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礼拝説教 桜井良一牧師
異邦人の救い

(2008.6.15)

聖書箇所:ヨハネによる福音書4章27〜42節

27 ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。
28 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。
29 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」
30 人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。
31 その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、
32 イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。
33 弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。
34 イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。
35 あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、
36 刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。
37 そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。38 あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」
39 さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。
40 そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。
41 そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。
42 彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

1.サマリアの女の伝道
(1)サマリア人とユダヤ人の関係

 今日の聖書箇所の物語はサマリアと言う地方が舞台となっています。このときイエスと弟子たち一行はユダヤからガリラヤに向かう旅の途中で、このサマリアと言う地域を通過します。そしてそのサマリアのシカルと言う町にあったヤコブの井戸でイエスは一人の女性と出会います。この4章ではまず、このサマリアの女性とイエスとの出会いが語られ、それに続いてサマリアの人々がイエスの元を訪れ、彼を信じたと言う話が紹介されています。今日の箇所ではサマリアの女性が、ヤコブの井戸を離れて自分の住む町の人々にイエスのことを伝えると言う出来事から始まっています。そしてやがてその話を聞いてたくさんのサマリアの人々がイエスの元を訪れることになりますが、その出来事との間にイエスと弟子たちとの間で交わされたお話が挿入されています。
 まず、このお話を理解するためにこのお話の舞台となる「サマリア」が、そしてそこに住んでいた「サマリア人」について知っておく必要があるでしょう。サマリアはエルサレムがあるユダ地域からは北にあった場所で、イエスと弟子たちが元々活動の拠点としていたガリラヤ地方はこのサマリアの更に北にありました。そしてサマリアはソロモン王の死後に分裂した北イスラエル王国の首都になった場所でした。この北イスラエル王国はやがてアッシリアと言う国に滅ぼされてしまいます。そのアッシリアの政策でこの地域に住んでいた人が外国に強制移住させられ、その代わりに他の国からたくさんの人々がこの地域に連れて来られました。つまり、たくさんの外国人がこの地域に流入することとなったのです。そのためこの地域の文化や宗教はこれらの人々の強い影響を受けることになりました。それでユダヤの人々は、サマリア人を同族としては認めず、彼らを外国人、異邦人と考えていたのです。この後もユダヤ人とサマリア人の間の対立の歴史は続き、特にサマリア人たちがエルサレムの神殿に対抗して、サマリアのゲリジム山と言う場所に礼拝の場所を作ったことで両者の対立は決定的となりました。
 イエスの活動されていた当時、ユダヤ人はこのサマリア地域に足を踏み入れることを避けました。ユダヤ人はサマリア人と関わりになることを嫌っていたからです。ところがイエスは大胆にもこのユダヤ人の習慣から外れて、旅の途中でこの地域に足を踏み入れたのです。しかも、イエスはそこで一人の女性との対話をされています。これも当時の習慣に反する行為であったことも間違いありません。

(2)理由を尋ねない弟子たちの態度

 今日の箇所は、この女性とイエスが親しく話をされている場面に、ちょうど食料を求めに町に出かけていた弟子たちが帰ってくるところから始まっています。イエスがユダヤ人の嫌っていたサマリア人と、それもよりによって女性と親しく話をしている姿を見て弟子たちは驚きます。ところが不思議なことに弟子たちはこの二人の姿を見ても何もそのことについて尋ねなかったと言うのです(27節)。ある聖書解釈者はこの弟子たちの態度について、イエスが徴税人や罪人と呼ばれる人々と常日頃から親しくしている姿を知っていたため、「人を分け隔てすることをなさらない先生なら当然なことだ」と思っていたのであえてその理由を尋ねることはなかったと説明しています。
 しかし、私はその解説を読んで少し納得のいかないところがありました。むしろ弟子たちは一見して素行の悪そうなサマリア人の女性と関わりを持つことを避けようとしたため、あえて彼女のことをイエスに何も尋ねなかったと思えたからです。つまり弟子たちはここで彼女のことを無視することにしたのではないでしょうか。その理由はこの後に続く、イエスと弟子たちとの会話からも裏付けられるように思えます。なぜなら、このサマリアの女性の改心を心から喜び、サマリア人が救われることに大きな関心と喜びを感じているイエスに対して、弟子たちはあまりにも無関心であるようなそぶりを示しているからです。だからこそイエスはその弟子たちに、後に続く収穫のたとえをする必要があったのではないかと思えたのです。

