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礼拝説教 桜井良一牧師
「その声を知っている」

(2008.9.14)

聖書箇所:ヨハネによる福音書10章22〜30節

22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。
23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。
24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」
25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。
26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。
27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。
28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。
29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。30 わたしと父とは一つである。」

1.本当に大丈夫

 私は今度の10月の誕生日を迎えると今年で51歳になります。実は私が教会に行って洗礼を受け、クリスチャンになったのは私が21歳のときでした。洗礼を受けたのも10月の出来事でしたから、今年で私はクリスチャンになって三十周年を迎えることになります。
 クリスチャンになってしばらくたったときのことです、当時大学生だった私は家に帰る電車の中で偶然に高校時代の何人かの友人と再会しました。そこで、クリスチャンに成り立てだった私は友人たちに「実はこんど洗礼を受けてクリスチャンになったのだ」という話を熱心にしたのです。そのとき私の話にしばらく耳を傾けていた友人たちはやがてお互いの顔を見合わせて「今度はどのくらい持つのかな」とつぶやくように語ったのです。私の高校時代の生活を知っている友人たちは「熱しやすく、さめやすい」私の性格をよく知っていたので、このときも「きっと今度も長くは続かない」と判断したのでしょう。実はこのとき、友人の言葉を聞いて一番不安を抱いたのは私自身でした。なぜなら自分が何をしても長続きしないと言う性格は友人たちにいわれるまでもなく、私自身がよく知っていたからです。
 幸いにして30年の間、私は信仰生活を続け、今は皆さんにこのようにして聖書のお話を語る牧師の働きもさせていただいているのです。しかし、私の信仰生活がこの30年間守られたのは、私の優秀なクリスチャンであったからでも、私に特別な力があった訳でもないのです。今日の聖書の箇所には次のようなイエスの言葉が語られています。「彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(28節)。イエスがここで語ってくださっているように私たちを守るのは私自身ではありません。イエスが私たちを守ってくださるからのです。だから私たちは安心して信仰生活を続けることができるのです。それなのに私たちはいつの間にか、自分が自分の力や才能で信仰を得たと考えたり、その信仰生活を一生懸命に維持しているのだと勘違いしてしまいます。そしてその勘違いが私たちを返って不安にさせたりするのです。今日の聖書の箇所でイエスは私たちのこの勘違いを正し、私たちを不安から解放してくださるために大切なことを語られています。

2.ユダヤ人たちの勘違い
(1)神殿奉献祭

 今日の物語ではイエスと彼を取り囲んだユダヤ人たちとのやりとりが記されています。聖書はこの出来事を起こったのがいつなのかを次のように説明しています。「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった」(22節)。「神殿奉献祭」というお祭りの名前がここで登場しています。このお祭りは冬、ちょうどキリスト教会がクリスマスを行う時期と同じ頃にユダヤ人たちは現代でも「ハヌカの祭り」と呼んで守っているようです。このお祭り、新改訳聖書や口語訳聖書では「宮きよめの祭り」と訳されています。
 紀元前2世紀頃、ユダヤの国は有名なアレキサンダー大王の後継者によって作られたシリアという国の植民地になっていました。このシリアの国王は自分の支配する全地域の文化や生活をギリシャ化しようとして強制的な政策を推し進めました。ちょうど、戦争の前に日本が韓国を支配して、その国の固有の文化を奪い、住民の名前まで日本名にしようとしたのと同じです。シリア王はユダヤをギリシャのようにしようとしたのです。そこでその政策にもっとも邪魔になったのはユダヤ人が昔から持っていた宗教です。そこでシリアの国王はユダヤの宗教を徹底的に弾圧して、従わない者の命を奪うほど過酷な仕打ちをユダヤ人たちに行いました。そして、その政策はユダヤ人たちの精神的な支柱ともいえるエルサレム神殿にも向けられて行ったのです。シリア王は神殿にあった大切な宝物をすべて取去って、エルサレム神殿をギリシャの神、ゼウス神を祭る異教の神殿にしてしまったのです。
 やがてこの異教の支配者の圧政に対してついに立ち上がったユダヤ人たちは、ユダ・マカベアという祭司出身のリーダーを立てて、武器を取り、戦いでたくさんの血を流した上で勝利を収めました。そして彼らは汚されていたエルサレム神殿をきよめ、その神殿を真の神を礼拝するところに回復させたのです。そしてこの出来事を記念する祭りが「宮きよめ」つまり、この「神殿奉献祭」だったのです。

