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礼拝説教 桜井良一牧師
イエスの洗礼

(2008.9.07)

聖書箇所:ヨハネによる福音書10章22〜30節

22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。
23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。
24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」
25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。
26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。
27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。
28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。
29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。30 わたしと父とは一つである。」

1.はっきりそう言いなさい
(1)神殿奉献祭とは

 この礼拝でヨハネの福音書を続けて学んでいます。この間まで取り扱っていた箇所には「仮庵祭」と言うユダヤのお祭りの一つが登場していました。そしてこの祭りは毎年秋に行われる収穫感謝祭のような特徴を持っていることもお話ししたと思います。今日の箇所でもまた、新たに別のお祭りの名前が登場しています。「神殿奉献記念祭」と言うお祭りです。このあとすぐに聖書は「冬であった」(22節)という説明が着けられていますから、季節は収穫の秋から冬に変わっていたことが分かります。「神殿奉献記念祭」という名前を呼んであまり聞き慣れない言葉だなと思われた方もあるかもしれません。調べて見ると口語訳や新改訳聖書ではこの祭りが「宮きよめの祭り」と訳されていることが分かりました。どちらかと言うと私たちはこちらの名前の方で覚えているのかもしれません。それではこの「神殿奉献記念祭」、つまり「宮きよめの祭り」とはどのようなお祭りだったのでしょうか。私たちがよく聞く「過越の祭り」や「仮庵の祭り」と言ったお祭りの起源は遠くイスラエルの民の出エジプトの出来事にさかのぼることができると考えられています。ところがこの二つの祭りに対してこの「神殿奉献記念祭」は比較的に新しく紀元前2世紀頃に起こったユダヤの独立戦争に祭りの根拠があると考えられているのです。
 紀元前2世紀頃、ユダヤの国は大国シリアの支配下にありました。この国はギリシャを中心に活躍したアレキサンダー大王の死後、その後継者たちが権力争いをした結果生まれた国の一つで、シリアと言うよりはギリシャと言った方がこのお話はよく理解できるかもしれません。当時、ユダヤを治めていたギリシャ人の支配者はこの地域のギリシャ化を強制的に推し進めて言ったのです。そのために一番、邪魔になったのはユダヤ人の信仰です。そこでギリシャ人の支配者はユダヤ人からこの信仰を放棄させるために徹底的な弾圧を行ったのです。支配者は信仰をかたくなに守ろうとする人々をたくさん殺害した上で、彼らの信仰のよりどころとも言えるエルサレム神殿にその攻撃の的を向けました。なんと支配者たちはこのエルサレム神殿をギリシャの神ゼウスの神殿に変えてしまったのです。
 このギリシャ人の圧政に反抗して立ち上がったのが祭司であったユダ・マカベアと言う人物です。そしてこのユダ・マカベアに従った人々が起こした戦争がマカベア戦争と言われています。やがて彼らの戦いは敵味方多大の犠牲を払いながらも勝利を収めることとなります。その上で彼らはエルサレム神殿を取り返し、その神殿から異教の神々をすべて取り払って「宮きよめ」をすることができたのです。神殿奉献祭はこの出来事を祝って行う祭りでした。

(2)ユダ・マカベアのように

 そして、この祭りの事情を背景にして読むと次に記されているユダヤ人たちのイエスに対する質問の意図がいくらか理解できるような気がします。彼らはイエスに次のように問うています。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」(24節)。

 ユダヤ人たちはイエスについて「気をもんでいる」と言うのです。この「気をもんでいる」と言う言葉を慣用句辞典で調べると「あれこれ心配させる」と言う意味があるようです。ですから「私たちはあなたのことであれこれ心配している」と彼らはイエスに言っているのです。そして彼らの心配はどんな心配かと言えば「あなたはメシアなのか、そうでないのか」と言うことだと言うのです。そこでこの祭りの時が意味を持って来るのです。一年の内で最もユダヤ人のナショナリズム、国家主義が高揚する時がこの神殿奉献祭の時期だと言えます。そしてユダヤはこのときもギリシャではなく、今度はローマと言う大国に支配されていたのです。だからユダヤ人たちは「かつてユダ・マカベアが立ち上がって、異教の支配者たちを追い出して祖国の独立を勝ち取ったように、あなたもメシアなら今、立ち上がるべきではないか」とイエスに問うているのです。
 つまりユダヤ人にとって「メシア」とは祖国独立戦争の指導者を意味していたのです。ところが、イエスはそのような意味の指導者として御自身を示されることがありませんでした。だからこそ武器を取って勇敢に敵に立ち向かう、そのようなメシアを期待する人々にとってイエスの姿は全く理解できないものだったのです。
 しかし、独立戦争のリーダーは決して本当のメシアではありませんでした。なぜなら、彼らの勝ち取った勝利は、すぐに消え去ってしまうような一時的なものだったからです。ギリシャの支配は確かに終わりを告げました。しかし、ユダヤの国はそれに変わって今度は新たな大国ローマの支配を受けざるを得なくなるのです。神の遣わしてくださるメシアのもたらす勝利は一時的なものではなく、永遠のものなのです。そして、その永遠の勝利をもたらすために確かにイエスはメシアとしてこの地上に来て下さり、戦いに勝利する必要があったのです。しかし、その戦いは武器を持ってする戦いではなく、御自身の血と肉、その命をかけて戦われる戦いであったことをユダヤ人たちは知らなかったのです。

