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礼拝説教 桜井良一牧師
「神の民の誕生」

(2008.5.25)

聖書箇所:ヨハネによる福音書3章1〜15節

1 さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。
2 ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」
3 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
4 ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」
5 イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。
6 肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。
7 『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。
8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
9 するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。
10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。
11 はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。
12 わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。
13 天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。
14 そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。
15 それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。

1.ニコデモの来訪
(1)ニコデモを有名にしたイエスの言葉

 今日の聖書の物語に登場するニコデモと言う人物はこのヨハネによる福音書にしか記されていない、ある意味で謎に満ちた人物です。彼はイエスが十字架にかけられて死んだ後、アリマタヤのヨセフと共にイエスの遺体をローマ兵から受け取り、葬った人物として紹介されています(19章39節)。おそらく彼の名前が聖書を読む多くの人の心に残される原因は、このニコデモとイエスとの対話の中に現れる、誰でも知っている最も有名な聖書の言葉にあると言えるのではないでしょうか。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(16節)。たくさんの人々に愛されているこのイエスの言葉がこのニコデモとの会話をきっかけにイエスの口から語られることになります。つまり、このニコデモと言う人物の存在と、彼が悩みを抱きながらイエスの元を訪れたことが、このイエスの言葉を私たちが知るきっかけとなったのです。そう考えるとニコデモはこのイエスの言葉の故に神に用いられた人物であったと言えるかもしれません。
 常日頃、悩みのない人生を私たちは送ることを望みます。しかし、もしその悩みを通して私たちが真理に出会うならばそれは素晴らしいことではないでしょうか。そのような意味で悩むことは決して悪いことではありません。もちろん、悩むことだけで終わってしまっては意味がありませんが、それを通して私たちが救い主イエス・キリストに出会えるとしらたら、それは素晴らしい恵みであると言えます。つまり、私たちの悩みを恵みに変えるのはこの救い主イエス・キリストとの出会いにあると言えるのです。

(2)律法の専門家で、議員あったニコデモ

 それではニコデモはいったいどのような悩みを抱えていたのでしょうか。ニコデモは確かに深刻な悩みを持っていました。そうでなければ、彼は人目を避けて夜、こっそりとイエスの元を訪ねる必要は無かったはずです。もし彼の訪問が単なる自分の好奇心を満たすためのものだったら、彼は他のファリサイ派の仲間たちを伴ってやって来てイエスに論争を挑んだことでしょう。しかし、彼は夜、一人でイエスの元を訪ねています。なぜなら、この訪問が他の人に分かってしまったら彼には都合が悪いからです。なぜならばニコデモは「ファリサイ派に属する」、「ユダヤ人たちの議員であった」(1節)からです。
 「ファリサイ派」とは当時のユダヤを二分する一方の宗教勢力であり、モーセの律法を生活の隅々まで適用して生きようとした人々です。よく「律法学者」と呼ばれる人々が登場しますが、ファリサイ派の信仰生活はこのような学者たちの律法の解釈で事細かく規定されていました。
 また、「ユダヤ人たちの議員」と言うのはニコデモが当時のユダヤの最高機関であった宗教議会の議員であったことを意味しています。当時のユダヤはローマ帝国に支配されていたために、この議会の権限は大変制限されていたようですが、それでもこの議会の議員たちは大きな権威を持っていたようです。ニコデモはこの議会の議員で合ったわけですから、人々から尊敬を受けるほどに律法に対する知識を持ち、自らもその律法に基づく生活を実践していた人であったと考えることができます。このような意味で、ニコデモはむしろ通常は人々からの質問に答える側の人であった訳です。このニコデモと違ってファリサイ派の人々からはイエスは何の権威も、後ろ盾もない一般の庶民の一人と見なされていました。そんなイエスに教えを請うということは誇り高きファリサイ派の人々から見れば恥じるべき行為でしかありません。だからニコデモは夜、こっそりとイエスの元を訪れたのです。
 ところで、ニコデモはどうしてイエスの元を訪れる決心をしたのでしょうか。彼はそのことについてイエスに次のように語っています。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」(2節)。このお話の少し前ですがヨハネの福音書は2章の23節で「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」と言う記録を記しています。どうやらニコデモこのときイエスを信じた人々の一人であったようです。しかし、ニコデモはこのときイエスを「教師」、つまり自分と同じように律法を教える一人の教師のような存在であると考えていたようです。だから、彼はこのときあくまでも自分の知識を補足するような教えを求めてイエスの元にやって来たと言えるのです。このときのニコデモは決してイエスを救い主と信じて、彼から永遠の命をいただこうと言う考えは持っていなかったのです。

