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礼拝説教 桜井良一牧師
「聖霊の賜物」

(2008.5.11)

聖書箇所:ヨハネによる福音書14章15〜27節

15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
22 イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。
23 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

1.私たちはいつ救われるのか
(1)弟子たちを慰め励ますイエス

 今日は聖霊降臨日(ペンテコステ)をお祝いする礼拝です。聖霊降臨日については使徒言行録2章に詳しくその出来事が述べられています。この日、イエスが約束してくださった聖霊がエルサレムに集まった弟子たちの群れに初めて送られました。そしてこの聖霊を受けた弟子たちを通してキリストの福音が全世界に宣べ伝えられこととなり、キリストを信じる人々の群れ教会が誕生したのです。ですからこの聖霊降臨日はキリスト教会の誕生日であると言ってもよいでしょう。
 今日、私たちがこの聖霊降臨日を記念する礼拝で読む聖書の箇所は、今年になってからずっと学び続けていますヨハネの福音書の14章に記されたイエスの語られた説教の一部です。この説教はイエスが逮捕されて十字架にかけられる前の晩に弟子たちに語られたお話で、「イエスの遺言」といった性格をもったお話です。イエスはこれから自分が十字架にかけられて殺されようとするときに、自分のことを心配するのではなく、後に残される弟子たちを心配されました。そこでその弟子たちを慰め、励ますためにイエスはこの夜に説教をされたのです。ですからイエスはこの部分で「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(18節)と弟子たちを励まし、その弟子たちのために「別の弁護者」を送ってくださると言う約束まで語られています。そしてこの約束に従って彼らの元に送られたものが聖霊であったと言うことができます。

(2)救いは今

 ところで、このヨハネの福音書を今までずっと学んできた私たちはヨハネが至るところで「聖霊」について語っていることに気づかされます。ヨハネの福音書ではまさにこの福音書を「聖霊についての福音書」と呼んでもいいようなほどに聖霊に対す言及が繰り返されています。おそらく福音記者ヨハネはこの福音書で聖霊についてのことを繰り返し取り上げることで、今は天におられるイエスとそれを信じる私たちとの関係を明らかにしようとしていると考えることができます。つまり、ヨハネが特にこの聖霊の働きを強調するのは、私たちの信仰は遙か昔にイスラエルで活動されたイエスを思い起こすものでも、またやがて将来に再びやってくる再臨のイエスを待ち望むだけのものでもなく、今、生きておられるイエスと聖霊を通して豊かな交わりに入れられることを表わしているのです。このようにヨハネにとっての最大の関心は、過去でも将来でもなく、今、イエスと彼を信じる者たちはどのような関係に置かれているのか言うところにありました。
 その点で興味深いのはヨハネがこの福音書で語る救いについての考えた方です。ヨハネにとって救いとは、やがてこの世の最後の日になって初めて受けるべきものと言うのではなく、今すでに信じる者の上に実現しているものだと考えるのです。そしてその反対の裁きも、将来のことではなく、信じない者は今すでに裁かれていると主張するのです。
 たとえば有名なところではこの福音書の11章のところで弟ラザロの死に悲しむその姉のマルタとイエスとの会話が取り上げられています。ここでマルタは信者の復活について「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」(24節)とその復活が遙か遠い先の出来事として考えます。ところがイエスはこのマルタに「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(25〜26節)と答えられています。この言葉はこれから起ころうとしているラザロの復活だけを語っている言葉ではなく、イエスを信じる者すべてが今、すでに永遠の命に預かっていると言うことを教えています。このようにヨハネはこの福音書を読む私たちにキリストの救いは今、すでに私たちの上に豊かに実現していることを教えています。そして、その救いを私たちの上に実現させる重要な働きをするのがイエスから送られる聖霊であると言うことができるのです。