(2)メシアに対する誤った期待

 ユダヤ人たちはこのときイエスに詰め寄り、次のように尋ねています。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」(24節)。
 彼らはイエスに「おまえは本当にメシアなのか。それをここではっきりさせろ」と語ります。実はこの発言の背後には「神殿奉献祭」の時期特有の背景が隠されていると考えることができます。この祭りは彼らの先祖たちが異教徒の支配者との戦い勝利したことを記念する祭りでした。つまり、ユダヤ人たちの間でもっともナショナリズム、国家主義が高揚する時期だったのです。イエスの時代、ユダヤの国はギリシャに代わって強大な力を持った新しい帝国、ローマの支配下にありました。つまりユダヤ人たちは相変わらず異教徒の支配を受け続けていたのです。ですからこの時期、ユダヤ人たちはもう一度、ユダ・マカベヤのような指導者が現れて、再び国民が決起して、祖国の独立のための戦いに決起することを待ち望んでいたのです。このように当時のユダヤ人が考えていた「メシア」とはこのユダ・マカベヤのような人物であったと考えることができます。民衆に決起を促し、独立戦争のために武器を持って戦う指導者がユダヤ人たちが望んでいた「メシア」だったのす。
 ところがイエスは民衆にローマへの戦いを呼びかけることも、武器を持って戦うこともしません。だから「お前がメシアなら、メシアらしく振る舞ったらどうだ」と彼らはイエスを非難したのです。しかし、ユダヤ人たちは「メシア」の働きを誤解していました。神の元から遣わされるメシアは地上の支配者と戦い、それに勝利して、一時的な自由を与えるために来られる方ではありません。むしろ私たちのために永遠の勝利をもたらし、私たちに永遠の自由を与えてくださる方が真のメシアなのです。そのことをユダヤ人たちは理解できず、大きな誤解してしまっていたのです。

3.羊と羊飼いの関係
(1)ユダヤ人たちの拒否の原因

 イエスは彼らの問いに次のように答えます。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている」(25節)。

 イエスは「自分はちゃんと今までそのことを明らかにしてき。しかしあなたたちは私の証を信じなかったのではないか」と語っています。問題なのはイエスの方ではなく、その証を受け入れようとしないユダヤ人たちの側なのです。それではどうしてユダヤ人たちはイエスについて勝手な誤解をして、彼を受け入れようとも信じようともしなかったのでしょうか。イエスはその秘密を次のように語っています。「しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」(26〜27節)。
 ユダヤ人たちが信じることができないのは彼らがもともと「イエスの羊」ではないところに原因があるとイエスは語っています。だから彼らはイエスが何を語っても、その声を聞くことも、理解することもできないと言うのです。このイエスの言葉は同じヨハネの福音書10章の中で語られている「羊と羊飼い」についてのイエスのたとえを背景にして語られている言葉です。
 イエスはここで私たちとご自身との関係を羊と羊飼いのたとえを通して説明しています。イエスは特に14節でこう語っています。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」。羊は自分の羊飼いの声をよく知っています。また羊飼いも自分の羊のことを誰よりもよく精通していているのです。ですから、イエスを信じることができるのは元々、彼の羊だけであって、それ以外の者はイエスの声を聞くことができないと言うのです

(2)恵みの選び

 ここには私たちの教会の用語で言えば「恵みの選び」と言う教えが語られています。私たちは確かに、今までの人生で何らかのきっかけで聖書を知り、また教会に通い始め、そこで神様を信じ洗礼を受けます。そして私たちの目からは洗礼を受けて初めて私たちはクリスチャン、キリスト者になったと考えることができるのです。しかし実はそれは物事のほんの一部だけしか知り得ない私たちの認識の結果でしかありません。むしろ、このイエスの言葉から考えると私たちは洗礼を受けたときにイエスの羊となったのではなく、元々、私たちは生まれる前からイエスの羊であって、その羊だったからこそイエスの声を聞くことができ、また彼を信じることができたと言うのです。
 それではこの考えに従えば私たちが受けた洗礼はどのような意味を持つと言えるのでしょうか。洗礼とは私たちが確かに聖書を通して自分を呼んでくださっているイエスの声を聞いたこと、自分がもともとイエスの羊であったと言う事実を受け入れ、公に認めることを表すものなのです。ですから神様は私たちが洗礼を受けているか、いないかに関わらず、最初から誰がご自分の羊であるかを知っておられるのです。そしてイエスの羊は、必ず自分を呼ぶ真の羊飼いイエスの声を聞き分けることができるのです。私たちはそのイエスの声を聞くことができたからこそ、イエスを信じ、洗礼を受けることができたのです。
 しかし洗礼を受けると言う行為は私たちにとっては確かに重要です。なぜなら、私たちは洗礼を受けたと言う事実を通して、自分が確かにイエスの声を聞きくことができたこと、イエスの羊であると言う事実を思い起こすことができるからです。有名な宗教改革者マルチン・ルターは試練の中でいつも悪魔のささやきに苦しめられたといいます。悪魔はルターの数々の弱さをいつも指摘して、「お前はそれでもクリスチャンなのか」と攻撃したのです。ところがルターはその度に「自分は洗礼を受けている」と言う事実を思い起こし、自分がすでにキリストのものとされていることを確信することができました。そして悪魔の誘惑に勝つことができたと言うのです。ですから洗礼は私たちにとって「キリストのものである」とされていることをいつも思い起こさせる印なのです。

