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礼拝説教 桜井良一牧師
「王の職務」

(2008.11.23)

聖書箇所:マタイによる福音書25章31〜46節

31 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
32 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、
33 羊を右に、山羊を左に置く。
34 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
35 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、
36 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
37 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。
38 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
39 いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
40 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
41 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。
42 お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、
43 旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』

25:44 すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』
45 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』
46 こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

1.王の働き
(1)その日は誰にも分からない

 今日取り上げる新約聖書の箇所では主イエスが私達の王として終わりの日に再びやってきてくださって、ご自身の民とそうでない民を選別されること、つまり彼らを羊と山羊とに分けられることが記されています。さらにここにはその羊と山羊がどのような基準で振り分けられるかという興味深い事柄も語られています。
 このマタイによる福音書はイエスの講話をいくつかに分けて収録していますが、この箇所は24章の最初に記されたエルサレム神殿崩壊の予告で始まる世の終わりの出来事を語るイエスの最後の講話が語られています。そして今日のお話はその最後の部分に位置するものです。毎週水曜日に教会ではヨハネの黙示録を学んでいます。先日はその中でこの黙示録の言葉を使って世の終わりがいつおこるかと調べてみたり、それを主張するのはこの書物の目的とは相容れないものであることを学びました。
 このマタイの福音書のイエスの言葉の中にも「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」(24章36節)と語られています。終わりの日は誰にも予測できないのです。だからその日がいつくるのかと言った関心で聖書を読むならば、私達は人間の勝手な思い込みから生まれる誤った情報に振り回されてしまうのです。その点でイエスはその日がいついつであってもいいような生き方をしなさいと私達に教えているのです。24章から始まるこのイエスの最後の講話でもその日を予測するのではなく、その日に備えるための教えが語られています。

(2)福音伝道と終末との関係

 ただ興味深いのは、イエスは世が終わりが来るための絶対条件をこの講話の中で語っている点です。その絶対条件とはすべての人が御国の福音を聞かなければならないと言うことです。そのことについて24章14節はこう語ります。「そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る」。キリストの福音が世界の隅々まで宣べ伝えられて、はじめて世の終わりは到来するとイエスは語ります。この福音を聞き逃している人が一人でもいるならば、世の終わりはやってこないのです。ここには私達の担っている福音伝道の業と世の終わりの出来事には深い関係があることが教えられています。言葉を換えれば私達の行う福音伝道の業が世の終わりがやってくるための絶対条件であるとも言えるのです。そして神様は私達が行っている福音伝道の業を通して世の終わりの出来事を着々と準備されていると考えてもよいのです。
 私達は世の終わりを準備されている神様を信頼しつつ、私達に委ねられた福音伝道の業に励むことが大切なのです。それが世の終わりを待つ信仰者に求められていることだと言えるでしょう。いつの時代も福音伝道の働きは簡単ではありません。払われる多くの労苦に反して、目に見える効果はわずかなように感じ、時には私達の心が萎えてしまうようなことがあります。しかし、私達の福音伝道の業は神様の計画と直結しているのです。福音が全世界に伝えられたとき世の終わりはやって来ると言われているからです。そのことを私達はここから覚えたいと思うのです。

2.羊と山羊を分ける
(1)祝福された人と呪われた人

 さて今日の箇所では、この福音がすべての人々に宣べ伝えられると言う出来事が前提となっていることが分かります。なぜなら、ここには「すべての国の民」(32節)が集められているからです。すべての国の民が御国の福音を聞き、その準備が整えられたとき、神の公平な裁きが実現するのです。ここで「人の子」と呼ばれる真の王イエスは「すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」(32〜33節)と言われています。
 それではイエスは何のために羊と山羊を分けられるのでしょうか。神様の準備された待遇はこの二種類の人々の間で大きく違うからです。まず羊たちには『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい』と語られています。彼らが受け入れた御国の福音に約束された祝福がこのとき彼らのものとなるのです。しかし、もう一方の山羊たちには『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ』と言う全く違った処遇が語られています。羊は神様に祝福された者たちであり、山羊は呪われた者たちだと言われているのです。
 それではこの全く違った処遇を受ける羊と山羊はどのような基準で分けられているでしょうか。イエスはその基準を語ります。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ』」(35〜36節)。そしてもう一方は「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか』」(42〜44節)と語られています。このように一方の羊はそれをしたこと、またもう一方の山羊ははそれをしなかったことが選別の基準となっていることが分かります。

