく、運命信仰に陥ってしまうことになります。
 イエスの態度はときを支配する父なる神に対してあくまでも忠実でした。その上で、自分に与えられた今のときを、忠実に用いることに力を注いだのです。だからイエスはこのときもエルサレムに向かい、そこで大胆に神についての教えを語ったのです。神に信頼して、今、自分にできることを行う、それがイエスが示された態度だったのです。

2.ユダヤ人の誤解
(1)イエスに耳を傾けない

 今日の箇所では群衆がイエスについて語るささやきをファイサイ派の人たちが耳にしたことから始まっています(32節)。このささやきの内容はこの直前に語られています。この仮庵祭で大胆に民衆に教えるイエスの姿を見た多くの人々は、どうしてエルサレムの指導者は黙ってイエスのしていることを赦しているのか疑問に思ったのです。なぜなら、群衆はエルサレムの指導者たちがイエスと激しく対立していて、その命まで狙っていたことを知っていたからです(25節)。そんな人物を野放しにしておくのはどういう訳かと彼らはここで推測するのです。「もしかしたら、エルサレムの指導者たちはイエスが神が遣わされたメシアであると信じて、このような行動を黙認しているのか。しかし、そんなことはありえないだろう」と彼らはここで思案を巡らしています(26節)。

 ところがこんなふうに言っている群衆自身も実はイエスがメシアであることを信じようとしていなかったことが次の発言でわかるのです。「しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ」(27節)。群衆はイエスがガリラヤからやってきたことを知っていました。だからイエスはメシアではありえないとここで彼らは考えているのです。
 これは旧約聖書が教えるメシア預言を彼らが誤って理解した結果であると、ある説教者はその説教の中で解説しています。旧約聖書にはいろいろなところでメシアは人々が思いもよらない時に突然現れることが預言されています。だから、用心してメシアの到来を待ちなさいと教えているのです。ところが当時の人々はこの教えからむしろメシアは誰もが知ることが不可能な謎の人物であると考えるようになったと言うのです。それなのに自分たちはイエスが誰であるか、どこからやって来た人かよく知っている。だからイエスはメシアではないとここで彼らは判断したと言うのです。
 これは言葉を換えていえば、群衆はイエスが自分たちの考えているメシアの出現の仕方に合わないから彼はメシアではないと言っていると言うことになります。ですからイエスはこの群衆に対してこう語るのです。

「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである」(28〜29節)。

 イエスのこの言葉から明らかになることは群衆は「自分たちは知っている」と思い込んでいるが、実は神様についての事柄を何一つ知らないと言うことです。それを知るのはイエスお一人であって、人はそのイエスを通してしか真の神を知り得ないからです。ところが群衆はそのイエスに耳を傾けようとしないのです。つまり、彼らは「メシアの出現の仕方について自分たちはよく知っている」と言う勘違いをしているためにイエスに聞こうとはせず、そのイエスを必要としなかったと言うことになります。

(2)知らないからこそ、イエスに聞く

 先週の水曜日の夜の黙示録の学びではラオディキア教会に宛てられた手紙の部分を読みました。ラオディキア教会の人々が主イエスから非難された点は「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」(17節)と思い込んでいるところにありました。彼らがそう思い込んでいるので、イエスがせっかく彼らの心の戸を叩いておられることに気づかず、その心の戸を開いてイエスを受け入れることができないでいたのです。
 教会に私たちが毎週、礼拝にやってくるのは私たちは貧しいこと、満たされていないことを知らされているからではないでしょうか。イエスだけが私たちの心を豊かにしてくださる。満たしてくださることを知らされているからこそ私たちは毎週教会にやってくるのです。それと同じように、私たちは神様に教えていただかなければ、神について、その神が造られた世界について、そして自分について正しい知識を何一つしることができません。だからこそ、私たちはこのように聖書のみ言葉に真剣に耳を傾けることができるのです。
 しかし、自分が知っていると思い込む人は、その自分の知識に従って聖書の言葉を解釈して、救い主イエスを見いだすことはできないのです。それがここに登場する群衆の姿に表されています。

3.キリスト昇天と聖霊
(1)天より聖霊を与えてくださるイエス

 今日の箇所でイエスは「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」(33〜34節)と語られています。これはやがてイエスがこの地上を離れて天に昇られることを表す言葉です。しかし、群衆はこの言葉についても正しく理解しようとするのではなく、自分勝手な解釈をしています(35〜36節)。
 ところで今日の信仰問答の交読の箇所はちょうどこのイエスの昇天の出来事に触れています。この問答を記したカルヴァンはイエスが今や天に登られてこの地上にはおられないという事実を明確に解説します。「(イエスは)私たちの救いのためになることは一切果たされたのち、地上に滞在される必要はもはやなくなったから(天に昇られた)」。つまりイエスはすでに地上で私たちのためになすべき事は成就されたのです。ですからイエスが地上を離れても何の心配もする必要はないと教えているのです。

 そこで天に昇られたイエスは次の新しい役割を今は天上で行われていると言うことになるのです。イエスはそのことについて今日の箇所でこう語ります。

 「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(37〜38節)。

 イエスは仮庵祭で来年は雨が無事に降って豊作になるかどうかを気にしている人々にこの招きの言葉を語られます。「作物を潤わす雨よりももっと必要なものがあなたたちにはある。それを私はあなたたちに与えよう」とイエスはここで語られているのです。すぐ後でヨハネの福音書はイエスが私たちに与えてくださるものは「霊」、つまり聖霊であることを明らかにしています(39節)。この聖霊が私たちに与えられることによって、「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と語られるように、私たちの内に豊かな命が与えられるのです。そしてイエスはこの聖霊を私たちに与えてくださるために、天に昇られたのです。そしてこの聖霊はイエスが地上で成し遂げられた救いの御業によって与えられるすべての賜物を私たちひとりひとりに与えてくださるのです。

(2)私たちの礼拝で起こること

 私たちの礼拝はこの聖霊が私たちに豊かに臨んでくださるところであると言えるのです。なぜなら、この聖霊は神のみ言葉を語る説教と、そのみ言葉を見える形で表す聖礼典、そして祈りを通して豊かに私たちに臨んでくださるからです。これらのものすべては私たちの献げる礼拝の重要な要素となっています。たとえばこれから私たちが預かる聖餐式も聖霊が豊かに私たちに働かれるために与えられているものなのです。ですからこの聖餐式にイエスを救い主と信じる信仰を持ってあずかるものは、その席でパンと葡萄酒に預かることができるように、イエスが与えてくださる聖霊を受けることができ、その聖霊を通してイエスが与えてくださるすべての賜物を受けることができるのです。
 つまりここで語られる「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言うイエスの言葉は、私たちが献げる礼拝への招きの言葉と考えることができるのです。イエスは今日も私たちに聖霊を与えてくださいます。その聖霊はイエスが獲得されたすべて恵みを私たちに与えてくださるのです。その結果、私たちの命は生ける泉のように豊かにされるのです。

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天の父なる神様
 主イエスは私たちのために地上での使命を終え、今、天上にあって私たちのために聖霊を送り続けてくださっています。いつも私たちがあなたに真の命を求めることができるようにしてください。私たちの献げる礼拝を通してあなたの勝ち取ってくださった恵みを豊かに与えてください。そのためにもこの礼拝に豊かに聖霊を送ってくださいますように。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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