Message2006 Message2005 Message2004 Message2003
礼拝説教 桜井良一牧師
命の糧

(2008.7.13)

聖書箇所:ヨハネによる福音書6章22〜27節

22 その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。
23 ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。
24 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。
25 そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。
26 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。
27 朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」

1.イエスの与える命
(1)命のパン

 今日もヨハネによる福音書の6章を続けて学びます。前回にもお話しますように、この6章はイエスの「五つのパンと二匹の魚による奇跡」から始まって、ガリラヤ湖での奇跡が続き、そしてその後にはイエスの語られた説教を通してイエスが神から私たちに永遠の命を与えるために遣わされた救い主であること、つまりイエスは私たちにとって「命のパン」であることが教えられています。
 私たち人間は生命を維持するためには必ず食物を得なければなりません。ですから私たちはその食物を得るために毎日一生懸命に働いていているのです。私たちにとって食物を得られるかどうかは非常に重要な問題となるのです。なぜなら食物が手に入らなければ、私たちは飢えて死ななければならないからです。現代では世界的な食糧不足が深刻な問題となっています。実際に世界の国々の中では今、食料を得られずに餓死する人たちも存在しているのです。聖書は人間に食物が必要であることを決して無視してはいません。主の祈りの中にも「わたしたちの日用の糧を今日も与えてください」とあるように、信仰者にとってもこの問題が重要であるからこそ、この大切な祈りの課題の一つとして取り上げられているのです。
 しかし、聖書は一方では人間には食物が必要であることを認めつつも、人間に必要なものはそれだけではないことを教えています。そしてイエス・キリストはその私たちに日ごとの食物以上に大切なものを与えるために来られたことを紹介しているのです。イエスがこのヨハネの福音書で自らを「命のパン」と紹介された訳はそこにあります。
 ところがこの箇所に登場する群衆たちはせっかくのこのイエスに出会いながらも、イエスを誤解してしまっています。なぜなら彼らはイエスに「命のパン」を求めたのではなく、地上の食物、日用の糧を求めることしかしなかったからです。

(2)本当の命の価値とは

 先日、私は大変おもしろい日本映画を見ました。将来を嘱望されている優秀な女性医師が毎日の激務の中で生きる気力を失ってしまいます。心身ともに疲れ切った彼女は働いていた病院を辞めて、小説家の夫のふるさとである小さな農村に夫婦でやって来て、そこでの生活を始めます。映画はその農村で出会う人々や大自然の中で彼女の心が少しずつ癒されていく過程を描いています。その映画の中で主人公である婦人医師が、一人の青年医師に語った言葉が私の心に残りました。彼女は、「自分は今、心を病んでこの土地にやってきたのだ」と語ります。するとその青年医師は「先生は全く健康です」と答えるのです。そこで彼女は「人間って体に疾患を持っていても、心は全く健康な人がいるのではないか。私はそんな人に今出会っている」と語ります。ここで彼女が思い浮かべているのはこの映画に登場する小説家の夫の恩師の姿です。その恩師は自分が末期の胃がんで余命あとわずかであることを知りながら、一切の延命処置を拒み、残された命の日々を他の誰にも依存することなく、自分の決断を持って生きていくのです。
 この映画の後半部分でこの恩師が息を引き取る場面が登場します。慣れ親しんだ自分の家の日本間に布団を引いて恩師は床についています。夕日の差し込む静かな空間に、その恩師の床をたくさんの村人が取り囲んで座っています。その中でこの恩師は静かに息を引き取っていきます。その死を見届けた主人公の女性医師は「先生は自分から呼吸を止められたような気がした」と語ります。きっとその言葉は「先生は最後まで自分で自分の人生を生き切ったような気がする」と言う意味を込めた言葉なのではないかと私は思いました。
 この映画は終始、静かな沈黙が支配しながら、人間の生と死を描きだそうとしています。私はこの映画を見ながら、私たちは毎日の忙しさの中で本当の人間の命の価値、その素晴らしさを見失っているのかもしれないなと感じさせられました。
 イエスの周りに集まる人も、確かに食物を得ることは重要な問題であったのですが、その問題にのみ自分たちの心を傾けるだけで、本当の命の価値を見失いかけていたのではないでしょうか。イエスはその人々に神様が私たち人間に与えてくださった本当の命の価値を教え、それを回復してくださるために来られたのです。