2.わたしの羊はわたしの声を聞き分ける

 さてイエスはこのユダヤ人たちの質問に次のように答えています。「あなたたちは私のことについて気をもんでいると言うが、私はそのことについて十分にあなたたちに言葉と、その行う業を通して示した。それなのにあなたちは私を信じなかったのではないか」。問題なのはイエスではなく、そのイエスを信じることができないユダヤ人の側であるとはっきり語られるのです。
 「自分たちは人に何かを教えられなくても、何でも知っている。子供のときから神の言葉である聖書を学び、その知識に精通している」と考えていたユダヤ人たちに向かって、イエスは彼らの愚かさと無知を明らかにしようとされました。しかし、その無知の原因はいったいどこにあったのでしょうか。そのことについてイエスは次のように続けて語ります。「しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」(26〜27節)。
 この言葉はこの同じ10章で既にイエスが語られている羊飼いと羊のたとえを背景と下言葉です。イエスはこの章の14節で次のように語っています。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」。羊飼いは自分を導いてくれる羊飼いの声を知ってよく知っていて、その声だけに聞き従う。イエスは彼を攻撃するユダヤ人たちが自分に従えないのは自分の羊ではないからだと言うのです。
 ここには聖書の中でも最も不思議であり、また最も大切な真理が語られています。それは神様の選びついての事柄です。先日、ある方の病床を訪れる機会がありました。そのご家族に依頼されて「洗礼を受けてほしい」と言うことをお話にいったのです。しかし、その方はあくまでも洗礼を受けることを自分のポリシーに反すると拒み続けました。その強情さにほどほど参ったのか、その家族の一人が「洗礼を受けるか、受けないかが重要な問題なのではない」と言われました。
 この言葉は確かに正しいことを言っています。洗礼についてこのイエスの語る羊と羊飼いの譬えを通して考えて見るとそのことが分かります。私たちは洗礼を受けたときにイエスの羊になるのではないのです。元々、私たちは神様の恵みによってその羊にされているのです。だからこそ、私たちは聖書を通して聞こえて来るイエスの言葉にある日、こう気づくのです。「あっ、イエスさまが私を呼んでいるのだ」。なぜ、それが分かるのでしょうか。私たちはイエスの羊とされているからです。だから私たちの真の羊飼いイエスの声を聞き分けることができるのです。イエスのたとえ話はそのことを私たちに教えています。そして、洗礼は確かに「私はイエス様に呼ばれています。私はイエスの羊です」と言う事実を心から受け入れる者が受けるものなのです。
 そう言う意味では神様は私たちが洗礼を受けているか、いないかと言うことを重要視されるのではありません。なぜなら神様ははじめから誰がイエスの羊かと言うことをちゃんとご存知だからです。だから洗礼がなくても神様は困ることがないのです。しかし、洗礼が無くなってしまうと困ってしまうのは実は私たち人間の側だと言えるのです。私たちの心はこの地上にあって様々に揺れ動きます。ですからその私たちの心を頼りに自分が救われているかいないかを考えるならこれは確かに不安定で、心許ないものになってしまいます。ですから、その私たちに神様は洗礼を受けることを勧められたのです。私たちは誰の者なのか、誰が私たちの羊飼いなのか、洗礼は私たちにそれをはっきりと教える役目を果たすのです。「あなたは確かにイエスの羊である。あなたはその声を聞いて、洗礼を受けたのだからそれは確かなことである」と、そのように私たちに救いの確信を与えるものが洗礼と言えるのです。これは洗礼と同じように、私たちがこれから受ける聖餐式も同じ意味を持っています。そして、繰り返していれば、私たちが洗礼を受けることができたのは、私たちが聖餐式にあずかることができるのは、私たちがイエスの羊であって、私たちがそのイエスの声を確かに聞き分けることができたからなのです。

