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礼拝説教 桜井良一牧師
「神の民の選び」

(2008.11.09)

聖書箇所:創世記13章1〜18節マタイによる福音書3章7〜12節

1 アブラムは、妻と共に、すべての持ち物を携え、エジプトを出て再びネゲブ地方へ上った。ロトも一緒であった。
2 アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた。
3 ネゲブ地方から更に、ベテルに向かって旅を続け、ベテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来た。
4 そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった。
5 アブラムと共に旅をしていたロトもまた、羊や牛の群れを飼い、たくさんの天幕を持っていた。
6 その土地は、彼らが一緒に住むには十分ではなかった。彼らの財産が多すぎたから、一緒に住むことができなかったのである。
7 アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた。そのころ、その地方にはカナン人もペリジ人も住んでいた。

8 アブラムはロトに言った。
「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。
9 あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」

10 ロトが目を上げて眺めると、ヨルダン川流域の低地一帯は、主がソドムとゴモラを滅ぼす前であったので、ツォアルに至るまで、主の園のように、エジプトの国のように、見渡すかぎりよく潤っていた。
11 ロトはヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東へ移って行った。こうして彼らは、左右に別れた。
12 アブラムはカナン地方に住み、ロトは低地の町々に住んだが、彼はソドムまで天幕を移した。
13 ソドムの住民は邪悪で、主に対して多くの罪を犯していた。

14 主は、ロトが別れて行った後、アブラムに言われた。
「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。
15 見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。
16 あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。
17 さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」

18 アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた。

(新P.4)
7 ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。
8 悔い改めにふさわしい実を結べ。9 『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。
10 斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。
11 わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。
12 そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」

1.族長アブラハム
(1)何が間違いなのか

 イスラエルの民にとって族長アブラハムは神様と自分たちとの関係をつなぎとめる鍵のような人物であったと考えることができます。旧約聖書に登場するこの一人の人物に対して神様は何度も「あなたの子孫を祝福する」という約束をされています。イスラエルの民はこの神様とアブラハムの間に交わされた約束を根拠に、アブラハムの血族であり、その子孫である自分たちこそ神様の祝福を受けるにふさわしいものであると考えてきたのです。ところがこのイスラエルの民のもっていた確信に揺さぶりをかけるような人物が現れました。しかも、その人物はそのイスラエルの民の中から登場したのです。それがバプテスマのヨハネと呼ばれる人物です。ヨハネは確かにイスラエルの民の信仰の確信を揺るがすような発言をしてイスラエルの民に迫りました。

「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(9節)。

 しかし、ヨハネはここで旧約聖書から伝わるイスラエルの民の信仰を破壊するために現れたのではありませんでした。むしろ彼はイスラエルの民に「悔い改めよ」と呼びかけることで、彼らの信仰の目をもう一度、神様の元へ向けさせようとしたのです。つまり、イスラエルの民の信仰の目はこのときすでに神様とは違うものを見ていたと言うことになります。それではいったい、このときイスラエルの民の関心はどこに向けられていたと言うことになります。それでは、アブラハムと神様との間に交わされた約束に自分たちの信仰の確信を置こうとした彼らの行為はどうして間違っていたと言えるのでしょうか。私たちはこのことについて、旧約聖書に記された族長アブラハムと神様との約束に立ち返りながら考えて見たいと思うのです。