2.聖霊の賜物が目指すものは
(1)イエスと私たちの大きな認識のずれ

 ところでイエスはあるとき弟子たちに熱心に神に祈るように勧めるために次のようなお話をされています。「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(ルカによる福音書11章9〜10節)。誰もがこの言葉を読むと、自分の求めはまだまだ真剣ではないと言うことに気づかされます。そして真剣に神様に願わない前からすでに諦めてしまっている自分に私たちは気づかされるのです。
 ところで、このお話の結論の部分でイエスはこのように語っています。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(13節)。「父親がたとえ悪い人間でも自分の子供には一番良いものを与えようとするものだ。だから天の父は熱心に求める私たちのために一番良いもの、つまり聖霊を与えてくださる」とイエスは教えてくださっているのです。
 この結論に至って、案外多くの人が意外な気持ちになるのではないでしょうか。イエスに「熱心に求めて見なさい。そうすれば神様はそれを与えてくださる」と言われると、私たちは「よし、それなら」といろいろ自分たちに必要なものを頭に浮かべるのではないでしょうか。しかし、そのとき私たちの多くは「はい、それは聖霊です。私に聖霊を与えてください」とは考えないで、別のものが必要だと思っているのではないでしょうか。私たちが考えている自分にとって一番必要なものと、神様が私たちに与えてくださる、私たちにとって一番必要なものにはどうも大きなずれがあるようです。

(2)聖霊の賜物と肉の業

 今日の説教題は「聖霊の賜物」となっています。イエスが私たちにために遣わしてくださる聖霊は私たちのために神様からの様々な贈り物、賜物を持って来てくださいます。いえ、そう考えるならむしろ聖霊ご自身がイエスが私たちに与えてくださる一番の贈り物、賜物だと言っていいのかもしれません。しかし、私たちは本当にこの聖霊を素晴らしい私たちへの贈り物として考えているのでしょうか。むしろこの「聖霊の賜物」と言うことにも、私たちの間には誤解が生まれているような気がするのです。
 今日の部分の最初は「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」と言う言葉が記されています。ここには「わたしの掟」と言う言葉が登場しています。この掟とはこの前の部分の13章34節でイエスによってはっきりと次のように語られています。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。この愛の掟のことを言っているのです。
 ここでまず誤解してはならないのは、私たちがこの愛の掟を守れば、その人にすばらしい贈り物である聖霊が神様からご褒美として与えられると、そのようにイエスは教えていないと言うことです。むしろここでは「イエスを愛する人」、これはイエスを信じる人と言ってもいいでしょう、その人に聖霊が与えられて、その聖霊の賜物として私たちの内にこの愛の掟が実現されると教えられているのです。
 使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙の中で「霊の結ぶ実」、つまり私たちがイエスから与えられる聖霊の賜物についてこのように解説しています。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です」(5章22〜23節)。そして、この霊の結ぶ実とは全く反対な、私たちの自身の本来の姿から出てくるものは「肉の業」と言う言葉で呼ばれていて、それは次のようなものと言われています。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」(19〜20節)。パウロは大変なリアリストで本来の人間の姿を厳しく判断して、このようなもの以外は人間のうちから出てくるものはないと語ります。その上で、もしそのような人間に聖霊が与えられるならば、まったく違った実がその人の人生に現れると語ったのです。
 しかし、その上で私たちが誤解してしまいがちなのは、聖霊の働きが何か素晴らしい徳目を私たちの人生に実現するためにのみあると考えてしまう点です。つまり、ここで語られている「霊の実」が私たちの人生に現れることが聖霊の働きの最終目的だと私たちは考えてしまうのです。この誤解に陥る者の信仰生活は徳目だけを追い求める生活となり、それが実現されない自分の信仰生活を見てはがっかりし、また多少なりともそれが実現していると考えると自分は立派な信仰者だとうぬぼれると言った恐れがあります。しかし、これらの聖霊の実は、あくまでも私たちをイエスが与えてくださる最高の祝福へと導くものに過ぎないと言えます。それではイエスは私たちに聖霊を送ることで、何を与えてくださろうとしているのでしょうか。

