1.ヨハネ福音書の編集意図
(1)三つの福音書の記述を前提としたヨハネ
先日もお話しましたように、このヨハネによる福音書は他のマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書と大きく違った特徴を持った書物と考えることができます。その一つは既にお話ししましたように、この福音書を読む読者がイエスの活動されたユダヤの文化や宗教にあまり詳しくはないギリシャ系の人々であることを想定して書かれていると言うことです。そこでヨハネはユダヤの当時の事情を熟知しない読者のために特別に解説を加える必要があったのです。
しかし、ヨハネがこの福音書に書き加えて解説を理解するためにはもう一つ重要な背景があると考えることができるのです。それはこの福音書を記したヨハネも、またこの福音書を読んでいる読者たちもすでに先に書かれていたマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書を読んでいて、その内容を知っていたと言う事実です。このことを踏まえるならば、どうしてこの三つの福音書とヨハネの福音書の内容がたいへんに異なってくるのかその理由を理解することができるのです。
簡単に言えば、ヨハネは既に三つの福音書で十分に取り上げられていると考えることができる出来事やお話をこの福音書では大幅に省略してしまっているのです。そして、それとはむしろ反対に、ヨハネは他の福音書が漏らしてしまった出来事やお話を付け加えようとしたのです。また、それと共に他の福音書が取り上げている出来事に関しても説明が不十分であると考える内容については、大変丁寧な解説を付け加えているのです。そう考えてみるとこのヨハネによる福音書は既にマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書を読んでいる人たち向けられた上級者向けの福音書と言ってもいいのかもしれません。
(2)イエスの業を理解できない人々
今日のテキストに選ばれているこのヨハネによる福音書6章の前半には五千人の人に食事を分け与えたイエスの奇跡(1〜15節)が記されています。そしてこの出来事は同じように他の三つの福音書にも記されているのです(マタイ14章13〜21節、マルコ6章30〜44節、ルカ9章10〜17節)。ところがこのヨハネによる福音書はこの出来事の報告だけで終わってはいません。続けてこの出来事が示す意味を教えるイエスの説教をこの6章の後半の部分で取り上げているのです。ヨハネはこの後半のイエスの説教の中でこの五千人給食の奇跡は、この奇跡を行った方こそ「命のパン」(48節)といて地上に来られた救い主であり、その方を信じる者こそ「永遠に生きる」(51節)こと、つまり永遠の命をいただくことができると記すのです。
ヨハネは前半のイエスの奇跡を報告する部分でも他の福音書では記されていないことを報告しています。それはイエスによって食物を与えられて満腹した人々がイエスを自分たちの王としようとしたと言うお話です。つまり、この奇跡を体験した人々はその奇跡が示す本当の意味を理解できずに、イエスを自分の都合のいいように利用しようとしていたと言う背景が語られているのです。イエスが自分たちの指導者になってくれれば、困ったときには魔法のように食べ物を出してくれる、そうすれば自分たちは飢えから永久に解放されることができると考えたのです。後半でのイエスの説教はこのような人々に向けた語られたこと、さらにだから彼らはイエスのこの説教を理解することができなかったのだと言うことがこの記述から分かるのです。
そして自分の行った業が人々に誤解され、誤った期待をかけられていることを知ったイエスは一人で山に退かれてしまいます(15節)。今日の物語はイエスが山に退かれた後に弟子たちの身の上に起こった出来事が語られています。
2.ヨハネはなぜこの出来事を取り上げたのか
ここではイエスの不在のままに、弟子たちだけがガリラヤ湖で船に乗り、対岸のカファルナウムを目指した出来事が記されています。実はこの出来事も五千人給食の奇跡の後に起こったものとしてマタイとマルコの福音書が同様に報告しています(マタイ14章22〜27節、マルコ6章45〜52節)。ただ、ルカの福音書にはこの物語が記されていません。ここで問題となるのはヨハネがどうしてこの出来事をここで取り上げたのかと言うことです。確かにその根拠は歴史的事実としてこの出来事が五千人給食の後、すぐに起こったと言うことがその最大の理由となるでしょう。しかし、最初からお話ししていますように、福音記者ヨハネは他の福音書記者が報告した出来事を大幅に省略してしまうことがあるのです。それなのにどうしてルカでさえ省略してしまったこの物語をヨハネは自分の福音書に残すことにしたのでしょうか。
この6章は先ほども取り上げましたように、五千人給食の奇跡が最初に記されています。そして後半にはこの奇跡の意味を教えるイエスの説教が続けて取り上げられているのです。そのちょうど中間に今日のガリラヤ湖での出来事が収録されていることになります。つまり、文章の構成上から考えてみれば、この部分を割愛したほうが、この6章全体のまとまりがよくなり、イエスが命のパンであると言うメッセージが鮮明になるはずです。ところがヨハネはこの出来事を割愛しないで、そのまま残しているのです。つまり、そう考えるとこの出来事は一見、イエスが命のパンであると言うメッセージに関係ないように思えるのですがそうではなく、このガリラヤ湖の出来事もまた同じメッセージを教えるために取り上げられていると考えたほうがいいのです。逆に言えばイエスのメッセージを伝えるためには、この物語はヨハネにとって省くことのできないものであったと言えるのです。
3.湖の奇跡についてのヨハネの記述の特徴
(1)イエスはいなかった
そのようは理由を踏まえながら今日の箇所を読んで見ると、ヨハネはやはりこのガリラヤ湖の出来事を彼なりの視点から描いていることがわかります。
