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礼拝説教 桜井良一牧師
キリストと共にある人々

(2008.10.19)

聖書箇所:ヨハネによる福音書17章13〜26節

13 しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。
14 わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。
15 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。
16 わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。
17 真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。
18 わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。
19 彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。
20 また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。
21 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。
22 あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
23 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。
24 父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。
25 正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。
26 わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」

1.「大祭司の祈り」

 教会ではたびたび祈祷会を開き、教会に集う兄弟姉妹のために祈りを捧げるときを設けています。その祈祷会では健康を害している人の病が癒されるようにとか、仕事を探している人にふさわしい仕事が与えられるようにとか様々な祈祷の課題が挙げられ、その祈りを本人に代わって祈りっているのです。このような祈りを普通、「執り成しの祈り」と呼んでいて、この執り成しは教会が担っている重要な役割の一つであると考えられています。ときには教会に集う兄弟姉妹だけではなく、もっと広範囲な祈祷課題、世界平和や国家の為政者たちのためにも私たちは神様に祈りを捧げることがあります。
 聖書の時代、イスラエルの民のために祈り、神様に執り成す責任を負っていたのは神殿で働く祭司でした。その中でも「大祭司」と呼ばれる人物は特別な任務を負っていました。大祭司はイスラエルの民の罪を神様が許してくださるように、そのための生け贄を捧げ、祈りを捧げる重要な任務を負っていたのです。しかし、実際の大祭司は必ずしもその働きを忠実に果たしてはいなかったことを、私たちはつい先日この礼拝で、カイアファと言う大祭司の行動を通して学びました。彼は民のためではなく、むしろ、自分たちの利害が守られるようにとイエスを殺害する計画建て、ユダヤの最高議会で提案したのです。
 ところで、私たちが今日学ぼうとする聖書の箇所にはイエスが神様に捧げられた祈りの文章が記されています。イエスが逮捕される直前に捧げられたこの祈りの文章はよく、「大祭司の祈り」と言う呼び名で人々に呼ばれています。聖書はイエス・キリストこそ私たちの罪人のための真の大祭司であることを教えています。イエスこそ、自らの命を神様への犠牲の捧げ物として捧げ、私たちのために罪の許しを願う祈りを捧げてくださった方だからです。そのイエスの大切な祈りの文章がここに記されているのです。

今日の聖書朗読箇所の冒頭でイエスは次のように祈っています。
 「しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」(13節)。

 この祈りは私たちが喜びに満たされるためにイエスが捧げられた祈りなのです。しかも、この喜びには「わたしの喜び」と言う但し書きが付けられています。主イエスが味わうことができた喜びと同じ喜びに私たちが満たされることができると言うのです。それではいったいこの喜びとはどのようなもので、どのような形で私たちのうちに実現するのでしょうか。

