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礼拝説教 桜井良一牧師
「ラザロの死」

(2008.9.21)

聖書箇所:ヨハネによる福音書11章1〜16節

1 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。
2 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。
3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。
4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
6 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。
7 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」
8 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」
9 イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。
10 しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」
11 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」
12 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。
13 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。
14 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。
15 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」
16 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

1.イエスの栄光を証しするラザロ
(1)ラザロの復活とその「死」について

 今日も続けて皆さんとヨハネによる福音書から学びたいと思います。このヨハネの福音書を説教する者にとって一番の悩みの種となるものは、この福音書のそれぞれの物語の分量が他の福音書に比べて圧倒的に長いと言うことです。この11章の物語ではラザロと言う人の死と甦りの出来事が記されていますが、その物語はこの11章全体にわたって記されています。ですから、本来ならこの礼拝では11章全体を読んで、その物語についての解き明かしをしなければなりません。しかし、そうなるとおそらく今日の礼拝がいつもの時間では収まらくなってしまう恐れがあります。そこで説教者はどうしてもこの物語を適当にいくつに分けてお話することになるのです。そうなると、たとえば私たちが今日読んでいるように、11章の中のラザロの死だけを取り上げて語るようになってしまうわけです。ただ、ラザロの死だけを取り上げても福音を語る説教にはなり得ない可能性も生まれます。また私は今回、このラザロの物語の続きを語る予定を立てていませんので、おそらくこの礼拝ではラザロの死をラザロの甦りを前提にして語ることになると思います。

(2)病気になって、死に、腐敗し始めた体

 11章の出来事の主人公と言っていいのでしょうか、聖書はまず次のようにその主人公を紹介しています。「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった」(1節)。この物語に登場するラザロ、彼の名前を紹介するにあたり、聖書がまず語っているのはラザロが「病人」であったと言うことです。この物語の主人公は一人の病人です。健康で才能があり様々な偉業を成し遂げた人とは違うのです。しかも、ラザロの病は手当の甲斐もなくますます悪くなり、彼は遂には死んでしまう定めに立たされています。そして彼はその上で死体となって墓に葬られ、その体は四日も経って腐り始めると言うところまで行っています。
 私は実は聖書の登場人物の中でこのラザロがとても好きです。この物語を読むとわかりますが、聖書の中に彼の発言は一つも記されていません。もちろん、瀕死の病人でしたからしゃべることができなかったのかもしれません。しかし彼はイエスによって甦らされた後も、何もしゃべっていないのです。ところが、そんな彼の存在がとても重要な働きをすることになったことを聖書は告げています。

「イエスがそこにおられるのを知って、ユダヤ人の大群衆がやって来た。それはイエスだけが目当てではなく、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。祭司長たちはラザロをも殺そうと謀った。多くのユダヤ人がラザロのことで離れて行って、イエスを信じるようになったからである」(12章9〜11説)。

 ラザロは座っているだけでイエスのすばらしい栄光を表すことができました。なぜなら、死んだはずのラザロが今、生きていること自体が、彼を甦らせることができたイエスのすばらしさを証しているからです。だからイエスの敵対者たちはこのラザロを何とかしないと大変なことになってしまうと、彼の暗殺計画まで立てたと言うのです。

(3)神の栄光をあらわしたラザロの生涯

 私がラザロを好きな理由は、聖書に登場する人物の中でも「自分も同じようになれる」と思わせる一番身近な存在であるからかもしれません。病気になって、死んでしまい、やがてその死体は墓の中で腐り始めているのです。それなら自分にもできます。いえ、私も必ずいつかこのラザロと同じ道をたどるときがやってくるはずです。その自分が神の栄光を表す存在となると考えることができたとしたら、何とそれはすばらしいことではないでしょうか。私たちの教会の信仰問答であるウエストミンスター小教理問答書の第一問には「人のおもな目的は、何ですか」と言う問いに答えて、「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」と教えています。私たちはこの問答の文面を読むと「神の栄光をあらわす」と言う言葉が何か自分の人生とはかけ離れた崇高な目標を語っているように勘違いしてしまうことがあります。しかし、このラザロの生涯から学び得ることは、神の栄光を表わすということは私たちの人生からは縁のない、遠い目標ではないことがわかります。なぜなら、彼は病気になり、死んで、その死体が腐り始めることで、神の栄光を表わすことができたからです。
 しかし、忘れてはならないのはそのラザロの生涯を栄光あるものとしてくださったのは主イエス・キリストであると言うことです。私たちの主イエスは、私たちがどのような生涯を送ったとしても、その生涯を神の栄光を表わすことができるものとして変えてくださることができるのです。このイエスがいなければ、たとえ人に賞賛される立派な生涯を送ったとしても、その生涯は決して神の栄光を表わすことはできないことを私たちはラザロの生涯を通して学ぶことができるのです。