(2)最も小さな人たちにしたこと

 しかし、ここに集められているのはイエスがこの地上で生涯を過ごしたときに彼と共に生きた弟子たちだけではありません。すべての時代のすべての国の人々が集められているのです。ですからイエスに「した、しなかった」と問われているのは簡単には合点がいきません。天に昇られたイエスに私達はどのようにしたら何かをすることができると言うのでしょうか。
 その答えがイエスの口から語られています。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである』(40節)。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである』(45節)。
 「最も小さな者の一人にしたことが、イエスにしたこと」だと言うのです。それではこの「最も小さな者」とはどういう人々を意味しているのでしょうか。私はよく家電店に行って、いろいろな製品を眺める趣味があります。ところが、お店の人に顔を覚えられてしまったのでしょうか。最近はどんなに私が商品を眺めていても、お店の人が語りかけてくることはないのです。おそらく、「このお客はただ商品を見ているだけで、買うつもりはない」と言うことが分かっているからかもしれません。お店の人は商品を売るために一生懸命に接客しています。何も買わない人にいくら時間をかけても、それは無意味なのです。「最も小さな人」と言うのはこちらからかどんな処遇をしても、その見返りが期待できない人のことだと言えるでしょう。その意味ではその人のために時間や労力を割けば割くほど、こちらの側が損に思えるようなそんな存在を意味しているのです。その人が王様であったり、大金持ちであったならば違います。何かをすれば、いろいろな見返りが期待できるからです。その意味では山羊たちは、この人に何をしてあげても徳にはならないと言う計算ができた人だったのかもしれません。しかし、もう一方の羊はそんな損得なしに「最も小さな者」に接することができたと言うことになります。そしてそれが彼らの運命を左右するところとなったと言うのです。

3.それは本当に愛の行為なのか
(1)律法主義への逆戻り

 このようにこの箇所のお話を読んでいきますと、私達には一つの考えが生まれてくると思うのです。世の終わりの裁きに、自分が祝福された者、羊としてイエスに取り扱ってもらうためには、今「最も小さな人」のために何かをすることが大切だと考えるのです。しかし「最も小さな人」と言われていて、それが誰それとはっきりと名前が指名されている訳ではありません。ですからその「最も小さな人」を見逃してしまったらたいへんと、恐る恐る、毎日人に接することになってしまうかも可能性も生まれます。実はこのような考えにはいくつかの問題があるのです。
 一つは、もし「最も小さな者」へ私達がした行為、つまり私達の善き行いが私達の救いを決定する重要な要因と考えるならば、私達が信じている「信仰によって義とされる」と言う教えと対立することとなり、私達は律法主義の道へ逆戻りしていくことになるのです。少したとえが悪いかもしませんが、「無料」だと言う看板を見て入ってみたら、法外な料金を請求されたお店のように、私達の救いの事柄で入り口と出口では全く異なった二つの原理が並立してしまうと言うことになるのです。そしてもし、私達がこの世でなした行為が救いの根拠だと考えるならば、私達は終わりの時の裁きのときまで自分が救われているのか、いないのか、確信の持てない信仰生活を送ることになってしまいます。
 実際に極端な終末信仰を強調する教会では、人は普通の信仰生活ではなく、何か特別なことをしなければならないと言うことが強調されることがあります。しかし、この主張の問題点はやはり救い主イエス・キリストの十字架の意味が忘れられてしまい、その救いの御業があたかも不完全であるかのように取り扱われるところにあるのです。

(2)隣人なき隣人愛

 もう一つこの考えには落とし穴があります。ここでは羊たちが行った「最も小さな者たち」に対する真に美しい愛の行為が評価されています。しかし、それがもし私達の運命を決するような行為だと言うことになり、それを自覚しながらそれらのことを行うとしたら、その行為の目的は大きく違ってきてしまうのではないかと言うことです。
 昔、こんなお話を聞いたことがあります。一人の人がある修道会の経営する病院に入院しました。そこで働く修道士たちはたいへんに熱心に入院患者のために働いています。しかし、彼らの看病を受けながらその人はこう考えたと言うのです。「この人たちは本当に自分のために看病してくれているのだろうか。結局、彼らは自分の信じる神様に仕えるために私を看病しているだけではないのか。彼らが熱心に接しているのは私ではなく、彼らの信じる神様ではないか。私は彼らの信仰のために利用されているに過ぎないのでないか」。そう考えて、一般の病院に転院してしまったと言うのです。この人の考えにも問題があるかもしれません。しかしもし、私達の愛の目的が自分自身が救われるためのものになってしまったなら、それは本当に愛と呼べるでしょうか。ある本にはこのことを指して「隣人なき隣人愛」と言う言葉が語られていました。やはりこうなると結局は「最も小さな者」の存在は無視されてしまうと言うことになります。やっていることは違っても羊も山羊も「最も小さい者」を無視したことでは同じになってしまうのです。