2.喜びに満たされるために

 私たちもまた、毎日の生活の中で喜びに満たされたいと願っています。「生きていて本当によかった」と言うような充実感に満たされた人生が送れたら何と幸福なことでしょうか。それでは私たちは普段、毎日の生活の中でどんな喜びを求めているでしょうか。そこで私たちを心から喜ばせているものとはいったい何なのでしょうか。先ほど祈祷会のことを話しました。この祈祷会で多く祈るのは病気の人が癒されるように、また仕事を探している人にふさわしい職場が与えられるようにと言う課題です。これから年も押し詰まってくると今度は受験のシーズンがやってきます。そうすると受験生が希望の学校に入れるようにと祈ることも多くなって来ると思います。病が癒される、職場が見つかる、希望の学校に入学することができたる、これらを心から待ち望んでいた人にとっては、その実現は確かに大きな喜びを与えるはずです。しかし、不思議なことにこのイエスの祈りにはそれに似たような、課題が出てくることがありません。つまり、イエスは私たちにこれらの事柄とは全く違った喜びを提供されようとしていることが分かるのです。
 このイエスの祈りを理解するために、私たちはまず、このイエスの祈りがそもそも誰のために、どうして捧げられたのかと言う直接的な事情を知る必要があるかもしれません。先ほどの祈りの中にも「彼らが」と言う言葉が登場しています。ここでイエスが直接に執り成している「彼ら」とはイエスにこれまで付き従ってきた弟子たちのことを言っています。それでは、どうしてイエスはこのとき、この弟子たちのために特別な祈りを捧げる必要があったのでしょうか。この17章の後、皆さんが持っておられる新共同訳の18章の最初につけられた小見出しをご覧になられると「裏切られ、逮捕される」と言う文章がつけられていることを皆さんも確認することができると思います。イエスはこのときご自分がやがてユダヤ人たちに捕らえられることをあらかじめ知っておられて、その上で弟子たちのために祈っておられるのです。自分が逮捕された後に、弟子たちが守られるように(11節)と祈っておられるのです。弟子たちはこの後、様々な困難に出会うことになるはずです。そのとき、彼らが一番の問題は何でしょうか。それはイエスがいないと言うことです。今まで、彼らはたくさんの困難を味わいながら、ここまでイエスに従ってきました。どうして、彼らがイエスに従うことができたのでしょうか。それは今まで彼らと共にイエスがおられ、彼らを助け導いてくださっていたからです。そのイエスがいなくなってしまったら彼らはどうなるでしょうか。いったい彼ら自身に困難に打ち勝つ力はあるのでしょうか。いえ、彼らがここまでイエスに従って来て、一番学んだことは、「自分たちはイエスなしには何もできない」と言うことではなかったことでしょうか。もし、そのイエスがいなくなってしまったら弟子たちはすぐに不安になるはずです。決して彼らが「喜びに満たされる」などと言うことは起こらないはずです。だからこそ、イエスはその弟子たちが「喜びに満たされる」ように、しかもイエスと同じ喜びに満たされることができるようにと祈られたのです。
 聖書学者たちの見解によれば、このヨハネの福音書を受け取った人々も大きな困難に出会っていたと言われています。それまでキリスト教徒はユダヤ教徒と一緒に礼拝したり、生活することがあったのですが、このヨハネの福音書が書かれた当時、このユダヤ教徒との対立が激しくなり、キリスト教徒はユダヤ教会からの迫害を受けるようになりました。また、そればかりではなく、キリスト教会はローマ帝国の弾圧を受けることようにもなっていたのです。このような困難を覚えているキリスト教会にとって一番の問題は、昔のようにイエスが彼らと共にいて、彼らを助け導いてくださることを、目では確認できないと言うことでした。確かに彼らはイエスが今も生きておられると信じていたはずです。しかし、そのイエスは私たちとどのように関わり、導いてくださっているのか、立て続けに起こる問題の中で彼らもまた大きな不安を感じざるを得なかったのです。

3.祈りの意味
(1)イエスのいる所に

 イエスの祈りの結論からまず先取りして考えるなら、イエスはこう祈っています。「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」(24節)。
 イエスは弟子たちがどのような困難な状況の中に立たされても「わたしのいる所に、共におらせてください」と祈られたのです。「わたしのいる所」と言われていますが、これは具体的な場所をどこか指しているのではなく、イエスとの変わることのない愛の関係の中にいると言う意味を持った言葉であると考えることができるでしょう。イエスご自身、この地上の生涯の中で様々な困難に出会われ、最後には十字架にかけられ、殺されると言う道を辿りました。しかし、たとえどのような困難を覚えるときにもイエスの内からその喜びが奪われることはなかったのです。それは彼が父なる神との愛の関係の中にいつもいることができたからです。そしてイエスは、それと同じ祝福を弟子たちも受けることができるようにと祈られたのです。もちろん、このイエスの祈りはこのヨハネの福音書を最初に受け取った人を始め、この福音書を読むすべての人々に捧げられた祈りであると言えるのです。
 私たちがたとえどのような状況に置かれたとしても、変わらないイエスとの愛の関係の中で生きることができるように、そしてそこから誰にも奪われることのない喜びを受けることができるようにと祈られたのが、このイエスの捧げられた「大祭司の祈り」の内容だったと言えるのです。