2.イエスを見失う人々
(1)どうしてこんなところにいるのか

 ところが五つのパンと二匹の魚から自分たちの飢えを癒された群衆は、イエスを自分たちの王としようとします。そこでイエスは自分に対する群衆の誤った期待を知って、一人山に退かれてしまったのです(15節)。この後、先日学びましたガリラヤ湖上での出来事が起こります(16〜21節)。そしてこの時点ではイエスも弟子たちも皆、すでに対岸のカファルナウムに渡りきっていました。しかし群衆はまだそのことを全く知りません。ですから彼らは「イエスはいったいどこに行ってしまったのだろうか」と、あちらこちら探し回ったのです。ところがいくら捜してもイエスの姿はどこにありません。そこで彼らは舟に乗って対岸のカファルナウムに向かい、やっとイエスと再会することができたのです(22〜24節)。そこで彼らは「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」とイエスに語りかけたのです(25節)。

 この群衆の言葉をある説教者はこのように読み替えています。「先生、どうしてこんなところにいるのですか。ここは先生のいるべきところではありません」。つまり、群衆はイエスが自分たちの期待に応えて行動すべきだと考えており、その期待に応えないイエスを「どうして全く関係のない行動を勝手にしているのか」と責めていると言うのです。群衆はイエスを自分たちの期待の中だけに閉じ込めようとしていたと言うことになるわけです。

(2)自分が抱いているイメージに固執する

 ある人が外出先で昔の知り合いに偶然に出会いました。自分に気づかないで、そのまま通り過ぎようとしているその知り合いに彼は思い切って声をかけました。「おい、久しぶりだな。元気かい」。しかし、その知り合いは、呼びかけた声の主を思い出せないようです。そこで続けて彼はこのように語り続けます。「本当に久しぶりだな。十年ぶりくらいかな…」。そう語り続けてもやはり相手はこちらのことを思い出せないようで、首を傾けています。それでもかまわず、彼はその知り合いに向かって話し続けました。「しばらく会わない内に何かだいぶやせちゃったみたいだね。何か悪い病気でもしたの…。そう言えば顔まで別人のように変わっちゃったみたいだけれど。田中君」。するとその人は小さくこう答えました。「あの、ぼく鈴木なんですけれど」。ところがそんな答えにはお構いなく、彼はこう続けます。「おい、田中。お前、名前まで変えちゃったのか」…。
 このとき群衆が抱いていた救い主のイメージは真実のイエス・キリストのイメージとは全く違ったものでした。それはイエス・キリストとは違った全く別人の姿を、イエスに求めようとする愚かな行為でした。その自分たちの期待を通してだけイエスを捜そうとした彼らはイエス・キリストを見つけ出すことができなかったのです。やっとガリラヤ湖の対岸のカファルナウムでイエスと再会したときも、彼らは自分の持っている救い主に対するイメージを堅く守り続けて、本当のイエス・キリストを理解することができませんでした。これではせっかく、すばらしいイエスの奇跡を体験していても、何にもなりません。この問題は実は聖書を読む現代人にも共通するものだと思います。多くの人々がイエス・キリストを信じることができない大きな理由は、聖書に書かれている奇跡を同じように体験できないからではありません。むしろ、彼らは救い主や神に対して勝手なイメージを想像し、それに固執してしまうのです。だから本当のイエスに出会うことも、そして彼を理解することもできなくなってしまうのです

3.イエスに導く「しるし」
(1)しるし」は何を示すのか

 そんな群衆の心理を知っているからこそ、イエスは次のように彼らに語られました。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(26節)。