2.新しく生まれる
(1)神の国と永遠の命

 ニコデモとイエスとの会話がどこかかみ合わない、すれ違いを見せているのはこの点に大きな原因があります。ニコデモはあくまでも自分の持っている知識を補うような教えを求めて、つまり「教師」としてイエスに接しようとしています。ところがイエスはこのニコデモに対して、命を与える救い主として御自身を示されようとしておられるのです。
 このすれ違いは今でも私たちの上に起こり得る問題であると思います。なぜならば多くの人は聖書やイエスの教えから自分の生活に役立つような知恵や処方箋のようなものだけを求めようとしているからです。「自分はだいたいのところは分かっている。だから少し足りない部分を補ってくれればそれでいいのだ」と考えて、聖書を読み、イエスの教えに耳を傾けようとするのです。しかし、イエスは私たちに命を与えるために来られた救い主です。だからこそ、私たちはイエスから自分の生活に役立つ何かの知識だけを得ようとするのではなく、イエスと言う方をそのまま受け入れて、彼から永遠も命をいただく必要があるのです。
 イエスはニコデモの抱えている問題を既に知っておられたかのように単刀直入にニコデモに語りかけます。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。
 昔、ロシアでは囚人に対する罰として毎日水汲みをさせて、その水を地面にまかせるという拷問があったと言います。囚人は毎日、一生懸命に水を汲んでは、その水を地面にまく行為を繰り返し行うように命じられます。ところが地面にいくら水をまいても、それで何かが変わることはありません。なぜならその拷問は人に無意味な行為を繰り返しさせるところに意味があるからです。ですからこの拷問を受けた人は必ず、精神に異常を来たし廃人のようになってしまうのだそうです。ところが、同じように毎日水を汲んで、地面に水をまいていても農民は気が狂うことはありません。なぜなら、彼らは作物を得ると言うちゃんとした目的のために毎日水を汲み続けているからです。過酷な水汲みの作業をしながらも、彼らは豊かな実りを思いながら希望を持ってその作業を続けることできるのです。
 不思議なことにこのヨハネの福音書では「神の国」と言う言葉は他の箇所ではあまり登場しません。なぜなら、ヨハネは他の福音書では頻繁に登場するこの「神の国」と言う言葉を「永遠の命」と言う言葉に置き換えて説明しようとしているからです。永遠の命とはいつまでも決してなくならない命と考えることができます。しかし、それと同時に永遠になくならない価値を持つ命とも考えることができます。ですから私たちの人生に永遠に消えることのない価値を与える命、それが永遠の命であり、「神に国に入る」ことであるとも言えるのではないでしょうか。それならばもし、私たちが今、この永遠の命を神様から与えられたなら私たちの人生はどうなるのでしょうか。私たちは自分の人生を虚無の中に投げ込むような「死」から解放されるはずです。そして自分の人生の歩みは、永遠になくなることのない価値を生み出すものとして、喜びを持って生き続けることができるのです。ニコデモは年老いていました。だから自分の命が「死」と言う虚無に投げ込まれてしまうことを恐れていました。そして彼は自分の今までの人生に意味を与える「永遠の命」を必要としたのです。

(2)上から生まれる

 ところがニコデモはイエスの言葉を聞いてむしろ混乱に陥ってしまいます。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)とその混乱を口にしています。先ほどから言っているように、ニコデモは自分の知識の不足を補うような教えを求めていました。それをイエスから聞いたなら、自分で後は何とかなると思っていたからです。しかし、「新たに生まれる」と言うことになれば、それは自分には何もできません。誰も自分の意志や努力でこの世に生まれて来る者はいないからです。
 実はこのイエスの語った「新しく生まれる」と言う言葉には別の訳し方があります。それは「上から生まれる」と言うことです。私たちの誕生は皆この地上においての出来事ですが、イエスの語る「生まれる」と言う出来事はそれとは全く別の次元での出来事であることをこの言葉は示しています。ですからイエスは次のようにそのことを説明しているのです。