(3)自分が知られていることの喜び

 実はこのサマリアの女性の生涯はイエスの弟子たちに無視されるだけではなく、多くの人々に無視され続けた人生であったと考えることができます。彼女は過去に五人の夫を持っていたと言います。それは彼女が結婚と離婚を繰り返していたことを意味しています。おまけに彼女は今は夫ではない人物と同棲していると言うのです(18節)。結婚関係が希薄になりつつある現代社会と違って、当時の社会において彼女の存在は極めて異質なものであったと考えることができます。ですから彼女は社会からはのけ者にされる存在であり、社会の嫌われ者的存在であったと言えるのです。その証拠に彼女はわざわざ、人がやってこない昼時に水を汲みにこの井戸にやって来ています。
しかし、この女性の人生はイエスとの出会いを通して大きな変化を遂げて行きます。今日の箇所では彼女はこの井戸に水を汲みに来たはずなのに、そのことを忘れてしまったかのように慌てて町に引き返し、町の人々に次のように語りかけています。

「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」(29節)。

 「私の行ったことをすべて、言い当てた人がいます」とこの女性は語っています。「あなたには今まで五人の夫がいましたね。そして今は夫ではない人と同棲していますね」。よく、占い師は他人が知るはずもない私たちの身の上を言い当てて、私たちを驚かせることがあります。しかし、この女性の変化はそのような驚きだけから来るものではないように思えます。なぜなら、彼女は自分を快く思ってはいない町の人々のところに進んで赴いているからです。彼女の中でこのとき確かな変化が起こっていたのです。
 彼女は「私の事を知っている人がいる」とここで言っています。今まで、自分の存在は誰からも認められていなかった、いや、冷たく無視され続けていたと言う彼女の心を変化させる出会いが確かに起こったことをこの言葉は示しているのではないでしょうか。人は自分の存在が無視されることに耐えることができません。そのことの故にときには人は悪魔のような犯罪にも手を染めることを私たちは最近、起こった悲惨な事件からもよく知っています。しかし、ここではまるでそのような事件とは正反対のことが起こっているのです。サマリアの女性はイエスに自分が知られていること、そしてイエスを通して神に自分が知られていることを理解したのです。だから彼女の心に大きな喜びがわき上がったのです。尽きることのない生きた泉のように、彼女の心の底からわき上がってくる喜び、その喜びに突き動かされることで、彼女は町の人々のところに向かったのです。

2.収穫についてのたとえ
(1)イエスの食べ物

 実は、この後に続くイエスと弟子たちとの会話の中にも、この喜びの問題が取り上げられていると見てよいと言えるでしょう。
 旅の途中で疲れを覚え、ヤコブの井戸の傍らで休息をとることにされたイエス(6節)、そのイエスのために食べ物を買いに町まで行っていた弟子たち(9節)がやっと帰って来ました。そして弟子たちが苦労して手にいれた食べ物を差し出して「ラビ、食事をどうぞ」(31節)と語りかけると、意外な答えがイエスの口から語られます。「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」(32節)。おそらく弟子たちにもこのときのイエスの変化を自分の目でも確認うることができたと思います。さっきは本当に疲れ果てたような顔をしてこの井戸の傍らに腰掛けていたイエスが、今は元気になっているのです。「もしかして、先生は誰かから別の食物を得たのだろうか」と弟子たちは疑いました(33節)。
 そこでイエスはこの弟子たち次のように答えています。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(34節)。
 皆さんの中でも「食べることが好きだ」と言う方がおられるかもしれません。食べること、それは人を喜ばせる娯楽が氾濫している現代社会と違い、イエスの時代においては人に喜びを与える最上のものと考えられていました。聖書の中でことあるごとに食事に関するお話が登場するのはそのような背景があります。しかし、イエスはその「食事」より、自分を喜ばせるものがあるとここで語っているのです。それは「わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と答えています。つまり、イエスを地上に使わされた父なる神の御心に従うことこそが自分にとって最大の喜びなのだと説明してくださっているのです。
 先ほども語ったようにサマリアの女性はイエスとの出会いを通して、神様に自分が知られていると言うことを理解し、その喜びに満たされました。そしてイエスはここでは自分の喜びの原因を語っているのです。イエスが抱いた喜びは「いなくなっていた一匹の羊を見つけ出した羊飼いの喜び」(ルカ15章1〜7節)と言うことできます。なぜなら、イエスはいなくなった羊を探しだし、連れ帰る使命を父なる神から託されてこの地上にやって来てくださったからです。そしてこのときイエスはこの父なる神の意志を実現することができたことを喜んでいたのです。