第一にヨハネはどうして弟子たちだけがイエスを置いて舟に乗ったのか、その理由を書いていません。他の福音書を読むと弟子たちがこのときに舟に乗った訳はイエスの命令に従ったためであり、そこにはイエスの強い意図があったことが記されています(マタイ14章22節)。そしてイエスは弟子たちを舟に乗せた後も群衆を解散させるために時間をかけていたことがマタイの福音書には記されています。ところがヨハネではそのイエスの意図も、イエスのこのとき何をしていたのかも説明していません。ただイエスは別のところにおられたこと、つまりイエスがこの舟におられなかったことだけを記しているのです(17節)。
(2)イエスを恐れた弟子たち
やがて彼らの乗った舟は湖の上で強い風によって行く手を拒まれてしまいます。そして、そこにイエスが湖の上を歩いて来られたと言うのです。このイエスの姿を見て弟子たちは「恐れます」。二つの福音書ではこの弟子たちの恐れ理由を弟子たちがイエスを「幽霊だ」と勘違いしたことにあったと伝えています。また、マタイはこの出来事に付け加えて弟子のペトロがイエスに湖の上を自分も歩かせてほしいと願ったことまで記されています。ところがこのヨハネにはそのお話は陰も形も残されていません。
このヨハネの記述に従えば、弟子たちがイエスなしで湖にこぎ出し、強い風に悩まされて湖の上で立ち往生してしまったこと、そこにイエスが近づいて来ても彼らは混乱するばかりで、返って恐れに支配されてしまったことだけが取り上げられているのです。
そしてこの物語の転換点となるのはイエスの「わたしだ。恐れることはない」と言う御声を弟子たちが耳にすることから始まります。混乱する弟子たちはこのイエスの御声を聞くことにより、その混乱から解放されることができたのです。
4.イエスを迎え入れようとするだけでよい
ところで、この最後の部分でもヨハネの福音書の特徴が示されています。この福音書は最後のところでイエスの声を聞いた弟子たちが「イエスを舟に迎え入れようとした」とだけ記しています。しかし、その後イエスが実際に舟に乗り込んだかのか、そうでなかったのかと言うことには一切関心を示していません。他の福音書では確かにイエスが舟に乗り込むことによって、湖の嵐が一瞬で収まってしまったことが語られています。このヨハネでは嵐が収まったのか、そのままだったのかさえ語られていないのです。ヨハネはただ弟子たちがイエスを舟に迎え入れようとしたこと、そうすると間もなく、舟は無事に目的地に着いたと言うことだけを伝えているのです。
ここには私たちの信仰にとって重要なことが二つ語られていると考えることができます。一つは神が私たち求められていることは「救い主イエスを信じて、彼を私たちの人生に受け入れること」にあると言うことです。
私たちは信仰を持つと自分はどうなるのかと言うことにだけ関心を注ぐ傾向があります。確かに、私たちが主に喜ばれる生活をしたいと言う願いを持つことは大切なことです。しかし自分の人生がどのように変化したのかと言うことにだけに関心の中心を置くことは非常に危険なことだと言えるのです。私たちは信仰生活を送ることによって確かに私たちの今までの生活では体験したことのない喜び、平安を受けることができます。しかし、私たちは自分の人生に起こる様々な出来事によって、ときにはこの喜びも平安も感じられなくなるときがあるのです。こんなとき信仰について誤解している人は、あたかも自分がイエスの救いから漏れてしまったかのように不安に感じてしまうことがあります。しかし、私の上に起こった変化は決して私たちの信仰生活の中心ではありません。むしろ、イエスだけが私たちを確かな目的地に導くことができる方であることを私たちは覚える必要があるのです。
このことについてヨハネの記述が湖の嵐が収まったかどうかに全く関心がないと点を私たちは忘れてはいけないと思います。イエスを迎え入れた者たちにとって湖の嵐が続いていても、また収まっていてもそれは全く関係がないのです。ただ私たちが主イエスを自分の人生にお迎えする決断をするなら、イエスは私たちを必ず目的地まで導いてくださるのです。
五千人給食の奇跡の箇所でイエスの周りに集まった人々もまた、聖書に約束されていた救い主が現れることを待ち望んでいた人々であったと考えられます。しかし、彼らは救い主が現れれば、まずその方は自分たちを飢えから解放してくださるはずだとか、ローマ帝国の支配から解放してくださるはずだと言うような期待を持っていました。そして彼らはイエスが自分たちの期待を満たしてくれるかどうかにだけ関心を置いしまったために、イエスを受け入れることができなくなってしまったのです。
イエスを信じれば、まず自分たちの遭遇している嵐は収まるに違いない、自分が今、出会っている人生の問題をまず解決してくれるはずだと言うような期待からだけイエスを見るなら、私たちは結局、イエスは自分の期待には応えてくださらない方だと失望することになってしまいかねないのです。しかし、主は私たちを必ず目的地に導いて下さる方なのです。嵐が収まろうが、そうでなかろうが関係なく、この方が一度私たちの人生に介入してくださるなら、私たちは神様の救いを受けることができ、永遠の命をいただくことができるのです。
ヨハネの福音書はこのような意味で、神が私たちに要求されているのはこの救い主イエス・キリストを受け入れること、また、その御声に耳を傾け続けることだと教えているのです。そうすれば、イエスは私たちを必ず目的地に、神様が準備してくださるも永遠の命の祝福の中へと導いてくださるのです。
【祈祷】
天の父なる神様
私たちは問題に出会うと、それが解決されない限り自分はだめだと思ってしまう愚かで弱いものたちです。しかし、イエスは私たちを必ず救いの目的地へと導いてくださる方であることを信じます。私たちがあなたのみ力を信じて、信仰の舟に乗ることができるようにしてください。いつも聖書のみ言葉に耳を傾け、「わたしだ。恐れることはない」と語りかけてくださる声を聞き逃すことがないようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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