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礼拝説教 桜井良一牧師
「あなたを罪にさだめない」

(2008.8.10)

聖書箇所:ヨハネによる福音書8章3〜11節

1 イエスはオリーブ山へ行かれた。
2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

1.イエスに向けられた陰謀
(1)書き足された物語

 今日の物語が記されている7章の53節から8章の11節までは私たちがこの礼拝で使っている新共同訳聖書では括弧の中に括られているのが分かります。この括弧の意味はこの物語が本来のヨハネによる福音書には含まれていなかったことを表しています。つまりこの物語は後になって福音書の著者とは違う誰かによってこの箇所に付け足されたことを示しているのです。その証拠にこの部分は古いヨハネによる福音書の写本には存在せず、おそらく今の形のようにヨハネの福音書に収録されるようになったのは早くとも2世紀以後であったろうと考えられています。聖書学者の見解によれば、この物語の文体はヨハネによる福音書の文体とかなり違っていて、むしろルカによる福音書の文体に近いと言われています。おそらく、この物語は独自にイエス・キリストについて伝えられていた伝承を、後の時代の人々がこのヨハネの福音書に書き足したと考えることができるのです。つまり、この物語は本来のヨハネによる福音書には収録されていなかったのですが、そうかと言って全くの架空の物語と言うものではなく、確かに信仰者たちによって伝えられてきたイエス・キリストについての物語を根拠にしていると考えてよいのです。
 おそらく、今日の物語の最後にイエスは「わたしもあなたを罪に定めない」(11節)と言う言葉が登場しますが、この言葉がこの後の15節に記されるイエスの言葉「わたしはだれをも裁かない」と言う言葉と結びつけると分かりやすいと考えた後の聖書の写本家たちによってこの箇所に収録されたのではないかと思われます。
 このような意味で聖書学的にはこの物語は複雑な事情を抱えているのですが、キリストの教会の中ではイエス・キリストの姿を明確に表す物語として、多くの人々に愛されてきたと言えるのではないでしょうか。私は中学生のときに世界の名作と呼ばれる小説を読破しようと考えたことがあります。そのときに手にした本の一冊にロシアの文豪トルストイの作品で「復活」と言う小説がありました。私は結局この小説を読破した記憶はないのですが、確か、この本の一ページに「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言うイエスの言葉が記されていたことをよく覚えています。トルストイのキリスト教信仰は私たちの信仰とはだいぶ違っているのですが、このヨハネによる福音書8章の最初に登場する物語は多くの人の記憶に焼き付くような、強い衝撃をもたらして来たのです。

(2)姦淫の場で捕らえられた婦人

 ここに登場するのはまず貫通の現場で捕らえられた一人の婦人です。この婦人を連れてきた律法学者たちやファリサイ派の人々の発言によれば、彼女は貫通の現場で捕らえられた、つまり現行犯逮捕された人であったことが分かります(4節)。つまり、彼女の罪は言い逃れができないほどに誰の目にも明らかなものであったのです。
 姦通の現場、つまり彼女が正式な結婚関係以外で性的な関係を結んだとするならば、この婦人の相手が確かにいたことになります。ところが、この事件で捕らえられたのは彼女一人で、相手の男性は影も形もありません。ある説教者によればこの事件は彼女の夫が仕組んだ罠ではなかったかと説明しています。誰かがあらかじめ二人の行動を事前に他の誰かに知らせていなければ、おいそれと貫通の現場を現行犯で取り押さえることは不可能であったと考えられるからです。つまり、この事件は彼女の夫が自分の妻を罠にかけるためにわざわざ他の男性を雇い入れて起こした事件で、だから相手の男性はその夫の手引きによってその現場から逃げることができたと言うのです。こうなると推理小説を読むような感じになりますが、この女性がただ一人で罪を裁かれていると言う姿には、私たち読者に対する聖書の強いアピールを示すものとも考えることができます。それは私たちが神様の前に立って、自らが犯した罪を裁かれるときには誰もただ一人で立たなければならないと言う事実を教えているからです。
 「私が罪を犯したのは、私ではなくてあの人がそうせよと言ったから」。私たち人間は最初の人アダムとエバが罪を犯したときからこのような言い逃れを繰り返しています(創世記3章12節)。しかし、神様の正しい裁きの前にはこのような言い逃れは全く通用しないのです。私たちは自分が犯した罪に対してその罪の責任を自分でとらなければなりません。この婦人の場合にはモーセの掟に従って石打の刑、死刑が要求されていました。誰にも言い逃れのできない罪によって、今にも自分の命は取り去れようとしている、この婦人はそのような危機の中に立たされていました。しかし、それはそのまま私たち自身の問題でもあるのです。私たちの犯した罪に対して、聖書は明らかに私たちが死を持って償うことを求めているのです。この厳しい裁きに対して、自分では何もできず、恐れおののいて裁きの座に立たなければならないのが私たちです。この婦人はそのような意味で神様の裁きの前に立たされるすべての人間を象徴する存在として登場しているとも考えてよいのです。

