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礼拝説教 桜井良一牧師
復活の希望

(2008.6.29)

聖書箇所:ヨハネによる福音書5章19〜30節

19 そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。
20 父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。
21 すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。
22 また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。
23 すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。
24 はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
25 はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。26 父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。27 また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。
28 驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、
29 善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。
30 わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」

1.私の父
(1)イエスは安息日を違反したのか

 今日の聖書箇所の最初は「そこで、イエスは彼らに言われた」と言う言葉で始まっています。ご覧になられると分かるようにこの5章の19節から30節の言葉はかぎ括弧で囲まれています。またそれに続く31節からこの章の最後の47節までも同じようにかぎ括弧でくくられています。つまりこの箇所の言葉はイエスの発言であることが分かるのです。それではどうしてこのような発言がこのときイエスの口から出たのでしょうか。その理由がこの直前の18節のところに記されているのです。「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである」。

 ここではユダヤ人達がイエスを殺そうとまで決心した理由が記されています。「神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである」と言うのです。
 この5章の最初にはベトサダと言う池の畔で38年間も自分の病が癒されることを待っていた人が登場します。そしてイエスの御業によってこの人の病が癒されると言う出来事が記されています。病気の人を助けたこと自体は決して非難の対象にはなりません。しかし、この日が安息日で神様を礼拝すること以外が厳しく禁じられていた日であったため、イエスが禁じられている医療行為をしたと言うことでユダヤ人たちはイエスを激しく非難したのです。そこでイエスはこのようなユダヤ人達の非難に答えて「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(17節)と反論され、自分の行為の正当性を主張されたのです。
 ご存知の通り、安息日の戒めの起源は創世記に記されている神の創造の物語にまでさかのぼります。神は天地万物を六日間で創造され、最後の七日目に休まれたからです(2章1〜3節)。モーセの律法はこの安息日を人間が守るようにと命じ、その理由の中に神自らがこの安息を守られたことを事情をあげています(出エジ20章8〜11節)。そしてユダヤ人たちはこの大切な戒めをイエスが蔑ろにしていると考えたのです。しかし、彼らの批判は二つの点で大きな誤りがあると考えることができます。その第一は、神は確かに創造の御業を完成され七日目にその業を休まれていますが、決してその御業のすべてを休んでしまったわけではないのです。なぜなら、神に造られたすべてのものは神の支えなしにはひとときたりとも存在することができないからです。つまり神が造られたものすべてを保持し、統治される御業はいつまでも休むことなく続いているのです。詩編の記者はこの神の御業について「見よ、イスラエルを見守る方は/まどろむことなく、眠ることもない」(121編4節)と語っています。ですからイエスはこのとき「わたしの父は今もなお働いておられる」と言って、安息日であっても神はその御業を休まれることがないことを語られたのです。
 ユダヤ人の第二の誤りはこの安息日の目的を誤解している点です。この安息日は神を礼拝する日として定められました。なぜなら私たち人間はこの日が律法で定められていないなら、一週間のすべての時間を自分のためにのみに使ってしまう貪欲さを持った者達だからです。私たちはその貪欲さが自分をも滅ぼしてしまう結果になることを知っていながらも、自分の力では休むことができません。神はそのような私たちを助けて、ご自身の方に私たちの心を向けさせるためにこの安息日を選ばれたのです。言葉を換えていえば、この安息日は私たちが週日の間、自分に向けていた心を、神に向けることが求められている日なのです。イエスはこの日の本当の意味を知っていました。ですから神の心に従って安息日に大切な御業をなされたのです。イエスの御業は安息日に違反するものではなく、安息日の目的を成就させるものだったのです。

(2)どうして父と呼んではいけないか

 私たちは祈るときに神を「天の父よ」と呼んでいます。しかし、ここでユダヤ人たちはイエスが神を「父」と呼んだことに激怒しています。どうしてなのでしょうか。私たちは神を「父」と呼びますが、それは正確に言えば「イエス・キリストの父なる神」と言うべきかもしれません。なぜなら、私たちが神を父と呼べるのはこのイエス・キリストの救いの恵みの結果だからです。イエスは私たちが神を父と呼べるように私たちと神様との関係を修復してくださったのです。だから私たちはこのイエスによって神を「父」と親しく呼びかけることのできる特権を与えられているのです。
 しかし、ここでイエスが神を「父」と呼んでいるのは私たちの場合とは全く違った意味を持っています。イエスはここで神を「父」と呼ぶことによって、自分が父なる神と同じ性質を持たれた神ご自身であること、つまり子なる神であることを表明しておられるのです。天地を造られた神お一人以外に神はいないと考えるユダヤ人たちにとって、このイエスの言葉は神を冒涜する最大の言葉と考えられたのです。なぜなら彼らはイエスを人間だとしか考えていなかったからです。だから彼らはイエスを許してはおけないと考え、殺そうとしたのです。

