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礼拝説教 桜井良一牧師
イエスの死の意味

(2008.10.05)

聖書箇所:ヨハネによる福音書11章45〜54節

45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。
46 しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。
47 そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。
48 このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう。」
49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。
50 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」
51 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。
52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。
53 この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ。
54 それで、イエスはもはや公然とユダヤ人たちの間を歩くことはなく、そこを去り、荒れ野に近い地方のエフライムという町に行き、弟子たちとそこに滞在された。
55 さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。
56 彼らはイエスを捜し、神殿の境内で互いに言った。「どう思うか。あの人はこの祭りには来ないのだろうか。」
57 祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスの居どころが分かれば届け出よと、命令を出していた。イエスを逮捕するためである。

1.ラザロの復活の意味
(1)目に見えない事実を信じる

 このヨハネによる福音書の11章で繰り広げられたイエスによるラザロの復活の出来事を受けて人々の間で起こった反応が今日の箇所では記されています。

 「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた」(45〜46節)。

 死んで墓に葬られた後にすでに四日も経っていたラザロがイエスによって甦ると言う驚くべき奇跡を体験した人々に起こった反応の中で一番多かったのは、これによって「イエスを信じた」と言うものでした。しかし、人々の反応はそれだけではなかったようです。残された一部の人はこの出来事をイエスに敵対するファリサイ派の人々に報告したと言うのです。この人々がイエスの奇跡をどのように受け止めたのかは定かではありませんが、この文章から考えると彼らは「イエスを信じる」より、この出来事をファリサイ派の人々に知らせることが重要であると判断したことが分かります。つまり、彼らにとってはこの出来事はイエスに対する信仰を自分たちに起こさせるものにはならなかったと言うことになる訳です。
 死んだ人が甦ったと言う驚くべき奇跡を目の前にしながら、それがイエスへの信仰に結び付かないと言う事実をこの福音書は私たちに教えています。今でもある人々は「自分の目ではっきり神様が見えたら信じるのに」と語ります。しかし、ヘブライ人への手紙の著者が語る有名な信仰の定義では「信仰とは見えない事実を確認することです」(11章1節)とあるように、見えないものを確信することが信仰であって、見えるものを確認することは信仰とは言えないのです。この定義に従うと、ここで多くの人が信じたのは目に見えるラザロの復活と言う出来事ではなくて、それを通して示された見えない何かを信じたと言うことにもなります。なぜなら彼らは目に見える事実を単に「確認した」と言われるのではなく、「信じた」と言われているからです。

(2)イエスを自分の救い主と信じる

 だから彼らは自分たちが目撃したラザロの復活を通して「イエスを信じた」とここで言われているのです。それではいったい彼らはイエスの何を信じたのでしょうか。多くの人々はイエスをガリラヤ出身の大工ヨセフの子とは認めることができました。それはまさに「目に見える事実」に属した事柄だからです。ですから、彼らはこのラザロの復活の出来事を通してイエスが神の元から遣わされた救い主であると言うことを信じたのです。しかも、ヨハネによる福音書はこの信仰は目に見えるラザロの復活を目撃しただけでは生まれないことを私たちに教えているのです。
 イエスを信じた人々とそうでない人々を分ける決定的な事柄が目に見える事実の他にあったことをこの福音書は私たちに示唆していると言えるでしょう。そしてその決定的な事柄こそキリストの私たちに対する招きにあることを私たちはこのヨハネの福音書を続けて学ぶことによって教えられて来たのです。ラザロの復活を目撃した人の中で、多くの人々は自分たちを死の呪いから解き放ってくださるためにやってきてくださった救い主イエスを知り、そのイエスが自分を招いてくださっている声を聞いたのです。彼らはその「あなたも、死の闇から時がやってきた」と言うイエスの御声を聞いたからこそ、イエスを自分の救い主と信じることができたのです。
 そして、その人たちにとってラザロの復活と言う事実はもう一つ確かな真理を彼らに示すものとなりました。それはやがて自分たちもこのイエスの声を聞いて墓から甦ることができると言う真理です。イエスを信じない者にはラザロの復活は退屈な日常に起こった何か物珍しい出来事の一つに過ぎませんでした。しかし、イエスを信じる者にはラザロの復活は喜ばしき福音であり、私たちを死の絶望から永遠の命の希望へと導くものとなったのです。