(3)ファリサイ派の人々や律法学者たちの狙い

 貫通の現場で捕らえられた婦人の罪をどう取り扱うべきか。この物語は律法学者たちやファリサイ派の人々がその判断をイエスに求めることから始まります。ところが、聖書を読んでみると律法学者たちやファリサイ派の人々はこの婦人を別の意図を持ってここにつれて来ていたことを明らかにしています。彼らは「イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである」(6節)と言うのです。律法学者たちやファリサイ派の人々の関心はこの婦人、あるいは彼女の犯した罪をどう取り扱うかに向けられているのではなく、イエス自身に向けられていました。すでにこのときイエスと彼らとの関係は深刻な対立の中にあり、彼らはむしろイエスの命を奪いたいと考えていたのです(5章18節参照)。それではこのようなイエス殺害の意図を持つ律法学者たちやファリサイ派の人々が考えた物語の筋書きはどのようなものだったのでしょうか。
 まず、イエスがここで「この婦人の罪を許してあげなさい」と発言すれば彼はモーセの掟に背く偽教師として彼らは訴えることができます。一方、イエスが「この婦人に石を投げて殺しなさい」と命じればどうなるでしょうか。実は当時のユダヤ人には犯罪者に死刑を下す権利が与えられていませんでした。その権利は当時のイスラエルを支配するローマ帝国に属するものだったのです。この後、イエスがローマ総督ピラトの裁判を受けなければならなかったのは、ローマの権威の元でしかイエスを公に死刑にすることができなかったからです。そして、この物語の場合、イエスがもし婦人の死刑を執行するならば、彼をローマの法律を破った者、国家への反逆者として訴えることができるのです。このようにどちらを選んでもイエスにとっては不都合なことが起こる仕掛けなっていました。つまり彼らにとってこの事件はイエスを陥れる格好の材料として用いられているのです。

2.その人の罪を裁くのか、それとも抹殺するのか
(1)人を救うために罪を裁く

 このような策略を知ってか、イエスは自分に向けられた問いかけに沈黙を守られています。「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた」(6節)。イエスが何を地面に記したかは明らかではありません。ただこの態度はイエスが律法学者たちやファリサイ派の人々と同じ次元で議論することを拒否していたことを示す態度であったと考えることができます。なぜなら、ここで問題とされている罪に対する態度はイエスとそのほかの人々の間に決定的な違いがあったからです。
 私たちは神様を通して表された「罪の赦し」をある意味で誤解することがあるのではないでしょうか。私たちの世界では人の犯した罪に対して寛容にならなければならない理由として、まず自分も同じような過ちを犯す可能性があることからだと教えられます。ここでその人を裁いてしまったら、自分もやがては同じような罪で裁かれる可能性が起こります。そこで自分が裁かれることを回避するために相手の罪を問わないと言うことが私たちの人間関係では起こります。つまり、お互いに犯した罪を曖昧にして、ごまかしてしまうと言う方法です。
 しかし、この方法は聖書の語る神様の罪の取り扱い方とは全く異なっています。神様は私たちの罪を曖昧にされることは決してありません。徹底的にその罪を追求して、その罪を見逃されることがないのです。なぜなら、その罪が解決されなければ私たちに命は与えられないからです。聖書が語る罪とは、命の源である神と私たちとの関係を断絶させてしまうものです。ですから、その罪を完全に取り去らなければ私たちは神様の命、永遠の命の祝福はあずかることができないのです。神様が私たちの犯した罪に対して厳しいのは私たちを生かすため、つまり私たちに永遠の命を与えるためであるからなのです。

