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礼拝説教 桜井良一牧師
信仰による勝利

(2008.7.27)

聖書箇所:ヨハネによる福音書7章1〜17節

1 その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。
2 ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。
3 イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。4 公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」
5 兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。
6 そこで、イエスは言われた。「わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたの時はいつも備えられている。
7 世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。
8 あなたがたは祭りに上って行くがよい。わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである。」
9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。
10 しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。
11 祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた。
12 群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。
13 しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。
14 祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。
15 ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、
16 イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。17 この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。

1.仮庵の祭り
(1)イエスの置かれた状況

 今日の箇所は大きく分けて二つの部分に分かれています。最初はガリラヤでのイエスとその兄弟とやりとり、さらに後半部ではエルサレムにおけるイエスと群衆、あるいはユダヤ人との関係が記されています。つながりからいえば前半部のイエスと兄弟たちとのやりとりは後半部に登場するイエスのエルサレム行きの真実の動機を明らかにする役目を果たしていると考えることができます。
 今日の聖書の箇所の最初の部分ではまずイエスはガリラヤを巡って活動し、ユダヤに行くことを避けたこと、そしてその理由はユダヤ人たちがイエスを殺害しようと狙っていたからだと説明しています。この同じヨハネによる福音書の5章ではエルサレムにあったベトサダの池と言うところでイエスが一人の病人を癒された出来事が記されています。そしてこの出来事が安息日に行われたために、安息日の理解にまつわるイエスとユダヤ人との論争が始まり。この論争の中で両者の対立は極みに達し18節では、「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである」とその事情が語られています。
 次の6章に入ると物語の舞台はガリラヤに移っていますが、ここでもイエスがご自身のことを「命のパン」であると紹介したところから、多くの弟子たちがその内容を誤解してしまいます。その結果66節にあるように「このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」と言う出来事が起こっています。
 ユダヤの地ではイエスを殺害しようとするユダヤ人たちが待っており、また、ガリラヤでも多くの弟子たちがイエスを誤解してその大半が離反してしまうと言う出来事が起こりました。つまり、イエスがこのとき立たされていた状況はきわめて悪いものであったことが分かります。おそらくこの状態を打開する狙いがあって次に記されているイエスの兄弟たちの助言は生まれたと考えることができるのです。

(2)神の守りと先祖の不信仰

 ところで聖書はこの物語がユダヤの祭りの一つである仮庵祭が近づいたときに起こったと説明しています。日本でも様々な祭りがありますが、ユダヤ人にとっての祭りは特別な役割をもっています。それはこれらの祭りを通して神様に導かれた先祖たちの体験を追体験すると言う意味があったからです。この仮庵祭もその一つで、この祭りは毎年秋に行われたためにその年の収穫を感謝する収穫感謝祭と言う意味を持っていました。しかし、それだけではなくこの「仮庵祭」と言う特別な名前が示すように、この時期ユダヤ人たちは家々の傍らに粗末な仮小屋を作り、そこでしばらくの間、生活をする習慣がありました(レビ記23章42〜43節)。それは彼らの先祖たちがかつて荒れ野を40年間さまよい歩き、粗末な仮小屋住まいを続けたことを追憶するためでした。かつては収穫物とは全く縁のなかった自分たちに今は約束の地が与えられ、神の祝福を受けていることができたことを感謝する意味合いがこの祭りにはあったのです。
 ところで旧約聖書に慣れ親しんでいる皆さんならすぐわかると思いますが、本来イスラエルの民は約束の地にたどり着くまで40年の長い祭月を費やす必要はなかったのです。彼らの40年の放浪生活には大きな原因がありました。民数記13章を読めばその事情が記されています。カナンの地にモーセが遣わした12人の斥候(スパイ)が帰って来て、その地の報告をしたさいに、カナンの地は大変豊かな土地であることに間違いはないが、そこには自分たちではとても歯が立たない強力な先住民が住んでおり、戦っても勝てないから、そこに入るのは無駄だと10人の斥候が報告しました。ただヨシュアとカレバと言う二人の斥候は神様が自分たちと共にいてくださるから大丈夫だと語りましたが、イスラエルの民は先の10人の情報と判断を信じて、ヨシュアとカレブの二人の意見を退けてカナン進入を断念してしまったのです。このために結局は40年間彼らは荒れ野を放浪することになったのです。つまり、イスラエルの民は神様の約束に基づいて判断したヨシュアとカレブの助言を受け入れず、自分たちの経験や知識を優先して判断した10人の情報を選んでしまったのです。このため彼らはカナン侵入の「機を逸してしまった」といえるのです。
 実は今日の場所でもイエスのエルサレム行きについての判断がイエスの兄弟とイエスの間で対立しています。それではこの二つの判断の根本的な違いはどこから生まれてきたと言えるのでしょうか。

