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礼拝説教 桜井良一牧師
命の光を持つ

(2008.8.17)

聖書箇所:ヨハネによる福音書8章12〜20節

12 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
13 それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」
14 イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。
15 あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。
16 しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。
17 あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。
18 わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」
19 彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」
20 イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。

1.イエスの証言
(1)求められる証言

 今日の聖書箇所では大きく分けて三つの事柄が取り扱われていると考えることができます。一つはイエスの「わたしは世の光である」と言う自己証言の言葉です。もう一つはこの証言を支える証人は誰かと言う問題、さらにはイエスの世に対する裁きとはどのようなものなのかと言う三つの事柄です。
 先日学びました通り「姦通の女」と言う物語の箇所は後代の聖書の写本家たちがこの箇所に後になって付け足した物語ではないかと考えられていると言うことを学びました。そうすると、今日の12節以下の文章は7章の52節と本来はつながっていたと考えることができます。7章では仮庵の祭りにエルサレムの神殿にやってきて教えを説くイエスと、エルサレムの宗教指導者であった祭司長やファリサイ派の人々との争いが記されています。エルサレム神殿に集まる群衆たちに説教を語り、群衆に影響力を与えるイエスの活動に我慢のならない彼らはイエスを逮捕しようとするのです。しかし、イエスの逮捕はなかなか彼らの思った通りには実現できません。そこで7章45節のところではこの福音書では有名なニコデモと言う人物(3章1節)が登場して、「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」(51節)とイエスを逮捕しようとするなら正当な手続きをしてそれを実行すべきだと語る場面が記されています。このニコデモの発言を受けるように今日の箇所はイエスの自分に対する証言が語られているのです。つまり、ファリサイ派の人々はイエスを逮捕する理由を見つけ出すためにイエスの言葉をここで聞いていたと言うことになります。

(2)わたしは世の光

 イエスはこのような人々を前にして「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(12節)と言う大胆な自己証言を語っています。大胆と言ってもイエスについて「光」であると表現する言葉はこのヨハネによる福音書の読者たちには大変に馴染みのあることだと思います。なぜなら、この福音書は冒頭からイエスについて「光」と言う言葉で紹介することで始められているからです。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1章4〜5節)。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」(同9節)。
 イエス・キリストは暗闇の世界、罪と死の闇の力が支配するこの世に遣わされて、救いと命を実現するために来られた真の「光」であるとこの福音書は最初から教えているのです。その言葉がここで改めのイエスの口から語られています。実はここでイエスが「光」と言う言葉を用いてご自身を紹介されていることには他に理由があったと考えられています。それはこの言葉が語られた仮庵祭りの行事と深く関係しています。この仮庵祭りついても先日の礼拝で、イスラエルの民の出エジプトの出来事を記念するお祭りであったことを学びました。40年の間、荒れ野をさまよったイスラエルの民、しかし、彼らの旅には特別の導き手がいました。それは神様ご自身です。先ほどお読みした旧約聖書の出エジプト記の文章の中に「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。昼は雲の柱が、夜は火の柱が、民の先頭を離れることはなかった」(13章21〜22節)と書かれています。神様は昼は雲の柱、夜は火の柱と言う象徴的な姿を通してイスラエルの民の旅路を導いてくださっていたのです。そして仮庵祭りの最中、神殿の庭ではこの「火の柱」を記念するように灯りがつかられていたと言うのです。おそらくイエスはこの灯りを前にしてご自分を「世の光である」と語られたと考えることができるのです。
 昔、イスラエルの民を導いた「火の柱」こそ本当はイエス・キリストご自身であったと言う事実がこの証言の言葉の中に示されているのかもしれません。しかし、それ以上に重要なのはイエスが私たちを命に導くために、この地上に来てくださり、私たちの人生に先立って歩んでくださる方だと言うことです。私たちを支配する罪と死の力からイエスは私たちを完全に解放してくださり、神様の持つ永遠の命の祝福に入れてくださるのです。そのことがこの「世の光」と言う言葉の中に示されているのです。私たちがこの方を人生の導き手として、その方の後を歩むなら決して暗闇の力に滅ぼされることがありません。私たちは必ず命の光を持つ、死は敗北し、命が勝利すると言う救いの出来事を体験することができるのです。

2.二人の証言者

 この証言に対してファリサイ派の人々は「おまえがそのように言う根拠、その証言を証明することのできる証人はどこにいるのだ。証人なしに語る言葉は真実ではない」とイエスを非難しています。イエスもここで語っていますがユダヤ人は裁判などの席では二人の証言者が必要でした。一人の証言では、その人が何らかの意図で誰かを陥れるために偽証する可能性があります。だからその証言を支えるもう一人の証人が必要となったのです。ただ、この場合、自分が自分の証言者となると言うことはできません。ところが、この場面ではイエス自らが自分の証人であると言っているのです。なぜなら、イエスの語っている証言は地上の人間が証人になれるような事柄ではないからです。それは神様の救いの出来事に関わる事柄で神様だけが知っておられる事柄だからです。
 イエスはだからここでこう語ります。「自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない」(14節)。皆さんはこのイエスの言葉が何を言っているか、すぐにおわかりになると思います。なぜなら、ここに語られているのははこのヨハネによる福音書が最初から何度も説明しているもっとも重要な事柄だからです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(3章16〜17節)。イエスは、神が私たち人間を救われるために天から遣わされた救い主なのです。そしてこの救い主は私たちを神の元へと導かれる方なのです。
 しかし、ファリサイ派の人々はこのことを理解することができません。彼らの理解ではイエスはせいぜいガリラヤ出身の一人の人間にすぎません。それはどうしてでしょうか。彼らは救い主イエスの言葉に耳を傾けようとしなかったからです。隠された神様の御心すべてはこの救い主イエス・キリストによって私たちに明らかに示されました。私たちはこのイエスを通してだけ神様のことを理解することができます。しかし、そのイエスを拒否する人々には神に対する事柄は何一つ理解できません。それらの人々にとってはイエスはガリラヤ出身の大工の息子であり、どんなによくとっても世界の思想家の一人ぐらいにしかなり得ないのです。しかし、そのような人にはイエスの命の光は届くことがありません。どんなに聖書を読んでも、彼らは暗闇の世界に止まらざるを得ないのです。そして、このヨハネの福音書はそれがまさに神様の裁きの結果であると語っているのです。