2.ギリシャ世界と日本の世界の類似性

 ユダヤ人たちは聖書の教えに基づいて神と人とは全く違う存在であると信じていました。創造主である神が造られた者が人間であり、神と人間との間にある造った者と造られた者と言う関係は決して変わることができないと教えられていたからです。人はどんなに努力しても自分を神とすることはできません。しかし、聖書の伝えるイエス・キリスト誕生の奇跡はこれとは全く逆で、創造主である神ご自身が人間になられたと教えています。これこそ聖書が教える最大の奇跡と言えるものです。しかし、ユダヤ人はこの奇跡を受け入れませんでした。彼らはイエスを自分たちと同じ人間と考え、かえって神を冒涜する者と考えたのです。
 ところで、神と人間との明確な違いを説く聖書とは違って、世の多くの宗教は神と人間の関係を曖昧な形で描きだします。異教の多くの神話では神が人になることはもちろんのこと、人間が神となることさえ語られています。ヤング先生がよくギリシャの神々が私たち人間と同じような行動をすることをギリシャ神話を通して紹介してくださることがあります。全くその通りなのです。実はこのヨハネの福音書はそのようなギリシャの文化や宗教が支配する地域で生活していたキリスト者に向けて書かれていたと考えられています。ヨハネはそのためユダヤの事情や習慣を知らない読者にいろいろと解説を加えてこの福音書を書きました。もしかしたら、この福音書の読者の中にもそのようなギリシャ文化の影響を強く受けて育った人もいたのかもしれません。
 しかし、そう考えて見るとヨハネの福音書の最初の読者であった人たちは、ギリシャ神話と同じように神と人間の関係を曖昧に考える私たち日本人に近い価値観を持った人たちであったと考えることができます。ヨハネはそのような人々にイエスは真の神が人となられた方であり、神であることを教えます。そしてそれを認めることがどんなに私たちにとって大切であるかを、今日の部分のイエスの言葉を通して教えているのです。

3.イエスによって明確に示された神
(1)自分の想像の産物

 こんなお話があります。バスに乗り込んで来た親子がいました。幼稚園ぐらいの子供でしょうか、バスの中で退屈だったのでしょう。動いたり騒いだりして、お母さんも子供を持て余しぎみです。ついにお母さんは子供を叱りつけてこう言いました。「運転手さんに怒られるわよ!」。するとバスの運転手はワンマンバスのマイクを通して、「おかあさん私は怒りませんよ…」と答えて、バス中が大笑いになったと言うお話です。でも本当を言えば笑える話ではありません。実際に子供に腹を立てているのは自分なのにこの母親はその責任を運転手に負わせようとしたらです。
 運転手と母親の問題ならともかく、私たちは神様と自分との関係の中でいつも同様の過ちを犯しがちではないでしょう。つまり身勝手な自分の気持ちを、いつの間にか神様の気持ちとすり替えてしまうのです。私たちの描く神様の姿はそのまま私たち自身の姿が元になっていますから、身勝手の上に、あいまいで、不安定な存在が神様になってしまっているのです。
 自分のお気に入りをどこまでも贔屓するが、ひとたびその人が自分の意に沿わないと分かれば切り捨てしまう。そんな私たちが営んでいる人間関係が、そのまま私たちと神様との関係に反映されてしまうのです。ギリシャ神話の神々が自分勝手で傲慢な人間と同じことをするのは、その神話が人間の想像の産物であることを物語っているのです。また、昔ファエルバッハと言う哲学者は人間の考え出した理想的な人間の姿が集められた究極の姿が神であると言って、宗教を批判しました。しかし、彼が批判したのも本当の神ではなく人間の姿を元に作られた偽物の神にすぎませんでした。
 聖書は本当の神はどんなに私たち人間が想像を働かせて見ても理解できないもの、人間とは全く違う存在こそが真の神であることを教えています。ですから、私たちが神を知るためには、神ご自身がご自分を自己紹介してくださらなければ不可能なのです。