2.兄弟の不信仰
(1)兄弟の提案

 イエスの兄弟たちはここでイエスに次のような提案をしています。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい」(3〜4節)。
 仮庵祭には全国からたくさんの人々がエルサレムに集まります。おそらくそこにはつい先日、イエスの元を離れて行ったしまったかつての弟子たちもやって来るはずです。兄弟たちの提案は、そこでイエスがガリラヤでしたような驚くべき業の数々を示せば、かつての弟子たちだけではなく、たくさんの人々の支持をイエスは集めることができると考えたのです。その人々の支持があれば、彼に対して敵意を表しているユダヤ人の宗教指導者たちも簡単には手を出せなくなるはずです。つまり、エルサレムに行けばイエスは立ち去って行った弟子たちを取り戻すことができる上、ユダヤ人たちが何も手を出せないほどの強力な力を受ける、一石二鳥の解決策を見いだすことができると言うのです。
 聖書はこの兄弟たちについて「イエスを信じていなかったのである」とその助言の理由を語っています。彼らがイエスを信じ、彼を信頼しているなら、イエスに何も言う必要がなかったはずです。しかし彼らがここで口を挟むことになったのは、「イエス兄さんのことが心配で、信頼できない」と言う彼らの気持ちが隠されていたのです。

(2)イエスの行動の動機

 しかし、イエスはここで「わたしの時はまだ来ていない」と言う言葉で兄弟たちの助言をきっぱりと拒絶されています。「わたしの時はまだ来ていない」、イエスはこの言葉を用いて自分の行動が何によって決まっているのかを語っていると言っていいでしょう。イエスは自分をこの地上に遣わされた父なる神の計画に従って地上の生涯を歩まれたのです。人の行動は様々な要因によって裏付けられています。しかし、イエスの行動のすべてはこの父なる神の御心が実現するためにあったことが「わたしの時はまだ来ていない」と言う言葉で表現されているのです。
 一方の兄弟たちの提案はむしろイエスが人々の好意を受けて、指示されるためにはどうしたらよいのか。そのことに大きな目的がおかれていました。だからこそイエスは「そのために自分はエルサレムに向かう意志はない」と言うことをここで明確にされたのです。
 「世はあなたがたを憎むことができないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ」(7節)。確かに世の人々に気に入られる言動を考えながら行動するなら、その人は世には憎まれることがありません。しかし、イエスの行動はそのような動機付けで行われているのではなく、むしろ父なる神の御心に従うことに置かれていました。聖書はですから、イエスの行動の意図が明らかになればなるほど、かえって人々の敵意を受けていったことを記しています。エルサレム行きへの兄弟たちとイエスの異なった判断には手段や方法の違いと言うより、根本的な動機が全く違うと言うことが原因となっているのです。

3.群衆の無理解とユダヤ人の敵意
(1)群衆とユダヤ人の反応

 ところでイエスは「しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた」(10節)と語られています。イエスはどうして兄弟たちのエルサレム行きの助言を退けたのに、後でこっそりとエルサレムに向かわれたのでしょうか。これは決してイエスの心変わりを示すのではなく、イエスのエルサレム行きには兄弟たちの助言とは違った動機があったことを明らかにしているのです。イエスは人々の好意や支持を取り付けるためにエルサレムに向かわれたのではなく、父なる神の御心にしがたい、救いのみ業を成し遂げるためにエルサレムに向かわれたのです。
 エルサレムの神殿で公然と教えを語るイエスに対して更にここには群衆とユダヤ人たちの反応が記されています。群衆の中にはイエスを「良い人だ」と言う者もいれば、「群衆を惑わしている」と言う人もありました。しかし、彼らはユダヤ人を恐れてイエスについて公然と語る者はいなかったと記されています。現代でも秘密警察の取り締まりが厳しい国では、民衆は公には自分の気持ちを語ることができません。そんなことをすればすぐに投獄されて、自分の身が危うくなってしまうからです。このときエルサレムには厳しい情報統制が行われていたことが分かります。
 しかしその情報統制を行ったユダヤ人の宗教指導者たちもイエスの教えを聞いて、等しく驚きを示しています。それは学問、つまり神の律法について特別に研究したことのない人が語る言葉とは思えない教えがイエスの口から語られていたからです。