3.イエスの裁き
(1)裁くためではなく救うために来られた方

 「あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない」(15節)。このイエスの言葉が実は、先日学んだ「姦通の女」の物語がこの箇所に後になって付け足された理由だと考えられています。姦通の現場で捕らえられた婦人を人々は裁き、石打の刑に処することを求めました。そして彼らはイエスもまたその裁きに荷担するようにと求めたのです。しかし、イエスはこの裁きに関わることなく、彼女の命を救うべく、罪の赦しの宣言をされまたのです。この物語の主題とここに登場するイエスの言葉がうまく結びつくと考えることができた、この物語が後になってここに付け加えられた原因だと考えられているのです。
 たしかにイエスは私たちが神の前に立たされてその罪に応じて裁きを受けるときに、その裁きから私たちを救い出して、命を与えるために私たちの元にやってきてくださった方です。その意味では彼は私たちを裁くためではなく、救うためにやってきたと語ることができます。しかし、イエスは救い主であると同時に、真の裁き主であると言うことも聖書が私たちに教えていることです。しかし、イエスの裁きは世の裁きとは全く違った形で実現するのです。だからイエスは「わたしはあなたたちと同じような裁きをすることはない」とここで語られているのです。それではイエスの裁きはどのようなものなのでしょうか。このヨハネによる福音書はこの裁きについてこのような有名な言葉を残しています。

(2)信じられないのは裁きの結果

 「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」(3章17〜21節)。
 この言葉から言えば、イエスを信じることができない、イエスを受け入れることができないのはすでに彼らが神の裁きを受けているからだと教えるのです。ですからユダヤ人たちが頑なにイエスを拒んでいるのはこの裁きを受けた結果だと考えることができるのです。もちろんヨハネの福音書が強調するのはこの神の裁きではなく、神の救いの現実です。なぜならこの裁きについての見方を、そのまま私たちの救いについて適応することができるからです。つまり私たちがイエスを信じることができる、イエスを受け入れることができるのは私たちが救われている証拠であると考えることができるからです。ヨハネによる福音書の論理によればイエスを信じたから救いを受けるのではなく、信じることができたことが救いなのだと言うことになります。このような意味でこの福音書はイエスの救いを私たちが今、すでに豊かに体験していることを教えているのです。

(3)神の裁きを気づかない

今日の物語りに登場する人々はすでに神の厳しい裁きのためにイエスを理解することも、受け入れることもできません。そしてその自分が神の裁きを受けていることさえ気づいていないのです。
 こんなお話があります。一人の人が地上の生涯を終えました。彼が死後に導かれた場所はとてもすばらしい場所で、ほしいものは簡単にすぐに手に入ります。彼はそこで安楽な生活を毎日続けることができました。しかし、そこで長い間、暮らしていると彼は最初はすばらしいところだと思った場所が退屈でどうしようもないところに思えるようになりました。やがてその退屈さに我慢ができなくなった彼は神様に向かってこう不満をぶちまけたと言うのです。「神様、天国がこんな退屈なところなら、むしろ地獄に行ったほうがましでした」。するとどこからともなく、こんな神様の言葉が聞こえてきたと言うのです。「お前、そこが天国だと思っていたのか」。
 聖書の語る救いはイエス・キリストを信じることができることを言っています。なぜなら、彼こそ私たちを命へと導く光であるからです。どんなにその人が闇に閉ざされたような生涯を送っていたとしても、イエスが導いてくださるならばその人は必ず命を受けることができるのです。
 私たちは困難や、問題に遭遇すると神様の裁きを受けたのではないかとか、神様に呪われているのではないかと不安になることがあります。しかし、もし私たちがイエスを救い主として信じているのなら、それは裁きでも呪いでもありません。すべては私たちを真の祝福へと導くために神様が与えてくださったものなのです。
 旧約聖書にはヨブと言う世界一不幸な人物が登場する物語りがあります。友人たちは彼の姿を見て、彼は神様に裁かれていると判断しました。だから彼に「神様の赦しを請いなさい」とアドバイスしたのです。しかし、物語を読み進めるとヨブこそが神の救いの中に入れられていた人であることがわかります。そして彼を不幸な人と考えていた友人たちこそが神の裁きを受けていたことが分かるのです。ですから大切なのは、私たちがイエス・キリストを救い主と信じ、受け入れているかどうかなのです。イエスが私たちの人生を導いてくださるなら、私たちは必ず命の光を受けることができることをイエスは今日の自己証言を通しても私たちに約束してくださっているのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
世の光として罪と死が支配する闇の世界に生きていた私たちのところに来てくださり、私たちを命に導いてくださる主イエスの御業に心から感謝します。あなたの御業を何一つ正しく理解することのできない私たちに聖霊を遣わしてくださって私たちに信仰を与えてくださった御業を感謝します。あなたが救ってくださったために死から命に移されました。あなたが救ってくださったために無価値であった私たちが、今や神の子として生きることができるようになりました。いつもあなたが私たちの人生の先におられ、その導きによって今の自分があることを覚えさせてください。心からの感謝を捧げつつあなたを礼拝する者とさせてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りします。アーメン。

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