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礼拝説教 桜井良一牧師
「信仰の道」

(2008.6.1)

聖書箇所:ヨハネによる福音書3章22〜36節

22 その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。
23 他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。
24 ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。
25 ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。
26 彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」
27 ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。
28 わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。
29 花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。
30 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」
31 「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。
32 この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。
33 その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。
34 神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。
35 御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。
36 御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」

1.ヨハネの喜び
(1)忘れられることに不安を感じる私たち

 今日の聖書の物語の主人公とも呼べるバプテスマのヨハネは四つの福音書で共通にして取り上げられています。どの福音書もヨハネはイエス・キリストの登場を準備した大変に重要な人物であることを語っています。彼は荒れ野を住処として、そこでたくさんの人々に悔い改めを訴えたことで有名です。最近の研究によれはこのヨハネと同じように俗世界から離れて、荒れ野で厳しい信仰生活を送っていた人々は他にもたくさんいて、彼らはエッセネ派と呼ばれていたようです。ですから、このヨハネと同じような信仰生活をしていた人が同じ時代にたくさんいたと考えることができます。しかし、バプテスマのヨハネの名だけがこのように新約聖書に取り上げられ、たくさんの信仰者に今なおその存在が覚えられているのは彼がイエス・キリストを証しすることに自分の生涯のすべてを傾けたと言うところにあると言えます。
 私はまだ十代の頃にこんな疑問を持ったことがあります。「自分がやがて死んでしまったら、自分がこの世に存在していたと言う事実はどうなってしまうのだろうか。きっと誰もちっぽけな自分の存在など忘れてしまうに違いない。それなら、自分の存在の意味はどこにあるのだろうか」と深刻に悩んだのです。「後生に名を残す」と言う言葉がありますが、私がどんなに努力しても自分は世界的な偉人となること到底できないと思いました。どんなに大きな墓石を立てても、その墓石は少しの間はこの地上に残るかもしれませんが、私と言う人間のことを直接に知る人はいつまでもいるわけではありません。そんなことを考えるととても自分の存在が不確かで、不安を感じざるを得なかったことを思い出します。私たちは自分の存在が忘れられてしまうことに恐れと、不安を感じるのです。
 ところが今日の物語に登場するバプテスマのヨハネはこの不安から解放されていたように思えるのです。今日は、このヨハネの言葉から彼の生き方と、彼が証言したイエス・キリストについて少し考えて見たいと思います。

(2)ヨハネの弟子たちの不安

 物語のきっかけを聖書は次のように述べています。

 「その後、イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた」(22〜23節)。

 イエスが活動を開始されてユダヤのある地方で人々に洗礼を授け始められました。その一方でバプテスマのヨハネもまた人々を悔い改めに導くための洗礼を別の場所で授け続けていたと聖書は言っています。つまり、イエスとバプテスマのヨハネが同時期に同じように人々に洗礼を授けると言うような出来事がここで起こったのです。そうすると人間と言うものはおもしろいもので必ず、二つのものを比べて、どっちにより効き目があるのかと考え始めるのです。
 このことであるユダヤ人たちとヨハネの弟子との間に論争が起こりました(25節)。ある人々がおそらく「ヨハネの洗礼より、イエスの洗礼の方が効き目がありそうだ」と言ったことを聞いて、ヨハネの弟子たちが自分たちの先生が侮辱されたと思い、それがきっかけで論争が起こったのでしょう。実際に、今まではたくさんの人々がヨハネの元を訪れて洗礼を受けていたのに、その数が日に日にどんどん減っていって、イエスのところに集まる人が逆に増えて行くのを感じたヨハネの弟子たちは不安と焦りを感じていたのかもしれません。ですから彼らはそのことをヨハネにこう告げています。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています」(26節)。
 このままでは自分たちの存在が人々に忘れられてしまうに違いない。だから先生に「なんとかしましょうと」と彼らは語りかけたのです。しかし、ヨハネはこのような弟子たちの言葉に動かされることはありませんでした。彼はこの状況の中でもしっかりと自分の働きの意味を理解し、最後まで自分に与えられた使命を果たそうとしたのです。ですから、ヨハネがここで語っているのはあくまでも、自分のことではなく、最後までイエス・キリストを証しする言葉となっているのです。