(2)御言葉に生きるために

 ところでイエスはこの祈りが実現するために、さらに具体的な課題を今日の箇所で祈っていることが分かります。その祈りは大きく分けて二つの部分に分かれています。一つは前半の13から19節の部分で弟子たちが、イエスが与えてくださった御言葉に生きることができるようにと言う祈りです。もう一つは20節からの後半部分で、弟子たちだけではなく、彼らが伝える御言葉によってさらに起こされる信仰者のすべてが一つになれるようにと言う祈りです。
 もし、イエスがこの地上から去られる時、私たちもまたイエスと共に同じところに行くことができるなら、それはすばらしいことではないでしょうか。ところがイエスは、ここで弟子たちがなおこの地上にとどまる必要があることを告げています。それは彼らがイエスから伝えられた御言葉に生き、それを世に証しすると言う使命を果たすためでした。弟子たちはこの使命を果たすためにしばらくこの地上にとどめられたのです。
 彼らがこの地上にとどまって御言葉に生き、御言葉を証しするとき、世は返って彼らを憎むことになるとイエスはここで預言されています(14節)。そして、それは弟子たちが世に属しているのではなく、イエスのものとされている証拠だと言ってくださっているのです。なぜなら、イエス自身もこの地上で彼らの憎しみの対象となったからです。もし、このとき私たちがこの世から与えられる喜びを期待して生きているのなら、私たちは世と迎合して、世に従って生きなければなりません。しかし、その喜びは決してイエスの喜びではないと聖書は語っているのです。
 イエスは世の憎しみの中にあっても私たちが御言葉に生き、それを証しし続けることができるように祈られました。私たちがその中でも守られて、その使命を全うできるように、そしてイエスと同じ喜びで満たされるようにと祈られたのです。その上でそれが実現することができるように自分自身を捧げると言われているのです(19節)。イエスの救いの御業が実現することで、私たちは助け主なる聖霊を受けることができるようになりました。だから私たちはこの聖霊の働きによって御言葉に生きることができるようにされ、イエスとの変わらない愛の関係の中に生きるようにされているのです。

(3)教会の交わりの中で一つとされるように

 もう一つ、イエスはここでイエスを信じる者が一つとなれるように(21節)と祈っています。確かにこの世には様々な集団が存在します。そして、その集団の中では親子の関係よりも親密な関係が求められるところもあるのです。しかし、ここで私たちが一つとされると言う意味は決して人間的な親しさを意味しているのではありません。それはイエス・キリストの贖いによって回復された神との豊かな愛の関係の中で一つとされると言う意味なのです。言葉を換えて言えば、この一つにされるとはイエスを信じ、イエスを通して神を礼拝するキリスト教会の交わりの内に私たちが集められて一つとされると言うことではないでしょうか。イエスはこのキリスト教会の交わりの中で、イエスの喜びに私たちが満たされるようにと祈られたのです。
 この礼拝でも何度もお話していますが、このヨハネの福音書は教会の交わりの大切さについて大変興味深い物語を私たちに伝えています。イエスが甦られた最初の日曜日のこと、復活されたイエスはエルサレムの町のある家の中にいた弟子たちのその真ん中に立たれて、そのお姿を弟子たちに示されました。弟子たちはこのときイエスの姿を見て大いに喜んだと語られています(20章20節)。ところがこのとき、イエスの弟子であったトマスだけはその喜びを味わうことができませんでした。彼はそのときに、他の弟子たちと一緒にいなかったからです(24節)。しかし、やがてこのトマスも他の弟子たちと同じように喜びに満たされるときがやってきます。それは次の週の日曜日にトマスもまた他の弟子たちと一つになって集まっていたからです。だからトマスは今度は確かに復活されたイエスに出会うことができたのです。
 このお話は私たちが毎日曜日に捧げている礼拝の原型のようなものを示しています。私たちは毎日曜に、共に集まって神様に礼拝を捧げています。そして、そこに集まる人々にキリストは今も、聖霊を遣わし、イエスとの変わることのない愛の関係に生かされていることが分かるようにしてくださるのです。そして私たちをイエスの喜びで満たしてくださるのです。このイエスの捧げられた祈りがあるからこそ、私たちが今捧げている礼拝は、イエスがいる場所と変えられます。そしてそこに集う私たちがイエスの喜びで満たされることができるようにされるのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 私たちのために祈り、私たちのために命を捧げられたイエスの姿を通して、あなたが私たちに与えてくださった喜びと、祝福を知りました。どうか私たちも御言葉に生きることを通して、あなたから与えられた使命を全うすることができるようにしてください。共に集められた兄弟姉妹と共に一つとなってあなたを礼拝し、あなたの愛の中で生き、あなたの喜びに私たちも預かることができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

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