 「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(5〜8節)

 イエスはここで「新たに生まれる」、つまり「上から生まれる」とは神様の霊である聖霊によって生まれることだとここで説明しているのです。私たちがイエス・キリストを救い主として受け入れるとき、私たちの目には見えませんが、私たちは聖霊によって生まれることができるのです。いえ、私たちが経験する順序では信仰が先で聖霊が後にように考えられますが、神様の側からの働きかけの順序は、私たちがまず聖霊によって生まれ変わることで、イエス・キリストを救い主として信じることができるようにされるのです。ですから、私たちに与えられた信仰はこの聖霊が御業の確かな証拠なのです。そして私たちは確かにこの信仰を目に見えない聖霊によって与えられたことを目に見える儀式「水による洗礼」を持って確認することできるのです。
 ここで聖霊は「風」にたとえられていますが、聖書では聖霊と言う言葉と「風」は元々と同じ言葉で表現されています。風はそれ自身では目に見ることができませんが、私たちは風の吹く音を聞き、風の動きを感じることができます。同じように聖霊もまた私たちの目には見えませんが、イエスを信じる者はその働きを確かに感じ取ることができるのです。

3.青銅の蛇と十字架のイエス

 それではどうして私たちはこの聖霊によって「新たに生まれる」ことが可能となるのでしょうか。先ほども語りましたように「生まれる」と言う行為においてはその当事者である私たちの努力や行いは一切介入する余地がありません。ですからイエスは続けてこう語るのです。

 「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(14節)。

 このイエスの言葉の背景となっている物語は旧約聖書の民数記21章(4〜9節)に記されています。荒れ野の過酷な旅に耐えきれず神とモーセに逆らったイスラエルの民に、神は「炎の蛇」と名付けられた毒蛇を送り込みました。そこでこの毒蛇にかまれた多くの人の命が奪い去られます。「これはたまらない」とモーセを通して神に許しを請うた民に示されたのがこの「荒れ野で蛇を上げる」こと、つまり、モーセに青銅で毒蛇と同じ形の蛇を作らせ、それを旗竿の先に掲げさせたのです。すると、今までなら毒蛇にかまれた者はその場ですぐ落命していたのに、この青銅のへびを毒蛇にかまれてすぐに見上げた者は命が助かると言うことが起こったのです。つまり神の言葉を信じてその青銅の蛇を見上げた者だけが「命を得た」と聖書は語っています。
 イエスはこの旧約聖書の出来事はイエスの十字架の出来事を預言したものだとここで語っているのです。青銅で出来た蛇は、十字架のイエスを示します。つまり、十字架のイエスの死によって私たちは死から解放されて、永遠の命を受けることが出来るのです。聖霊はこの十字架のイエスの犠牲によって、私たちに豊かに与えられます。そしてその聖霊を受けた人々は、荒れ野で旗竿の先に掲げられた蛇を見上げたように、イエスを信じることで「命を得る」ことができるのです。
 炎の蛇にかまれた人はすぐにその毒が体中に回って死を迎えます。何をしようとしても無駄です。医者に行く暇もありません。必ず死ななければなりません。これは神の前で罪を犯し続ける、私たちすべての人間の姿を象徴しています。誰も死を免れることができません。そしてこの場合の死とは私たちの肉体の死を意味するだけではなく、私たちの人生の価値を虚無の闇に放り込む永遠の死をも意味しているのです。その私たちを救い出すためにイエスはこの地上に来られました。ですから私たちも自分の命が死の闇に飲み込まれてしまう前に、夜の暗闇の中から光であるイエス・キリストを訪ねたニコデモと同じように、イエスを信じ受ける入れることが必要なことをこのヨハネの福音書は教えているのです。


***
天の父なる神様。
 私たちの人生を虚無の闇へと投げ込む「死」の世界から抜け出すために、ニコデモはイエスの元を訪れました。そこで私たちが新たに生まれ、永遠の命を受けるために、イエスがこの地上に救い主としてやってこられたことを教えられたのです。私たちにその真理を示してくださりありがとうございます。十字架の主こそ、私たちの永遠の命の根拠であることを覚えます。どうか私たちの思いをいつもその主への向かわせてください。
主イエスの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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