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礼拝説教 桜井良一牧師
人が作る希望はすぐに色あせる

(2008.11.30)

聖書箇所:マルコによる福音書13章33〜37節

33 気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。
34 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。
35 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。
36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。
37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」

1.動き出した神の計画
(1)目を覚ましていなさい

 先週はマタイによる福音書から世の終わりに備える私たちの生き方について学びました。今日は同じイエスの説教を取り上げているマルコによる福音書の並行箇所から、繰り返して世の終わりに備える私たちの生き方について学びたいと思います。
 今日から待降節、クリスマスの準備に入ります。この「待降」を英語ではアドベントと呼ぶのですが、この元々の言葉はラテン語で、その意味は「待降」よりもむしろ「到来」と言う意味を持った言葉だと言われています。クリスマスの日にこの地上にやってきてくださった神の御子イエスの到来を私たちはこのとき覚えて礼拝を献げます。しかし、同時に私たちはこの御子イエスがもう一度この地上に来てくださる時、その到来のときを待っています。そのような意味で教会暦はこの時期に世の終わりの出来事、そしてイエスが再びこの地上に到来してくださることを記した聖書箇所を礼拝の朗読箇所として取り上げています。
 イエスはこの箇所の冒頭で「気をつけて、目を覚ましていなさい」(33節)と私たちに注意を呼びかけています。終わりの日を待つ私たちに、「その日がいつ来ても良いように備えなさい」とイエスは教えておられるのです。そしてその備えを怠ってしまうことを「眠り込むこと」だと考えたのでしょうか。だからここでイエスは「目を覚ましていないさい」と私たちに語られているのです。
 現代人は眠りを調整することが不得意です。電気の発達によって、夜の暗闇から解放された私たちは、その反面で睡眠のサイクルを大きく狂わせてしまいました。ですから、寝床についてもなかなか眠れない者もいれば、昼日中であっても眠くて仕様がないと言うことにもなってしまうのです。イエスが「目覚めているように」と語られたのは、決して私たちが24時間眠ってはいけないと言うことを教えているのではありません。この世の人々が希望を失い、絶望せざるを得ない夜のような時代にあっても、私たちは神の約束を信じ、今が希望のときであり、夜ではなく、覚めているべき昼であると信じるのです。だから、私たちは今の時代、夜の闇ではなく、光の中に生きる者としてふさわしく生きようとイエスは私たちに教えてくださっているのです。

(2)必ずやって来る終わりのとき

「その時がいつなのか、あなたがたには分からない」。明日の計画を立てる私たちは「明日は何時何分に起床」と決めて、目覚ましの針を合わせて寝床につきます。しかし、世の終わりはいつなのか私たちには分かりません。それは私たちの計画ではなく、神の計画に基づいて起こるからです。私たちはその日がいつ来るのかを心配する必要はありません。神様に信頼してその日を待つことが、私たちに与えられた使命だと言っていいでしょう。
 しかし、どうして私たちは終わりの日が必ずやって来ると信じることができるのでしょうか。その日が確実に訪れると信じる根拠はどこにあるのでしょうか。イエスは次のように語ります。
 「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ」(34節)。家の主人が僕たちに留守をまかせて旅にでるお話がここでは語られています。やがて旅に出た主人は必ず帰ってきます。だから僕たちはその主人がいつ帰って来てもよいように忠実に委ねられた務めを果たしながらその日を待つのです。このマルコによる福音書は14章からイエスの受難の物語を語り出します。つまり、今日のイエスの説教は彼が十字架にかけられる直前に語られたお話となるのです。イエスが十字架にかけられること、それは世の終わりに至る神のご計画の中での重要な一部分です。神の計画は今や実現しようとしているのです。それは言葉を換えて言えば、主人が旅立つことと同じです。計画は確実に動き出したのです。だからイエスは弟子たちに自分の帰りを待っているようにと語っているのです。
 どうして世の終わりのとき、主イエスが再び来られることは確実であると私たちは信じるのでしょうか。それはすでにイエスが十字架にかけられたからです。その後、イエスは復活して、天に昇られました。神の計画は確実に動き出したのです。だからこそ私たちは世の終わりに、イエスが再び来られることをも信じることができるのです。もし、私たちが世の終わりを信じていないとすれば、イエスがどうして十字架で死に、復活され、天に昇られたのでしょうか。終わりの日を信じることができなければ、イエスの御業の意味が私たちには分からなくなってしまうでしょう。なぜなら、これらのすべてのことは世の終わりのために計画されたものの一部だからです。世の終わりが実現しなければ、イエスの死も復活もまことに中途半端なものとなってしまうのです。だから、キリストの十字架と復活を知る私たちは、世の終わりが必ず訪れることを信じざるを得ない者とされているのです。