 空腹のままで買い物に出ると、目的以外の余計なものまで買い込んでしまうことがあるので、買い物に行くときには何かでまず空腹を満たしてからお店に出かけた方がよいと、買い物上手の人に教えられることがあります。しかし、ここに登場する群衆は全くその逆の過ちを犯してしまっていたようです。イエスの奇跡を体験した群衆は、そこでお腹が満腹になることだけで満足してしまって、イエスが本当に彼らに与えようとしているものに関心を示していないのです。
 しかし、イエスが行われた奇跡は群衆を満腹させるためにものではなく、「しるし」として行われたものなのです。この「しるし」を体験する者は本当だったら、パンや魚に満足してしまうのではなく、もっと素晴らしいものを携えてイエスが天から地上に来られたことが分かるはずでした。しかし、彼らは「しるし」を見ないで、満腹することだけに満足してしまったと言うのです。
 「しるし」は何かを示すために与えられます。そしてこの「しるし」は神が私たちに人間に与えて下さったイエス・キリストを指し示しています。このイエスは私たち人間が素晴らしい命を受けるために来られた方であることを表わしているのです。私たち人間が罪によって失ってしまった、本当の命の価値を私たちに取り戻すためにイエスはこの地上に来てくださったのです。
 「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(27節)。イエスのこの言葉は群衆がすぐになくなってしまう朽ちる食べ物で満腹してしまうのではなく、本当に大切な永遠の命に気づき、それを求めるようにと促しているのです。私たちには毎日の食物以上にもっと大切なものがあるのです。ですからこの命に早く気づき、それを求めなさいとイエスはここで教えているのです。
 「これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである」(27節)。その食べ物はイエスだけが与えることができるものです。なぜなら天の父なる神様がこのイエスにだけその命を与える権利を委ねられたからなのです。ここで「認証された」と言うとてもおもしろい言葉がここに使われています。銀行で機械にキャッシュカードを入れると、「パスワード」、つまり認証作業を求めてきます。その上で初めて私たちは現金を手に入れることができるのです。この命もイエス・キリストと言う方を通して以外、私たちは手に入れることができません。しかし、イエスはその命を豊かに与えるために私たちのところにやって来てくださった救い主なのです。

(2)私たちに与えられたしるし

 ところで、五つのパンと二匹の魚から自分たちの飢えを満たされた人々とは違って、このような「しるし」を体験できない私たちはどうしたらよいのでしょうか。どうしたら、私たちはこの「しるし」が指し示す命のパンであるイエス・キリストと巡り会い、また彼から永遠の命をいただくことができるのでしょうか。実は私たちにとって「しるし」の役目を果たすものが聖書であると言うことができます。イエスが活動された時代にはまだ、私たちが手にしているような新約聖書はありませんでした。ですから、神様は特別な奇跡を持って人々をイエスに導く「しるし」をなされたのです。しかし、新約聖書が完成された以後は、誰もがこの聖書を通してイエス・キリストに導かれることができるようになりました。そのような意味で、この聖書は私たちに与えられた神様の「しるし」と呼ぶことができるのです。私たちはこの聖書を通してイエスと出会い、イエスから永遠の命をいただいて生きていることができるのです。
 聖書はいつも私たちをイエス・キリストへ導く役目を果たす「しるし」です。もし、聖書を一生懸命研究して、いろいろな知恵や知識をそこから手に入れたとしても、その人がイエス・キリストに出会い、彼を信じて、永遠の命をいただくことがなければ聖書は「しるし」とはなりません。それではパンを食べて満足してしまった群衆と全く同じ過ちを犯すことになります。だからこそ、私たちが毎日、聖書を読む姿勢はとても大切だと言えるのです。聖書を私たちに与えられた神様の「しるし」として読み続ける人は、自分が永遠の命の中に生かされていることを日々確信することができるのです。
 そうすれば、いつかはなくなってしまう地上の命ではなく、もっと素晴らしい命が私たちに与えられていることを喜びながら毎日を送ることができるのです。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」と言うイエスの言葉は、私たちが日々聖書のみ言葉に耳を傾け、その聖書が指し示すイエス・キリストを信じ続けることを求める言葉ともなっているのです。

【祈祷】
天の父なる神様 
あなたは私たちに豊かな日ごとの糧を与えてくださいます。その上で、さらに私たちのためにイエス・キリストを遣わしてくださり、永遠の命を与えてくださる幸いを感謝します。どうか私たちが「しるし」として与えられている聖書を通して、いつも救い主イエス・キリストを見いだすことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

このページのトップに戻る