3.イエスと共にある命
(1)聖霊を通して御自身を現されるイエス

イエスは21節で弟子たちに次のように語られています。

 「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」(21節)。

 この言葉の中にも「わたしの掟」と言う言葉が登場し、またそれによって実現するイエスと私たちとの愛の関係が記されています。そしてこれらのものは先ほどから語っているように、私たちに聖霊が与えられるときに実現する聖霊の賜物と言うことができるのです。その上でこの賜物が与えられることによって私たちに何が最終的に実現するのかと言えば、イエスは「その人にわたし自身を現す」ことだと教えているのです。
 イエスは御自身を聖霊の賜物を通して私たちに現してくださると言うのです。つまり私たちは聖霊の賜物を通していつもイエスが生きておられることを確信することができると言うのです。そしてこれこそがイエスが聖霊を私たちに送ってくださることによって実現する最大の祝福であると言ってよいのです。

(2)イエスが生きているから私たちも生きる

 加藤常昭牧師のヨハネによる福音書の説教集のこのイエスの言葉に言及している箇所で、加藤牧師はたいへん興味深いお話を紹介しています。この箇所の19節に登場するイエスの言葉「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」と言う言葉を宗教改革者マルチン・ルターは愛し、特にその牧会の中でこの言葉を引用して用いたと言うのです。そしてルターが特にこの言葉を使った場面は何かと言えば、危篤になって、もうすぐ息を引き取る者を訪問するときだったと言うのです。ルターはこの言葉を語ることが死を迎えようとしている人にとって最後を慰め、励ましだと考えたのです。
 それではどうしてこの言葉には死の危機に立たされている人を励ます力があると言うのでしょうか。それはこの言葉を聞く者に「永遠の命」を約束し、その命の確かさを確信させる言葉になっているからです。イエスはここで語っています。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」。イエスが生きているので、わたしたちも生きることになると言うのです。なぜならイエスの命とわたしたちの命が今や一つとされているからです。イエスが送ってくださる聖霊の働きによってそれが実現したのです。ですから私たちの命は今や、このイエスの命と一体であるとも言えるのですから、このイエスが生きておられる限り決して死ぬことないとこの言葉は教えているのです。イエスは確かに死から甦り、永遠に死なない方として今、天におられるのです。だから私たちの命も永遠であると言うことができるのです。
 しかし、この言葉はイエスを信じない人々には何の慰めにもならないのです。なぜなら、彼らはイエスが今、生きていることを知りませんし、それを受け入れようともしません。しかし、イエスを信じる者は今もイエスが生きておられることを知っています。なぜなら、私たちにイエスは聖霊を遣わして、御自身が生きておられることをはっきりと現してくださるからです。ですから、その真理を知らされている信仰者にとって、この言葉こそ自分も確かに永遠に生きることができることを教えています。目の前に迫る肉体の死を経てもなお私たちの命は無くならないことを教える最高の慰めと励ましを与える言葉となっているのです。このように聖霊は私たちをイエスとの命の関係に導き、その関係の内に私たちが生かされていることを豊かに知らせてくださるのです。ですから確かに聖霊は私たちにとって最高の神からの贈り物だと言うことができるのです。

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わたし達の救い主イエス・キリストの父なる神様
 わたし達に今もなお、聖霊を豊かに送ってくださり。わたし達の信仰生活の上に様々な賜物を与えてくださるあなたに感謝いたします。わたし達にこの聖霊を通してイエスがはっきりと示してくださる幸いを感謝いたします。復活されたイエスは今も生きておられ、永遠に生きておられる方であることをわたし達は知っています。そしてわたし達もまたこのイエスとの命の交わりを通して永遠の命に生かされていることを感謝します。どうか、このすべてをわたし達に示してくださる聖霊を昼も夜も熱心に求める者とわたし達をしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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