2.終わりの時を知っている者

 イエスはここで、世の終わりが必ずやってくると信じる者の生活を「目覚めをさましている」生活だと定義づけています。それは「どうせこの世界は終わってしまうのだから、今のときをいい加減に生きてもいい」と言うことではありません。むしろ、世の終わりが必ずやってくることを知る者だからこそ、今のときを大切に過ごさなければならないとイエスは教えてくださっているのです。
 最近、私が毎週楽しみにしているテレビのドラマがあります。そのドラマの主人公は一人の医師です。彼は今まで、人生をある意味では自分の生きたいように、面白おかしく生きて来ました。ところが、その彼がある日、自分が進行性のがんに冒されていて、もう治療の可能性もなく、残された命が後わずかであることを知ります。このドラマは自分の残された命があとわずかであることを知った主人公とそれを取り囲む人々の物語と言えます。
 主人公は過去に大きな失敗をしていて、故郷に家族、特に子どもたちを残したまま生きていました。彼は今まではその問題を先延ばしにして生きて来ていたのです。しかし自分の死期を悟った彼は故郷に帰って、自分の家族、特に子どもたちと向き合う決心をします。彼を知る故郷の人々は皆、彼を暖かく迎え入れます。ところが彼の死期が迫っていることを知らない人々は皆、彼に当然のように「来年になったらこんなことしようと」と語りかけるのです。彼らは必ずこの時間は続き、来年はやってくるものだと信じ、そのための計画を立て、またそれについて語り合うのです。しかし、この主人公はそうではありません。誰かから「来年は」と言われたときに、彼は自分には決してそのとき、そこにはいないことを知っているのです。だからこそ、彼は残されたときを、できるだけ大切に生きたいと考えます、自分が今までやり残したことをしたいと考えて生きるのです。そのような意味でこの主人公の時間感覚は他の人々と全く違っています。そしてそれは彼が自分の命の終わりのときを知っているから違って来るのです。
 ある意味で世の終わりを知る者の生き方もこの主人公の生き方に似ているのかもしれません。つまり「目覚めて生きる」と言うことは二度とこないこの一日、そして今のときを大切に生きることであるとも言えるのです。

3.私の未完成な人生を完成してくださる時
(1)終わりの日は完成のとき

 しかし、私たちは今を大切に生きると同時に、世の終わりが必ずやってくることを念頭に置いて生きなければなりません。それは決して先のことはすべて忘れて、今やっていることに没頭しろと言うのではないのです。それではいったい、世の終わりの希望は私たちの今日を生きる生き方にどのような影響をもたらすのでしょうか。
 何度も語るように、聖書が語る世の終わりとは恐ろしい破壊の日ではありません。確かに世の終わりに至る過程で、神により頼まないものはバベルの塔のようにすべては滅ぼされるでしょう。しかし、私たちにとっての終わりの日の本当の意味はすべてのものの完成が実現する日であると言えるのです。そのためにイエス・キリストはご自身が始められた計画を成就するためにもう一度やって来てくださるのです。そして、そのとき主イエスを信じて生きた、私たちの信仰生活も完成に導かれるのです。
 私たちは信仰者として与えられた今を、主人の帰りを待つ僕として誠実に生きようと願います。しかし、私たちの業は自らの力だけではいつも未完成に終わることを覚える必要があるのではないでしょうか。

(2)私たちの業を完成してくださる神

 昔、青森に住んでいたときに、私は訪ねて来た友人を連れて下北半島にある恐山や、様々なところを訪ねたことがありました。そのとき誰も足を踏み入れないような場所に、使われないまま朽ち果てたコンクリートでできた橋やそのたの建造物があるのに気づきました。人も住まないこんなところに何でこんなものがあるのだろうと私はそのとき疑問に思いました。しかし、私はやがてそれが戦争のときにつくられたものであることを後で知りました。当時、日本軍は北から日本にやって来る敵を迎え撃つために下北半島全体を要塞化しようとして計画を立てました。そのために彼らはここに鉄道網を作ろうとしたのです。そのためにたくさんの朝鮮人労働者が連れて来られて過酷な労働を強いられたと記録には記されていました。しかし、戦争が終わると共にこの広大な計画は未完成のまま中止され、残されたのは朽ち果てたコンクリートの残骸だけだったのです。そのことを知って、私はなおさらのごとく人間の計画の不確かさ、虚しさを覚えました。
 私たちの業も確かに中途で終わる日が来るのかも知れません。私たちが地上で着手したすべての事柄は私たちの死と共に未完成のまま終わらなければならないときがやって来るのです。しかし、私たちはだからと言って、一生懸命励んでも自分たちの計画は空しい、無意味だと嘆く必要はありません。なぜなら、私たちの業を神は最後の日に必ず完成してくださるからです。だから、私たちの今日の歩みは、決して虚しいままに終わることはないのです。最後の日に、私たちがこの地上でなした業が何一つ無意味でなかったことを、神の計画の中で見事に用いられたことを私たちは知ることができるのです。
 終わりを知る者は、今の時が大切であることを知っています。そして終わりを知る者は、自分が行う小さな業が決して、地上では未完成に終わったとしても、それがそのままでは終わらないことを知っています。最後の日に神様が完成してくださることを知らせれているからです。だからこそ、私たちは今のときを「目を覚ましていること」ができるのです。私たちは決して今夜の闇の中を生きているのではありません。神様の恵みの光の照り輝く昼のときを希望を持って生かされているのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 限られた命のときを生きるわたし達、そしてこの世界の終わりのときを待つ私たちです。だから今のときの大切さを知っています。与えられたこの日をあなたの僕として忠実に生きることができるようにしてください。たとえ私たちの地上の命が終わったとしても、私たちの小さな業はすべて、あなたの計画の中で生かされ、最後の完成を迎えることを信じさせてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
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