4.永遠の勝利のための戦い
(1)イエスの戦い

 イエスは彼の羊とされている私たちに次のような祝福の約束を語っています。「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(28節)。

 イエスが私たちのために与えてくださる命は永遠になるくなることがない命です。なぜなら、その命を守ってくださるのはイエスご自身だからです。イエスが守ってくださるからこそこの命を私たちから奪うことができる者は誰一人いないのです。

 私たちはどれだけ自分の命を守ることに時間と労力を注いでいるでしょうか。しかし、私たちがどんなに努力したとしても、地上の命はやがて私たちから取去られるときがやってきます。しかし、私たちにイエスが与えてくださる永遠の命は決して私たちから奪われることがありません。なぜならば、その命は私たちが守るものではなく、イエスが守ってくださるからです。

 イエスはこの命を私たちに与えるために神様から遣わされた真のメシアです。彼の戦いは地上の支配者たちに向けられたものではなく、私たちを苦しめていた罪と死の呪いに対する戦いでした。そしてこの戦いのためにイエスは武器を取るのでなく、ご自身の命を十字架に捧げることで私たちに勝利をもたらしてくださったのです。この十字架の勝利によって、私たちを支配していた罪と死の力は完全に敗北し、もはや私たちを再び支配することはないのです。

(2)すべてのものより偉大

 それではどうして神様はこのイエスの命に代えてまで、私たちに永遠の命の祝福を与えようとされたのでしょうか。その驚くべき理由をイエスは次のように語っています。「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない」(29節)。

 この同じ箇所を新改訳聖書は次のように訳しています。「わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません」。この二つの訳では偉大な者が「父なる神」か、「父がわたしに与えてくださったもの」つまりイエスの羊である私たちかと言う点で大きな違いがあります。この違いは二つの聖書の訳が新約聖書の異なった写本を採用しているところに原因があると考えられます。実はこのような場合、どちらの写本がもともとのオリジナルに近いか、聖書学では一つの原則があります。それは論理的に辻褄の合う方が後になって書き換えられた可能性があり、むしろ読んですぐには理解することが難しい文章こそがオリジナルに近いと考える原則があるのです。おそらく、この場合は父なる神が「偉大」と考えた方が、何の疑問も反論も生まれてきません。つまり、こちらの方が後になって聖書の写本記者が手を加えている可能性が高いのです。そしてむしろ新共同訳のイエスの言葉の方が本来の言葉であったのではないかと推測することできるのです。

 私たちが「すべてのものより偉大である」と言われたら、私たちはどう思うでしょうか。私たちは自分自身を見つめて、「そんなことはない自分は全く無価値な、つまらない存在に過ぎない」と反論するのではないでしょうか。しかし、イエスは私たちを「すべてのものより偉大」と言ってくださっているのです。だからご自身の命を捧げて、私たちを救い出してくださったのだと言っておられるのです。

(3)イエスと父なる神は一つ

 「わたしと父とは一つである」(30節)。このイエスの言葉を聞いたユダヤ人はイエスが神に対する冒涜の言葉を語ったと怒り出します。しかし、この言葉はイエスが自分を疎かに扱うユダヤ人たちに「自分をもっと尊敬しなさい、大切にしないさ」と言うために語ったものではありません。むしろイエスの考え、その行動がすべて父なる神と一致していること、イエスが父なる神の御心に従って行動し、発言されていることを教えている言葉なのです。
 私たちがどんなに自分を見つめても、また、どんなに自分の隠された才能を見つけ出そうと努力してもイエスの語る「すべてのものより偉大である」と言う言葉を裏付ける証拠を私たちは見つけることができません。むしろ、この真理を私たちはイエスを通してだけ知ることができるのです。私たちのために御子イエス・キリストの命を犠牲にしてくださった父なる神は、私たちをもっとも大切なものとして取り扱ってくださっているのです。そして私たちがそのことを今、確信できるのは私たちが確かにイエスの羊であって、私たちを呼んでくださった真の羊飼いイエスの声を聞くことができたからだと今日の箇所は私たちに教えているのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
 私たちにイエスの声を聞かせてくださり、あなたを信じる信仰を与えてくださったことに心からの感謝を捧げます。イエスは十字架の戦いに勝利され、私たちを罪と死の呪いから永遠に解き放ってくださいました。そして私たちに新たな命を与え、私たち永遠に守ってくださると約束してくださいました。この世の小さな出来事の中ですぐに思い乱れ、信仰の確信を失いかけてしまう私たちです。あなたの大なる救いのみ業に私たちの心を向けさせてください。洗礼を思い出し、また聖餐式に預かる度にその恵みを私たちに思い起こさせてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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