(2)御心に従う

 イエスの口から出る言葉と他の宗教家たちの教えとでは根本的に違っています。なぜならイエスと、この教えが出た神との関係はほかの人々とは全く違っていたからです。イエスと父なる神は永遠から父と子としての親密な関係を持っておられるのです。そのため、イエスだけがこの父なる神の御心を完全に世に知ることができ、それを私たちに教えることができるのです。私たちはどうして目に見えない神の御心を知り得るのでしょうか。中には祈っていたら、突然、神のみ答えを聞いたと言う人もいます。しかし、私たちが神の御心を知ることができるのは、このイエス・キリストを通してだけであり、ほかの方法はありません。聖書はこのイエス・キリストを指し示すために書き記されました。だから私たちはこの聖書の中からいつもイエス・キリストの探し出し、そこに示された神様の御心を知る必要があるのです。

 イエスはここでもう一つ大切なことを語っています。神の御心を知ろうとする者は、その御心を行う者である必要があると言うのです。神の御心が次第では従いもするし、そうでない場合もありうると言うのではありません。はじめからその御心がどうであれ従う準備をしている者に神はその御心を豊かに示し、理解させてくださると言うのです。
 人の心は傲慢であり、神の御心に従うよりも、自分の心が実現することを望み、そのために神様は働いてほしいと考えてしまいます。それは時の問題でも同じではないでしょうか。自分の計画通りにことが運んでほしいといつも私たちは考えてしまいます。かつて日本で生まれた新興宗教団体は自分たちが「ハルマゲドン」、つまり世の終末をもたらすのだと考え、そのために様々な破壊活動を行いました。彼らはまさに自分たちの意志を持って神様の時を支配しようとする愚かな人間の姿を象徴しています。しかし、それらすべては愚かな人間の判断に過ぎません。その結末は40年の放浪生活にとどまるどころか、永遠の滅びへと私たちを導くしかないのです。
 かつて、こんなお話があったと言います。アメリカから日本にやってきた一人の宣教師がいました。しかし、彼は彼を知る日本人の間ではあまり評判がよくありませんでした。なぜなら、彼はとても仲間との付き合いが悪いからです。宴会やその他の催しに誘っても「健康によくありませんから」と彼はきっぱりと断ってきます。そこで人々は「彼は自分のことしか考えていない。よっぽど自分が可愛いに違いない」と言う噂が生まれました。しかしやがて、彼の行動の本当の動機を人々がやがて知る機会が与えられました。彼の乗り合わせた青函連絡船が函館港で沈没したさい、彼は自分の身につけていた救命胴衣を「わたしはイエス様を信じているから。代わりにあなたが助かって、イエス様を信じてほしい」と言って近くの青年に譲り、自分は波間に消えていったと言うのです。彼が自分の体を常日頃大切にしていたのは、神様のご用のためにいつでも働けるように備えていたのです。
 私たちは神を信頼し、神の時を待ちます。そして神様のみ心が示されたときに、それがどのような形で実現されたとしても、私たちはその御心に従う準備を整えます。なぜなら、私たちはすでに主イエス・キリストによって、神の御心が私たちを最善へ導くことを知らされているからです。

【祈祷】
天の父なる神様
 神の御心ではなく、いつも自分の思いが優先してしまう私たちです。自分の判断で、自分の知識で物事を勝手に進めてしまって、神の時まで支配しようとする思いを私たちは持っています。主イエスは私たちに神の御心が最善であることを豊かに示し、それに信頼する道こそが大切であることを教えてくださいました。私たちにいつでも、あなたの御心に従う心とその備えをさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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