2.ヨハネの喜び

 ある説教者はこの聖書の箇所を同じように取り上げながら「ヨハネの喜び」と言う題名をその説教に付けています。今も読みましたようにこのときヨハネの弟子たちはがっかりし、その動揺を隠しきれずにいます。ところがバプテスマのヨハネはこの出来事を通して返って喜びに満たされると言う不思議な出来事が起こります。ヨハネはその喜びを次のような言葉で表現しています。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」(29節)。
 その説教者はこのヨハネの喜びについていくつかの分析を加えています。まずヨハネの喜びの秘訣は彼が自分の人生の目的をはっきりと意識して生きることができたことにあったと言っているのです。
 ヨハネはここで結婚式の話を例に出しています。この場合の花婿はイエスであり、また花嫁とはイスラエルの民を意味していると考えてよいでしょう。彼はここで自分は「花婿の介添え人」であると語ります。結婚式が無事に終わり花婿と花嫁が結婚生活を始めるために働く介添え人が自分だと言うのです。つまり、ヨハネは自分の人生に与えられた目的は人々をイエス・キリストに導き、彼と共に生きることができるようにするためにあると考えていたのです。ですから、今までは自分の元に集まっていた人々がイエスの元に集まっていくのを見て、彼はむしろ自分の人生の目的が達成されていることを喜んだのです。
 第二にヨハネは神様から自分に与えられた賜物を十分に知り、それを使うことに専念しました。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」(27節)。人はとかく自分と他人とを比較してしまい、それを真似ようと考えます。もちろん、私たちが多くの先人たちの知恵や模範から学ぶことはよいことでしょう。しかし、自分に神様が与えられた賜物を忘れて、他人のまねばかりすることは私たちの人生に決してよい結果を生み出すことができません。そのような人は結局「どうして自分はあの人のようにうまくすることができないのか」と嘆くことで人生の大切な時間を費やすことになりかねないからです。しかし、ヨハネは他人のまねをすることなく、神様から自分に与えられた賜物を十分に用いることで自分に与えられた重要な使命を果たすことができたのです。
 第三にヨハネは自分の人生が神様の計画の中で成就するために重要な役目を果たしていることを知っていました。だから、彼はその使命を自分が果たすことができることを最大の喜びと感じたのです。
 あるとき、三人の人が煉瓦を積み上げる作業をしていました。一人は無気力な顔をしながら煉瓦積みの作業を行い「どうしてこんなくだらない仕事を自分はしなければならないのか」とぼやいています。もう一人の人は不満げにこうため息をつきます。「こんなに大変な仕事なの、もらえる給料は雀の涙だ」と。しかし、もう一人の人は楽しそうに煉瓦を重ね続けながらこう語ります。「ここにはこれから大きな遊園地が作られるのです。やがて僕たちが作ったこの遊園地にたくさんの子供たちがやってくるはずです。その子供たちの楽しそうな笑顔を思い浮かべると。私も楽しくなるのです」。
 ヨハネは荒れ野の厳しい生活の中でいつも思い浮かべていたはずです。自分が指し示したイエス・キリストの元にやがて全世界の人々が集まって来て、誰もが彼から救いを受けることができる。そして神の国が完成する日がやってくる。自分はその神様の計画のために今働いているのだと。

3.私たちを救い得るただ一人のお方

 このようにヨハネはその生涯を通してイエス・キリストを指し示し続けました。ですからヨハネが人々に授けた洗礼は、人々をこのイエスに導くためのものであり、それ自身には人を救う力はなかったのです。しかし、イエスの名によって施される洗礼はこれとは違います。イエスの十字架によって私たちに聖霊が豊かに与えられ、新しい命が与えられたことを示すことがイエスの名によって私たちに授けられる洗礼の大きな意味だからです。
 ヨハネは自分たち人間の働きと、神から遣わされたイエス・キリストの働きの違いをはっきりとここで区別しています。「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる」(31節)。
 ヨハネはイエス・キリストのみがすべての人間をその罪から救うことのできるただ一人の方であると信じ、それを語ったのです。
 あるとき、一人の人が誤って深い井戸に落ちてしまいました。深い井戸の底から彼は必死になって助けを求めて叫び続けます。するとそこに世界の誰もが知っているような有名な宗教家たちが通りかかります。一人の人は井戸の中をのぞき込んで彼にこう語りかけました。「君は今まで両親や、教師たちをないがしろにして、その教えに少しも耳を傾けようとしなかった。だから、こんな失敗をすることになったのだ。これからは心を入れ替えて、両親や上に立つ者を尊敬して、彼らに教えに聞き従いなさい」と彼に忠告して立ち去ってしまいます。しかし、井戸に落ちた人はそのままです。
 やがてもう一人の宗教家がやってきて同じように井戸をの中をのぞき込んで、彼の苦しみに耳を傾けました。やがてその宗教家は井戸の中の人にこう語ります。「確かに今、君は井戸の中にいる。しかし、あなたの苦しみの原因は本当はそこにあるのではない。原因は井戸の外に出たいと言う願いを君が持ち続けているところにある。だからその思いを捨てなさい。そうすればあなたは井戸の中でこれから平安に暮らすことができるでしょう」。そう語って、彼もまた井戸の中にその人を置き去りにしたままそこを立ち去ってしまいました。しかし、井戸に落ちた人はそのままです。
 三人目にやって来られたのはイエス・キリストです。彼はこの人の助けを求める声を聞いてすぐに、黙って上から縄梯子を降ろしました。そして自分から井戸の底まで降りてきて、井戸に落ちた人を背負い縄梯子を使って彼を救い出したのです。
 確かに人間は自分の身につけた様々な経験や知識を人々に教えることができます。しかし、罪の世界に沈んでいる私たちはその教えを聞いても、自分では何もできないのです。だから神様は私たちのためにイエス・キリストを遣わしてくださったのです。彼は私たちに何か新しいことを教えるために来たのではありません。彼は私たちを救い出すために天からこの地上にやってこられたのです。そして私たちを救い出す力を持っている方はこの人以外にはいないのです。
「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」(36節)。ヨハネはその生涯の最後に近づいてもなお、このイエス・キリストを証しし続けました。なぜならそここそが彼の人生に何者も奪い取ることができない喜びを与えることができたからです。

***
天の父なる神様
 救い主イエスを指し示す続けた洗礼者ヨハネの何者にも奪われることのなかった喜びを私たちにも与えてください。私たちもあなたにのみ救いがあることをヨハネのように証しし続けることができますように。また、やがてこのイエスの救いが完成する日を覚えつつ、そのときのために私たちの小さな歩みがあることを確信させてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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