4.信仰者に与えられた出会い
(1)分からないでしたこと

 この問題を解決する鍵となる言葉が聖書の中に記されています。羊たちは問い返しています「主よ、いつわたしたちはそれらのことをしたのでしょうか」。また、山羊たちも問うています。「主よ、いつわたしたちはそれらのことをしなかったのでしょうか」と。つまり、これらの行為の当事者は「最も小さな者」にしたことが主イエスにしたことであるとは考えずに行っていたのです。終わりの日に備えるために「最も小さな者たち」に愛の行為を行おうと言う説教者の勧めに答えてそれらのことをしたわけではないのです。
 ある説教者はこの箇所を説明する中で、イエスがここで語っているのは救われための原因ではなくて、結果であると言っています。つまり、羊たちは世のはじめから神様に救いに選ばれていたからこそ、このような愛の実を結ぶことができたし、山羊はそれができなかたのだと言えると言うのです。
 もう一つ興味深いのはここに書かれている行為は人の目から見ても忘れ去れるような小さな行為が語られていることです。彼らは目の前で困っている人に自分にできることをしただけなのです。決して病気の人を癒したり、牢に入っている人をそこから救い出すと言う特別な行為をしているのではないのです。もしかしたら、やっている本人たちは胸を張るどころか、「自分にはこんなことしかできない」と無力感さえ感じながそれをしていたのかもしれません。しかし、主イエスは「それでよいのだ」と言ってくださっているのです。「その愛の行為を私は喜んで受け入れる」と言ってくださっているのです。

(2)イエスに会える期待

 ロシアの文豪トルストイが記した「民話集」と言う短編小説の中に一人の靴屋の老人が主人公となるお話があります。「靴屋のマルチン」と呼ばれるこの小さなお話は読む人の心を温かする名作の一つです。マルチンは最愛の妻を、そして頼りにしていた一人息子に先立たれて一人ぼっちとなってしまった老人でした。この世になんの未練もない、死ぬことだけが望みだと考えるマルチンにある人が新約聖書をプレゼントするところからこの物語は始まります。マルチンは毎日仕事が終わるとこの新約聖書を手にとって熱心に読み始めました。やがて、マルチンはこの本の主人公であるイエス・キリストの魅力と捕らえられていきます。そんなとき彼はどこからともなく「明日、あなたのところに行きます」と言うイエスの声を聞くのです。
 その次の日、彼は小さな部屋を掃除し、お茶を沸かし、料理を作り、主イエスの訪問を待ち続けます。「イエス様はいつ来られるのだろう」と言う思いが、彼の関心を小さな窓の外へと向けさせます。そこで目撃するのは寒さの中で道路を掃除する男であったり,リンゴ売りの老婆とそのリンゴを盗む少年であったり、そしてお金も食べるものもなく困り果る乳飲み子を抱える貧しい母親であったりするのです。マルチンはそのすべての人を自分の家に招き入れて、自分がイエス様のために準備した、お茶や料理をごちそうします。やがて夕暮れになって、マルチンはまた一人で新約聖書を開きます。そのとき、彼が読んだ箇所が「これらの最も小さな者にしたことはわたしにしたことです」と言うところだったのです。マルチンはこの聖書の箇所を読みながら「確かに今日イエス様は自分のところに来てくださったのだ」と言う喜びに満たされて小説は結ばれます。
 私はこの小説を読んでこう思います。自分のことだけを考え、絶望に閉ざされるマルチンの関心を目の前の隣人に向けさせたのは何かと言うことです。それは「明日、あなたのところに行きますよ」と言われたイエスの言葉でした。マルチンはしかし、このイエスの言葉を聞いて恐れたのではないのです。「これはたいへんだ」と慌てたのではないのです。彼は喜んだのです。「一人ぼっちの自分のところにイエス様が来てくださる」と言う期待に胸ふくらませたのです。そしてその期待が、普段は無視してしまうかもしれない窓の外の人々との出会いを生んだのです。
 終末の出来事は私達を恐怖に陥れるものではありません。「イエス・キリストが私のところに来てくださる」のです。イエスの救いにあずかる私達とってその日は期待に胸ふくらませるときだと言えるのです。そしてその期待が、いままで自分の内側にしか向けられていなかった私達の心の目を「最も小さな者」に向けさせるのです。そこで生まれる出会いこそが、イエスに救われている者に与えられているすばらしい特権であることを今日のお話は私達に教えているのではないでしょうか。
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