2.この病気は死で終わるものではない

 さて、この物語を解き明かしているある説教者はこのラザロの甦りについて描かれたいくつかの絵について語っています。確かにこの物語の中では絵の題材になりやすい印象的な風景が数々繰り広げられています。その中でも、最も印象深いのはイエスの呼びかけに答えて、墓の中から生き返ったラザロが姿を現すと言う場面ではないでしょうか。あまり絵に関心のない私でも、この場面を想像するといろいろな風景が脳裏に浮かんできます。

 まず、墓の前に立って「ラザロ、出て来なさい」と呼びかけるイエスの姿を想像すると、人を支配する死の現実に挑む戦士のような凛々しい姿が思い浮かんできます。またそのイエスを取り囲んで「これから何が起こるのだろう」と不安げにたたずんでいるたくさんの人々の姿が思い浮かびます。そこで私はふと、「ラザロはどんな顔で墓から現れたのだろうか」と疑問を浮かべました。ラザロが墓から出てきたときに、その顔は覆いで覆われていたと聖書は説明しています(44節)。ですから墓から出てきたラザロはそこで何が起こっているのかわからなかったはずです。イエスに促されてそこにいた他の人たちが彼の顔を覆っていた布を取ってあげたとき、彼はどんな顔をしていたのでしょうか。私は考えます。ラザロはそこに居合わせた誰よりも、驚いた顔をしていたのではないでしょうか。

 ラザロの記憶はいったいどこまで確かであったのかはわかりません。病気にかかって苦しい日々を送っていた彼は、もしかしたら自分が死んだことさえ覚えていなかったのかもしれません。しかし、その彼が意識を取り戻して、自分の目で見ることができたのは、自分の名前を読んでくださるイエスの姿でした。そして周りで自分の姿を見て驚いている家族や知り合いの人々の姿だったのです。きっと彼は「いったい何が起こったのだろうか」と驚いたに違いありません。
 先ほど、私たちもまたラザロのように生きることができると言いました。いえ、私たちは必ずやがてラザロのような歩みを経なければならないとも言いました。そして実はこの甦ったラザロの姿は、私たちがやがて主イエスによって復活さえられるときの一つのモデルを示していると言えるのです。私たちはそのとき、自分の目の前でどんな光景が繰り広げられるのか、全くわかりません。ただ、確信できることは、そのとき子の出来事に一番、戸惑い、驚きを示さざるを得ないのは私たち自身であると言うことです。私たちが思ってもいなかった出来事を、やがて私たちは体験することできるのです。そのときに私たちの顔にかけられた覆いが取り除かれ、私たちが驚き喜ぶときが必ずやってくるのです。そのときラザロの驚きは、私の驚きとなるのです。

3.救い主の使命を示すために

 さて今日の聖書の箇所を読むと、私たちはここに書かれた不思議なイエスの行動に関心を抱くはずです。最初にラザロが病であると言う知らせがイエスの耳に入ったときに、イエスはすぐに行動を起こされることがありませんでした。むしろ「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」(5節)と言う不思議な言葉を語られた上で、なおその場所に二日も滞在されたと言うのです。
 その後でイエスは改めて、ラザロのいるベタニア村に行く決心を弟子たちに語ります。そのときにイエスは「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう」(14〜15節)とラザロの死をすでに知っておられた様子があるのです。つまり、イエスは病気のラザロをそのままにして、わざわざ彼が死ぬのを待った上でベタニア村に行かれたことになります。その上でイエスはこのことは「あなたがたにとってよかった」と語り、イエスの弟子たちにとってはむしろラザロの死は大切な出来事なのだと言っているのです。ラザロが死ぬことがどうして、彼らにとって大切な出来事となるのでしょうか。それはラザロがイエスの力によって甦ること、そのことを通してイエスが神から遣わされた救い主であると言うことを知ることができたからです。
 先日の礼拝で、イエスに向かってユダヤ人たちが「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」(10章24節)と問うた場面を学びました。そしてユダヤ人たちは救い主としてのイエスに、むしろ独立戦争のリーダーとして武器を取り、民衆に決起を呼びかけるような姿を期待していたことを学んだのです。ここではイエスは本当に救い主なのかと言う問いが投げかけられていたと言えます。そしてその問いに答えるのが今日のラザロの物語であると言うこともできるのです。ここでイエスは私たち人間を支配する死と言う現実に戦いを挑んでおられます。そしてその死の力に支配されていたラザロを甦らせると言う出来事を通して、イエスは私たちの死を滅ぼすために来られた救い主であることが教えられているのです。
 だからこそ、イエスの弟子たちはこの出来事を通して、イエスが真の救い主であることを知る必要があったのです。このようにラザロの物語はイエスが救い主として何と戦い、私たちにどのような祝福を与えるために来られた方かを明確に示しているのです。