2.イエスの死の意味
(1)既得権を失うことを恐れた人々

 さて、ラザロの復活を目撃した一部の人々の通報により、この事実を知った「祭司長たちやファリサイ派の人々」はこの出来事に対処するために最高法院を召集したと言われています。ここに「祭司長たちやファリサイ派の人々」と語られていますが、「祭司長たち」は当時のユダヤの宗教界を二分する一方のグループであったサドカイ派に属する人々で、「最高法院」はこのサドカイ派とファリサイ派の人々から選ばれた議員によって構成された会議で、現在の日本でいれば国会のような国家を代表する機関であったと考えることができます。つまり、彼らはこのとき、わざわざ国会を召集せざるを得ないような国家にとっての緊急時が起こったと考えていたことになります。彼らはそれではいったいどのような心配を抱えていたのでしょうか。彼らの語った次の言葉がそれを明らかにしています。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」(47〜48節)。
 このままだと民衆の人気はイエスの元に集まってしまうに違いないと彼らは判断しました。そしてもし、その民衆がイエスを自分たちのリーダーにしてローマ帝国へ反旗を翻せば、ローマはその巨大な軍隊の力を遣って反乱を鎮圧するに違いありません。そうなると自分たちが今まで守り続けて来た神殿や、国の制度も国民もろともに滅び去ってしまう恐れがあります。おそらく、ローマの圧政に苦しむ一般の民衆は失うべきものはあまりなかったのかもしれません。しかし彼らに対して、この指導者たちはローマの支配の元でもたくさんの財産や既得権を持っていたのです。だからそれを失うことを彼らは恐れたのです。そのためにそのような悲劇が起こらないために自分たちはどうしたらよいのかと言う議題が宗教法院で討議されたのです。

(2)カイアファの預言

 するとそこに参加していた議員の一人であった大祭司のカイアファが次のように発言します。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(49〜50節)。このカイアファの発言は非常に横柄で、そこにいる議員たちを馬鹿にしたような言葉から始まっています。「あなたがたは何も分かっていない」。「お前たちは何も知らないが、私だけはよくわかっている」。自分だけが正しい知識と冷静な判断ができると言わんばかりの物言いです。彼はイエス一人を殺してしまえば、この問題は簡単に解決して、国全体が助かるではないかと言うのです。
 大祭司は通常、神の前に出て民をとりなすことが重要なつとめでしたが、ときには神の言葉を受けてそれを民に知らせる役目も果たすことがありました。カイアファはあたかもこれこそが神の御旨であると言わんばかりに、イエスを殺害する提案を最高法院でしたのです。しかし、彼のこの預言は実は大きく外れたものでした。なぜなら、彼はここでイエスを殺すことが、神殿を初めとするユダヤ国家存続の道だと説いた訳ですが、イエスの死後、紀元70年頃に起こったユダヤ独立戦争で、ローマの軍隊はエルサレムを征服し、神殿は完全に破壊されてしまいます。そればかりではなく、この後ユダヤと言う国家自身が世界史の中で消滅してしまったのです。そしてカイアファが属したサドカイ派は神殿で働く祭司を中心としたグループでしたから、この神殿の崩壊とともになくなってしまいます。これ以後、世界に散らされたユダヤ人たちの宗教はもう一方のファリサイ派の流れを組むものだけになってしまうのです。

 しかし、ヨハネはこの大はずれであったカイアファの預言が実は真実のことを告げていたことを語っています。「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである」(51〜52節)。

 ヨハネはイエスの死は散らされていた神の子が一つに集められるためのもの、つまり神の元から離れてしまった神の子たちがもう一度神の元に集められるためのものだったと語るのです。ここにはイエスの死に関する二つの解釈が並列されています。一方はカイアファの解釈であり、それはイエスの死はユダヤの国家を存続させるためのものであると言うことです。しかし、ユダヤはこの後、ローマの軍隊によって滅ぼされてしまいますから、イエスの死は全くの無駄死にということになってしまいます。しかし、もう一方の解釈はイエスの死があってこそ、私たちが神の子としての取り扱われることができ、その死によって私たちはやがて一つにされるのだというものです。つまり、イエスの死は私たちと神様との関係の回復させるためのものであったと言う解釈です。