(2)恐れのために相手を抹殺する

 ところがこの物語に登場する律法学者やファリサイ派の人々にはこのような態度が全くありません。貫通の罪を犯した婦人にはどこまでも厳しく、その裁きを執行することを求めています。しかし、誰もこの婦人の命を心配する者はいないのです。はじめから、彼女の死刑はすでに決められているのです。しかし、実はこの律法学者やファリサイ派の人々の態度は彼らだけに限られる問題ではなく、罪の問題を自分の力では解決できない私たち人間に共通する態度であると言えるのです。
 昔、日本でもライ病と診断された人は、家族から引き離され、隔離された場所で生活することを余儀なくされました。それは法律で厳しく決められていたからです。しかし、その法律の狙いは、病気で苦しむライ病患者を救うために作られたものではありませんでした。その病気が広く世間に広まることを恐れた人々がそれを予防するために作った法律なのです。つまり、施設に強制的に収容された人々はやがてその病気と共にこの世からいなくなってしまうことを求めて作られた法律だったのです。どうして、そんな過酷な法律ができたかと言えば、当時はその病気に対しての有効な治療法が見つかっていなかったからです。だから、誰もがその病気に感染することを恐れて、ライ病患者を人里離れた施設へと強制的に送り込んだのです。
 罪に対して有効な解決方法を持ち得ない人間は、その罪を犯した人を救うのではなく、その罪もろともその存在がなくなってしまうことを求めます。なぜならば自分たちもまた、取り返しのつかない死の病、罪の病にとりつかれてしまうことを恐れていたからだと言えるのです。

3.この世に遣わされたイエス・キリストの使命
(1)自らの置かれた状況を理解させる言葉

 しかし、彼らの心配は手遅れでしかありませんでした。どんなに用心して生きていても、この罪の病に感染していないものは一人もこの世にはいないからです。そして「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(7節)。イエスのこの発言が彼らにその現実を理解させる役目をここでは果たしています。「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」(8節)と聖書はイエスの発言の結果を記しています。
 先にも明らかにしたように、この物語は私たちの犯した罪を曖昧にすることを教えるものではありません。むしろ、私たちは死の病である罪の問題にはっきりと向き合うことが求められているのです。そのためにはまず私たちが自分の罪を解決する力を持っていないことを理解しなければならないのです。このイエスの言葉はその事実を私たちに教えるものなのです。私たちは皆等しく、罪の病、死の病に陥って瀕死の状態にあります。そしてそのような私たちには人の罪を告発する権利は全くありません。「私の犯した罪より、あの人の犯した罪のほうが大きい」と言うようないいわけは神様の前には全く通用しないのです。

(2)ただ一人、罪を解決することができる方

 しかし、私たちはこの場面に一人だけ人の罪を告発する権利を持ち、またその罪を解決することのできる力を持っておられる方がおられることを忘れてはなりません。それが私たちの救い主イエス・キリストです。イエスだけはこの罪の病、死の病に冒されることがなかった神の子なのです。だからこそ次に語られるイエスの言葉は、単なる口先だけの言葉ではなく、その言葉の内容を現実のものとする力を豊かに持っているのです。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(11節)。
 このイエスの言葉にはイエスの私たち人間に対する二つの働きが示されています。まずイエスは私たちの罪を赦し、私たちの罪を解決し、命を与えるためにやってこられた方なのです。この後、イエスは十字架につかれて死を迎えられます。それは私たちの犯した罪を解決するためになされた御業です。だからこそこのイエスによって私たちの罪は解決し、私たちに命が与えられたのです。
 さらに、イエスは私たちに日々、聖霊を遣わして信仰者として神様と共に歩む生活を可能にしてくださる方なのです。どんなに罪を犯したくなくても、私たちにはその罪と戦う力はありません。しかし、そのような私たちにイエスは日々、聖霊を送ってくださり、その戦いを可能なものとしてくださるのです。イエスはこの婦人に「これからはあなた次第ですよ。だからがんばってやりなさい」と言っているのではありません。「これからは私が一緒にいるから、だいじょうぶだ。あなたの人生はこれから大きく変わる」と言ってくださっているのです。
 このようにイエスは私たちを死へと導く罪の問題を解決し、私たちが命の源である神と共に生きることができるようにしてくださる真の救い主です。そしてこの物語はそのイエスの姿を私たちに明確に示すものであると言えるのです。

【祈り】
天の父なる神様

 自分の力では解決することのできない深刻な罪の病の故に、死を待つしかなかった私たち。その事実さえも自覚できず、他人の犯す罪にばかり目を向け、厳しい裁きを要求する愚かな私たちのためにあなたは救い主イエスを遣わしてくださいました。あなたの言葉に耳を傾けることで、私たちの罪を自覚させてください。そして、その罪を解決し、私たちに命を与えるために来られた救い主イエスのみ業を心に留めさせてください。「もう罪を犯してはならない」と言う言葉を実現させるために聖霊を送ってくださるあなたのみ業に感謝します。私たちの信仰の歩みをどうか導いてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。


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