4.トマスの絶望を打ち砕くイエス

 今日の箇所の最後の部分はイエスの弟子の一人ディディモと呼ばれたトマスの大変に印象深い言葉で締めくくられています。彼は他の弟子仲間に対して「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(16節)と呼びかけたと言うのです。この言葉がトマスの口から出た理由は8節に記されています。イエスがラザロの住むエルサレム近郊のベタニア村に行くことを決心されたことを聞いた弟子たちは次のようにイエスに語っています。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」。
 イエスを亡き者にしようと狙う人たちがエルサレムで手ぐすねを引いて待ち構えているのです。そんなところに今行けば、自分たちはその餌食になってしまうのは間違いないと彼らは考えました。つまり、弟子たちがこのときイエスの招きに応じて、ラザロの待つベタニアに向かうためにはたいへんな覚悟が必要だったのです。だからトマスは「自分たちも死の覚悟を決めて、イエス様のお供をしようではないか」と仲間たちに呼びかけたのです。
  このトマスの呼びかけは大変勇気に満ちた立派な行為に見えます。しかし、トマスのこの発言には希望のない、玉砕精神にも似た決意だけが漂っているのです。興味深いことにこのヨハネの福音書において、トマスは重要な存在としてもう一度、別の箇所に登場してきます。それは復活されたイエスが弟子たちと再会する場面です(20章)。この物語の中でトマスは強情なくらい、イエスの復活を受け入れることができない人物として紹介されています。確かに彼だけは、イエスが弟子たちの元に現れたときにたまたまそこに居合わせることができませんでした(20章24節)。だから、トマスだけはイエスの復活と言う事実を受け入れることができなかったのは当たり前とも言えます。しかし、他の弟子たちが喜びを持ってその出来事を報告するとき、彼が頑なになってそれを受け入れられなかったのには別の理由が考えられるのです。それは彼が持っていた一つの堅い信念とも言えるものです。トマスにとって人の死はすべての終わりでしかなかったのです。死の向こうには何もないのです。そのように考えるトマスであったからこそイエスの復活を受け入れることができず、また「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と皮相的な決意を語ることしかできなかったのです。
 そんな彼がその自分の堅い信念から解放されることができたのは、彼に向かって呼びかけるイエスの言葉を聞いたからです。復活されたイエスはトマスの前に現れて「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(20章27節)と語りかけられました。トマスはそのとき自分を呼んでくださるイエスの言葉をはっきりと聞くことができたのです。だから彼は、自らの絶望的な信念から解放されて、主イエスの復活を信じ、そのイエスの復活を証しする使徒として生まれ変わることができたのです。
 ラザロの物語の中でもイエスは「ラザロ、出てきなさい」と彼に呼び変えています。そしてこの声を聞いたラザロは、死から甦ることができたのです。イエスの呼びかけがトマスを絶望から救い出し、そしてラザロを死から救い出したのです。イエスはご自分と私たちと関係を羊飼いとその羊にたとえられたことを私たちはすでに学びました。 「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(10章14節)。羊飼いはいつも自分の羊を守り、羊たち一匹一匹の名前を呼んで彼らを様々な危険から救い出します。だから私たちもまたイエスの羊としてこの声を聞くことができるのです。絶望の中で私たちに呼びかけてくださる主イエス・キリストの声を聞いて、私たちは希望へと導かれます。また、私たちを支配する罪と死の状態から、イエスは私たちの名前を呼んで永遠の命の世界へと導かれるのです。そのとき私たちもまたトマスやラザロが体験した喜びを確かに味わうことができることをヨハネの福音書は私たちに教えているのです。

【祈り】
天の父なる神様
 ラザロがあなたの栄光を表わすことができたように、私たちの人生をあなたがそのように用いてくださいますように。私たちが私たちを呼んでくださるイエスの御声を聞いて、死の絶望から解放され、永遠の命の喜びに生きることができますように。いつも聖霊を遣わしてその御声を聞き分ける力を与えてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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