(2)喜びへの招待

 イエスはこの喜びにあなたたちも招待されていると弟子たちに語られたのです。つまり、あなたたちもこの父なる神の御心を実現することができると教えられたのです。これに続いて語られる収穫の譬えはこのことを私たちに教えるために語られたものなのです。
 このたとえ話では第一に神様が私たちに喜びを与えるために豊かな収穫を準備されていることを語っています。しかもその収穫は私たちの予想を遙かに超えたものであるとイエスは語られるのです。最近は都市部に住んでいる人も家庭菜園などと言って、土地を借りて畑を作る人が多くなってきました。慣れない作業をしながら、自分が耕した小さな畑に収穫が訪れることを人は待っています。しかし、神様の準備された収穫は時期においても規模においても私たちの予想を遙かに超えたものであり、私たちが知らなかった広大な畑が準備されていると言うのです。
 ユダヤ人は自分たちと自分たちの子孫だけが救われると考えていました。そのために彼らは丸で小さな家庭菜園を作るように、自分たちだけが一生懸命になって律法を守ることに熱心になっていたのです。しかし、神様の実りは、そのような小さな範囲に止まるものではありませんでした。その証拠に今や、ユダヤ人が彼らは絶対に救われないと思っていたはずの、そのサマリア人がイエスを通して神様を信じると言う出来事が起こるのです。
「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」とイエスは語られました。おそらく、このとき弟子たちがこの言葉に促されて目を上げて遠くを見ると、ちょうど町からやって来たサマリア人がイエスの元を目指して集まって来る姿が見えたに違いないとある説教者は語っています。それは弟子たちが予想もしていなかった神様の準備された収穫の光景だったのです。
 イエスの譬えの教える第二の点は、この収穫の業は撒く者と刈り取る者、その双方があって成り立つものであると言うこと、しかもこの収穫の喜びはこの両者が分け合うことのできるものだと言っていることです。
 教会に集う多くの人々はそこで初めて聖書のお話を聞いたのではなく、それ以前にも様々な形でその聖書の話を聞いたことがあると言う人が多いように思えます。つまり、私たちが伝道する以前にも、別の人たちがその人々に神様のことを伝えていたと言うことになります。この場合、私たちは刈り取る側の人間で、種を撒いた人はつまり、最初に彼らに福音を語った人は別にいることになります。
 また、それと全く逆のケースも存在します。あるときは私たちが種撒く側となり、他の誰かが私たちの撒いた種から生まれた収穫を刈り入れることがあるのです。私たちの撒いた種が私たちの知らないところで芽を出し、豊かな実りをもたらします。そして私たちの知らない誰かがその実りを刈り入れる立場に立たされるのです。この収穫の秘密を知らない人は、伝道の実りをあたかも自分の一人の力によるものだと考え傲慢となります。そして、その反対に目に見える効果が現れないとすぐに失望して、種を撒くのを止めてしまうのです。私たちの働きは私たち一人でなされる者ではありません。神様から召された者たちの働きが幾重にも重なり合って行われるものなのです。そしてそのすべての働きは神様の計画の中で皆、無くてはならない重要な働きの一部分として用いられているのです。この神様の計画を知っている者はサマリアの女性と同じように喜びに満たされます。なぜなら自分の存在が神様に認められていること、そしてその自分の働きが神様の大切な計画の内で大切に用いられていることを知っているからです。
 先日も学びましたように洗礼者ヨハネは「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(3章30節)と語りました。自分の存在が消え去ろうとしているときにヨハネはそれでも自分は変わることのない喜びを持っていると告白したのです。なぜなら、ヨハネは神様が自分を知っていてくださり、重要な働きを自分に任せてくださっていることを知っていたからです。イエスはこの喜びの中に私たち一人一人も招かれていることをこの譬えを通して教えられているのです。

(3)イエスを信じたサマリアの人々

 やがて、多くのサマリア人がイエスの元に集まります。そして彼らは「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」(42節)と、自分たちにイエスの話をした婦人に語っています。
 この言葉はサマリアの女性の働きが彼らにとって不必要であったことを語るのではありません。なぜなら彼らはこの婦人の証しによってイエスを信じることができたからです。つまり、彼女もまたあの洗礼者ヨハネと同じ働きをし、人々をイエスのところに招く重要な使命を担ったのです。
 しかし、神様の働きはそこで終わることはありません。彼女の言葉に導かれたサマリア人はイエスに出会うことで、こんどは自分たちの中に喜びを与えられるのです。そしてその喜びは彼らを種撒く人、また収穫を刈り入れる人にしていきます。このようにすべての人が神様の与えてくださる喜びへと招待されていることをこのお話を私たちに教えているのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 あなたが準備してくださった種撒く人の働きによって、私たちもあなたへと導かれました。そこでイエスに出会い、あなたから来る真の喜びを福音において味わうことができました。そしてあなたは私たちをもまた、種撒く人、そして収穫を刈り取る者として召してくださり、その喜びの中に招待してくださっています。私たちもあなたに知られていることを感謝します。どうか私たちも人々にそのことを喜んで伝えることができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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