(2)拠り所を捨てたアブラハム

 アブラハムと言う人物は旧約聖書の創世記12章に突然登場しています。アダムとエバの物語から始まる創世記に記された人間の歴史はこれ以前にはほとんど世界の民族の歴史を記録しているのですが、その視点はこの12章を境として一人の人物アブラハムに移され、これ以後、聖書の関心はこのアブラハムの子孫たちにのみ集中されているのです。
 アブラハムの出身地は現在のイラク、メソポタミア地方であったと考えられています。創世記はこのアブラハムが神の招きの言葉を聞いて、旅に出るところから彼についての物語を始めています。「わたしの示すところに行きなさい。あなたをわたしは祝福し、大いなる国民としよう」(12章1〜3節)と神様はこのアブラハムに呼びかけました。その神様の招きに答えて旅立ったアブラハムには、「生まれ故郷、父の家を離れる」と言う代償が払うこととなりました。
 このアブラハムの出発は私たちの信仰生活の出発をも象徴する出来事であると考えることができるでしょう。私たちは今までいろいろなものに自分の拠り所を置いて生きて来ました。アブラハムがその旅の出発に離れなければならなかった「生まれ故郷、父の家」とは彼が今までの生涯の歩みの中で拠り所としていたものに違いありません。ですから神様の招きに答えて信仰の歩みを始めるとは今まで自分が拠り所としていたところから離れて、神様にのみ希望の根拠を置くこと、それが私たちの信仰の歩みの出発であると言えるのです。決して、私たちの信仰は私たちが今まで拠り所としていたものを強化するための助けのようなものではありません。そうではなく、信仰は私たちの頼るべき唯一のお方に目を向けて、その方の指し示すところに歩み出ることだと言うことをこのアブラハムの物語は私たちに教えているのです。

2.ロトとの間に起こった争い
(1)礼拝の場に戻る

 信仰者アブラハムの生涯は決して完璧なものではありませんでした。アブラハムが神に指し示された土地は決して彼に永遠の安楽を約束するところではありませんでした。すぐに起こった激しい飢饉のためにアブラハムはその土地から離れて、豊かな作物で潤っているエジプトに逃避してしまいます。その上、アブラハムは自分の身を守るためにエジプトの地で妻を自分の妹だと偽ることとなります。その結果、思わず災難がエジプトの宮廷を襲い、アブラハムは再び神様の約束された土地へと戻っていくのです(12章16〜20節)。

 信仰者の生活にも様々な問題が起こります。そしてその多くは私たちの軽率な判断から起こることも疑うことの出来ない事実であると思います。しかしそのような失敗を犯したときに私たちはどうすべきなのでしょうか、神に申し開きができるように、自分一人で何とか問題を取り繕うことが大切なのでしょうか。アブラハムはこの困難に際して、彼が最初に神様に祭壇を築き、礼拝を献げた場所に戻っています(4節)。私たちにとって大切なのは、礼拝の場所に戻ることです。そしてまずそこで神様との関係を修復することです。そうでなければ、私たちはますます神様から離れていってしまうはずです。私たちにとって最も怖ろしい出来事は、私たちが「神様なしでも生きて行ける」と勘違いしてしまうことではいでしょうか。私たちが自分の力で問題を解決できると思い込んでしまうことです。その点でアブラハムの生涯の特徴は問題のない信仰生活にあったのではなく、問題の解決をいつも神様に求めたところにあたったと言うところにあるようです。

(2)アブラハムの決断

 創世記13章ではアブラハムが神の指し示された土地に戻ったときに起こった出来事が記されています。ここでアブラハムの使用人と彼の甥であったロトの使用人の間に争いが起こります(7節)。その原因はアブラハムとロトの財産である家畜が豊かに増えたのに対して、彼らの住む場所が十分ではなかったらだと説明されています。アブラハムはここで再び神が与えてくださった土地の問題で苦労することになったと言うのです。しかし、ここでのアブラハムがとった問題解決のための行動は先のエジプト事件と大きく違っていました。あのときはまず、自分の保身を考えたアブラハムがここではそのことを棚上げした上でロトに次のように提案しているのです。

「わたしたちは親類どうしだ。わたしとあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう」(8〜9節)。

 故郷を捨てたアブラハムにとって甥のロトは唯一の血族でした。実はこのときアブラハムとその妻サラとの間にはまだ子供がいませんでした。そしてこのことはこの物語の後、新たなストーリーとして転回されていきます。しかしそんなアブラハムにとってロトは大切な家族であったに違いないのです。ところが、アブラハムはこのロトとの別離を決断しています。「自分はこのことで親族と争いたくない」とアブラハムは語ります。彼はロトに「争うことより、お互い別れて暮らそう」と提案しています。その上でアブラハムは家長が持つべきはずの権利を放棄して、ロトに自由な選択の道を与えるのです。本来なら、家長であるアブラハムがロトに「あそこに行きなさい」と命じる権利があるのに、彼はその権利を行使せず、ロトにその優先権を与えています。
 そこでロトは目を上げて眺めて、エジプトのように潤っていたヨルダン川流域の低地に移り住む決心をしています(10〜13節)。しかし、この決定がロトとその一家の後に起こる悲惨な出来事を引き起こす原因となっていきます(19章)。