(3)どちらを受け入れるか

 私は小学生の頃に近所の本屋さんで世界の偉人を紹介するものの一冊として「イエス・キリスト」と言う題名の本を母に買ってもらったことがあります。私はそのころエジソンや野口英世やいろいろな世界の偉人の本を読んで、それらの人の生涯にあこがれを抱いていたことを思い出します。しかし、この「イエス・キリスト」と言う本は全く別な印象を当時の私に与えました。イエスはたくさんよいことを人々のために行ったのに、彼の最後は無実の罪で、しかも、自分がよいことをしてやった人々からも「十字架につけよ」と言われて殺されてしまったからです。私はこの物語を読んでともて怖くなりました。せっかく苦労してよいことをしても、無実の罪で殺されてしまう、そんなことが自分も起こったらどうしようと怖くなったのです。結局、私はその本を最後まで読むことができませんでした。おそらく、そのために私はイエスの復活と言う出来事を知らないままに、イエスの生涯は不幸なものだったと言う結論をその後、抱き続けたのです。
 しかし、イエスの死は無駄ではないと聖書は教えています。いえ、イエスの生涯のすべてはこの死のためにあり、イエスの死こそが大切であることを聖書は教えているのです。聖書が教えるイエスの死の意味は、単なる説明ではなく、同時にこの福音書を読む人への問いとなっています。あなたはイエスの死についてどちらの解釈を信じるのかと聖書は私たちに問うのです。彼の死を単なる歴史上の偉人の不幸な死として受け取るのか。それとも自分のためにイエスが死んでくださったことを受け入れるのかと言うことをです。この福音書はまさにここで私たち読者たちに信仰を要求しています。イエスは確かに死にました。しかし、その死を通して表わされた目に見えない真実をあなたは信じる必要があると語っているのです。

3.私たちの死の意味

 ラザロの復活を受け止めた人々の二種の反応と同じように、この聖書の私たちへの問いに対しても二つの反応が予想されます。そして、もし私たちがこのイエスの死を信仰を持って受け入れるなら、実は私たち自身の死の意味もそのときから全く変えられてしまうと言えるのです。私たちの使っている信仰問答の一つであるハイデルベルク信仰問答はそのことを次のように教えます。私たちがイエスの死を自分のための死と受け入れ信じるならば、私たちがこの地上で体験する死は第一に私たちを支配していた罪に対する死、つまりもはや私たちを苦しめていた罪から私たちが解き放たれるときだと説明しています。そして、第二に私たちの地上の死は永遠の命への入り口であると解説しているのです。
 イエスの死の意味を信仰を持って受け入れない人にとって、私たち人間の死は単なるすべての終わりでしかありません。しかし、イエスの死を信仰を持って受け入れる人にとってはむしろ人間の死は、終わりではなく、希望に輝く新しい命の始まりとなるのです。
 水曜日の夜の黙示録の学びで、ヨハネが示された幻の意味について学んでいます。ヨハネの黙示録が書かれた頃、信仰の故にローマ帝国の激しい迫害に合っているキリスト者たちの現実がヨハネの前にはありました。しかし、ヨハネが示された幻は、その現実の背後に隠された真実の姿でした。ローマ帝国のようなこの世の権力を用いて、教会を迫害している張本人は竜の姿に象徴されるサタンであったのです。しかし、サタンはすでに天においてキリストとその教会との戦いに敗北して、この地上に落とされてきたものなのです。地上に落とされたサタンの最後の悪あがきがヨハネの体験している今の現実です。しかし、そのサタンはもはやキリストとその教会との戦いに敗北した存在でしかないとその幻は教えているのです。ヨハネはこの幻を迫害の元で苦しんでいる人々に伝えることで彼らを慰め、励ます働きをしたのです。
 今日の箇所でも、私たちの体験する現実に隠された、神の真実が明らかにされています。私たち人間は誰でもやがて自分の死を経験しなければなりません。どんなに抵抗したとしても、この死を免れる人はこの世に誰一人いないのです。そのとき私たちはあたかもこの死に敗北したかのようにして地上の生涯を終えるように思えます。しかし、福音書記者ヨハネはその解釈は神の示される真実とは違うとここで教えているのです。イエスがすでに私たちのために死んでくださったのだから、もはや私たちを支配している死は敗北してしまったと聖書は語るのです。だから私たちもまた、地上の死を確かに体験した後に、あのラザロと同じようにイエスの声を聞いて墓から甦る日が必ず訪れることを信じることができるのだと教えているのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 ラザロの復活を目撃して、イエスを信じた人々と同じように、イエスの死を私たちのためのものであったことを信じることができるようにしてください。そして目に見える現実の中で、隠されたあなたの希望に満ちた真理を私たちに教えてください。私たちをいつも呼び集めてくださる主イエスの御声を聞かせてください。
主の御名によってお祈りいたします。

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