(2)イエスを通して神を知る

 「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」(19節)。
 神であるイエス・キリストが私たち人間の姿を取られた第一の理由は、私たち人間には理解できない真の神を私たちにはっきりと示してくださるためでした。ですから、私たちはいつも神様を自分の想像ではなく、このイエス・キリストを通して知る必要があるのです。
 たとえばこのお話のきっかけとなるベトサダの池の奇跡の物語を思い出してみましょう。ここにもまた人間の想像を遙かに超えた神の御業があらわされていることが分かります。このベトサダの池のほとりにはイエスに癒された人だけではなくたくさんの人々が病を持って集まっていました。それなのにどうしてこの一人の人だけがイエスの御業によって癒しを受けることができたのでしょうか。彼は何か特別な行為をしてイエスの関心を自分に集めようとしたのでしょうか。そうではありません。彼はその池に集まる人と全く同じ人間であり、特別に自分に神様の関心を向けさせるようなものを何一つ持っていませんでした。むしろ、彼は長い病気の苦しみの中で自分が癒される希望をも失っていた、無気力な人間でしかなかったのです。その人が特別にイエスの癒しを受けたと言う奇跡は、神様の救いの御業には私たち人間の側の条件が何も必要がないことを物語っています。神様が救おうと決意されれば、たとえその人が人間の目から見て悪人であっても、善人であっても救い出すことができるのです。私たちはいつも自分の持っている条件次第で、神様の自分に対する関心が変わってしまうかのような誤解をしています。そのような人はいつかは神様の関心が自分から去ってしまうのではないかと恐れて生きています。ですからそのような人の信仰生活から神様への感謝は少しも出てこないのです。私たちがイエス・キリストを通して真の神を知るのではなく、自分の想像によって作り出された神を礼拝している限り、その人には真の救いの喜びも、感謝も現われないのです。しかし、キリストを通して自分が無条件で救われた人の心には神様に対する喜びと感謝が豊かに現われるのです。

(3)イエスを信じることができる奇跡

 さらにイエスはここで次のように語っています。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」(24節)。

 神であるイエス・キリストが人間となってくださったために、私たちがあずかることのできる第二の恵みは、私たちがキリストによって神に裁かれることなく、いますでに死から命へと移されていることを確信することができることです。イエスは父なる神からこの世を裁く権能を与えられました(26〜27節)。それゆえにイエス・キリストだけがこの神の裁きから私たちを救い出す力を持っておられるのです。そして、イエスはその救いを私たちに実現させるために私たちに信仰を与えてくだったのです。
 聖書の物語を読んで、そこに登場する数々の驚くべき神の奇跡を知る私たちは、ときどき、「どうしてこのような奇跡が私の人生にも起こらないのか」と疑問に思うことがあります。しかし、事実はそうではありません。私たちはこの聖書の物語に登場する奇跡と同じような奇跡をすでに今体験しているのです。それは私たちがイエスを信じることができていると言う奇跡です。

「はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」(25節)。

 聖書によれば私たちはすでに皆、霊的に死んだ者達であったと言われています。死んだ者に何を話しかけても、答えることはできません。それと同じように私たちはかつて神様の声を聞くことも、答えることもできなかった霊的に死んだ人間だったのです。しかし、その私たちに今、聖書の言葉が与えられ、その聖書が指し示すイエス・キリストに希望をおいて生きることができるようにされているのはどうしてでしょうか。イエスが私たちに聖霊を送ってくださり、私たちの死んだ魂をすでに甦らせてくださったからです。そしてその聖霊の御業をあらわすものが私たちの抱くキリストへの信仰なのです。
 私たちがいくら想像を働かせても、神様の聖なる御心を知ることは不可能です。しかし、神であるイエスが人となられたことを通して、私たちはこの驚くべき奇跡にあずかっているのです。私たちの命はこのイエスによって死から命へと甦っているのです。その神の御業を誰にも分かるようにするものが最後の日の裁きであり、復活の恵みなのです。しかし、今、イエスを信じる私たちはこの最後の日を待たなくても、すでにイエスによって救われていることを確信することができるのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 私たちのために御子イエス・キリストを遣わしてくださったことを感謝します。かつて私たちは霊的に死んでいて、あなたのことを知ることも信じることも出来なかった者たちです。あなたはそんな私たちに御子を遣わしてくださることで、あなたの救いの確かさと永遠の命の希望を与えてくださいました。私たちが自分勝手に考えるのではなく、いつも聖書に示されたイエス・キリストのみ業とその教えから神様を理解することができるようにしてください。私たちに聖霊を送って私たちの命を甦らせ、信仰を与えてくださったことを感謝します。すでに始められたこの救いの恵みを覚え、それが完全な形で成就する最後の日、復活の日を私たちが希望を持って待つことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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