(3)アブラハムへの約束

 この結果アブラハムはカナン地方の高地、決して家畜を飼うには適してはいない荒涼とした土地に住むことになりました。しかし、この決断をしたアブラハムに神は次のように語りかけます。

「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」(14〜16節)。

 アブラハムに語られた神の祝福の約束です。ところで、私たちはこの有名な約束の言葉の中で、これもまた有名な「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」と言う言葉に心を向けたいと思います。確かに大地の砂は数えきることができないものです。その意味で神の豊かな祝福を例えるにはふさわしいものなのかもしれません。しかし、私たちはこうも考えることができると思います。アブラハムが目を上げたときに、そこには大地を潤す草花も水も何もなく、ただ荒涼とした荒れ野が広がっていたのです。そしてそこにあるのは「砂粒」だけだったのです。つまり神がアブラハムの目に見せることができたのはこの砂粒だけであったのです。だから神はその砂粒を使って御自身の祝福の約束をアブラハムに伝えようとしたと考えることができるのです。
 アブラハムの目の前に広がっていた光景は、彼を豊かな国民とする条件を何一つ持ち得ない荒れ野だったのです。しかし、神様はあえてその荒れ野をアブラハムに示すことで彼に対する祝福の約束を語られたのです。それはどうしてでしょうか、神の祝福は人間の考えるいかなる条件をも超えて実現することをアブラハムに伝えるためでした。そしてアブラハムはこの荒れ野を祝福の地に変えてくださる神を信じたのです。

3.アブラハムの信仰の子孫となれ

 バプテスマのヨハネは荒れ野で人々に悔い改めを説いたと言われています。人々はヨルダン川沿いの地方から集まって彼から洗礼を受け、彼のメッセージに耳を傾けることになりました。つまり、ヨハネはロトが選んだ土地と同じように潤う土地に住む住民を、わざわざ荒れ野に導き出したのです。それは言葉を換えて言えば、アブラハムが見た光景を彼らに再び見せるためであったとも考えることができるのではないでしょうか。
 彼は潤った土地に広がる草原ではなく、枯れた荒れ地に転がる石を指さして彼らにこう語りました。「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを作り出すことがおできになる」。それはイスラエルの民にとっては非常に厳しい裁きの言葉のように聞こえたはずです。しかし、同時にこの言葉は荒涼とした荒れ野の砂粒を通して豊かな祝福を約束した神様の言葉に通じてくるのではないでしょうか。神はどんなところであっても祝福の場所に変える力を持っておられるのです。神に不可能と言うことはなに一つないのです。同じように神はどのような人々をもアブラハムの子孫として、神の選びにあずかる民とすることができる方なのです。人が誰から生まれたかのか。その一生でどんなこと業績を残したのか。そんなものとは一切、関係なく、私たちを神の救いを受けることのできる民としてくださるのです。だからこそイスラエルの民はまさにこのアブラハムの信仰に立ち戻るべきだったと言えるのです。
 神がアブラハムに語った約束は確かに真実なものでした。しかし、その本当の解釈はイスラエルの民の抱いた信仰の確信とは違っていました。神はアブラハムの子孫であるイエス・キリストを選び、彼を通してすべての国民に祝福をもたらそうとされたのです。アブラハムが荒れ野の砂粒を通して示された祝福の約束は、このイエス・キリストにある救いであったと言えるのです。イエス・キリストを通して地面に転がる石ころのように無用の者と考えられてきた私たちが、神の民とされること、神の豊かな祝福に預ることができること、それがアブラハムを通して与えられた神の約束だからです。バプテスマのヨハネはその約束をイスラエルの人々がもう一度思い起こし、救い主なるイエス・キリストを受け入れることを伝えようとしたのです。

【祈り】
天の父なる神様
 イエス・キリストによって私たちもまた今、アブラハムの子孫とされていることを感謝いたします。アブラハムが荒れ野の砂粒を通してあなたの大いなる祝福の約束を聴いたように、私たちも困難状況の中でもそれを祝福に変えることができるあなたの信頼することができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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