3.わたしと父とは一つ
(1)与えられる永遠の命

 イエスの声を聞き分けることができるイエスの羊たちに、イエスは素晴らしい約束をここで語られています。「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(28節)。

 イエスは私たちに永遠の命を与えてくださるのです。真のメシアは祖国独立戦争のリーダーとは違って、私たちを苦しめる罪と死の現実に立ち向かい、それに勝利して、私たちに永遠の命を与えてくださる方なのです。イエスの生涯はこの聖なる戦いのためにありました。そしてイエスは十字架を通してこの戦いに完全な勝利を収められたのです。今まで人類の歴史上に出現した地上のリーダーたちの勝ち取る勝利は一時的なものに過ぎませんでした。ところが真のメシアがもたらす勝利は永遠に変わることがないのです。それはこのメシアであるイエスが私たちを永遠に守って下さるからです。
 私たちはこの地上においてどれだけ自分の命を守るために毎日労しているでしょうか。しかし、どんなに力を尽くしても私たちの地上の命は取り去れ、終わりの時がやって来ます。ところが神様のくださる新しい命には終わりがないと言うのです。なぜならその命は私たち自身が守るのではなく、神御自身が救い主イエス・キリストを通して守ってくださる命だからです。だから誰もこの命を私たちから永遠に奪い取ることはできないのです。

(2)イエスの存在なしに聖書は理解できない

 こんなに素晴らしい祝福の約束をどうして神様は私たちに与えてくださるのでしょうか。その約束の根拠はこれもまた不思議な言葉で説明されています。「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない」(29節)。この聖書の箇所をある人は「私の父が救い主として遣わしたものは、すべてのものより偉大である。だから、だれも父の手から奪うことができない」と読み替えます。つまり、偉大なのは私たちを守るイエス・キリストであって、私たち自身ではないと言うのです。しかし、聖書の原文は明らかに、私たちがイエスによって「偉大である」と評価されている形をとっています。そしてこの言葉はどうして神様が私たちにイエスを遣わして、救いを与えようとされたのか、その秘密を読み解く大切な言葉となっているのです。神様は私たち一人一人を他の何物にも代えることができないほど大切なものと考えられているのです。だから御自身の御子を地上に遣わされて、罪と死に対する徹底的な戦いに完全に勝利され、私たちに永遠の命を与えてくださるのです。私たちはこの私たち自身の本当の価値を、自らの功績ではなく、このキリストの存在を通して知ることができるのです。
 「わたしと父とは一つである」(30節)とイエスは語りました。ユダヤ人はこの言葉を「自分を神とするような冒涜的な言葉であると考えました(33節)。しかし、イエスがこの言葉を語ったのは自分が人々から神としてあがめられることを望んだからではありません。イエスの言葉とその御業、つまりその存在地震が父なる神を理解する絶対に必要であることを教えようとされたのです。このイエスの存在がなければ聖書の言葉は未完成な言葉、意味のない羅列になってしまうのです。ですからこのイエスの存在を無視するユダヤ人は今なお聖書を通して祖国独立戦争のリーダーが現れることを待ち望んでいます。いえ、ユダヤ人だけではありません。イスラム教徒もキリスト教徒も、同じ聖書を読みながら、お互いにその相手を「神に敵対する者たち」と非難しています。聖書を読んでもこのイエス・キリストの存在を忘れてしまうなら、聖書の言葉はすぐにナショナリズム、つまり国家主義を謳歌する言葉となってしまう恐れがあります。しかし、イエス・キリストは武器をとって、異教の支配者たちと戦うために来られたのではないのです。私たちを支配する罪と死の現実に自らの命をもって戦い、その戦いに勝利された方なのです。だから私たちには今、永遠の命が与えられているのです。
 聖書を読む者はこのイエスの存在とその戦いを決して忘れてはならないのです。しかし、幸いなことに私たちが聖書を読み、神様を信じる信仰生活でこのイエスの存在を決して忘れることができなくされているのは、私たちが既にイエスの羊にされていると言う恵みの中に生きていることを今日の聖書の箇所は私たちに教えているのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 あなたは御子イエスをこの地上に遣わすことで、私たちのために永遠の勝利をもたらしてくださいました。イエスの十字架の犠牲を持って、私たちを支配していた罪と死の力から解き放ってくださったことを感謝いたします。私たちは確かにイエスの声を聞きました。そして私たちがはじめからあなたの羊とされているという恵みをしることができました。そのすばらしい恵みを忘れることなく信仰生活を歩むことができますように、ますますあなたの声に聞き従うことができるようにしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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