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礼拝説教 桜井良一牧師
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「星を見て」

(2009.01.04)

聖書箇所:マタイによる福音書2章1〜12節

1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、
2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
3 これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。
5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。
8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。
9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。
10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。
11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。

1.公現日と占星術の学者たち
(1)三人の学者?

 教会のカレンダーによれば今日の日曜日は「公現日」と言う名前が付けられています。漢字で「公に現れる」と書いて公現日と読みます。そう言われても何が「公に現れる」のかピント来ないかもしれません。教会暦に関する解説によれば、この日に「公に現れた」のは主なる神の栄光であると説明されています。主イエス・キリストの誕生を通して成就した神様の救いの御業を通して、神の栄光、その素晴らしさが全世界に表わされたと言うことを覚える日がこの「公現日」の目指すテーマのようです。
 この日に読まれる聖書の箇所は有名な三人の占星術の学者たちのお話です。この博士たちは謎に満ちた人物と言えます。はっきりしているのは彼らがイスラエルの民とは全く無関係な異邦人、聖書の教えとは全く違った世界で生きていた外国人であったと言うことです。しかし彼らについては教会の歴史の中でさまざまな伝説が生まれました。そもそも、彼らが三人と数えるのも教会の伝説が生み出したものと考えることができます。なぜなら、聖書を読んでも彼らが三人であったと言う記述はどこにも登場しないからです。かろうじてその根拠となるのは11節に登場する学者たちが幼子イエスに送った贈り物の数です。「黄金、乳香、没薬」、三つの贈り物が登場しますので、ここに登場する博士たちも三人であったと推測され、その解釈が教会の伝統の中で固定化されてきたのです。

(2)星占い師か王様か

 さらに彼らの素性も不明な点が多いと言えます。新共同訳聖書は彼らについて「占星術の学者たち」と説明しています。また彼らは東の方からやって来たとも記されています。そこで彼らは現在のイラン、むかしのペルシャの国あたりに住んでいた星占い師であったと考えられているのです。当時、この地方では星の運行を調べる彼らが王様のアドバイザーとなって国の政治を動かしていたと言うこともあったようです。ですから彼らが星占い師と言っても、彼らの地位は相当高かったのかもしれなにのです。ただこの「占星術の学者」と言う言葉を記したギリシャ語は「マジック」と言う言葉の語源になったもので、いかがわしい魔術師が彼らの本来の姿だったと考えることもできるのです。
 これとは別に教会の伝説はこの三人を「王様」と考え、教えてきたところがあります。三人の王はヨーロッパ人、アフリカ人、アジア人と世界を代表する王たちだったと考える説です。この世界の王が連れ添って救い主イエス・キリストの誕生を祝って、その幼子の元を訪問したと言うのです。この伝説はおそらくこの礼拝の最初で読んだイザヤ書の言葉から生まれてきたものかもしれません。なぜならイザヤ書60章3節にはこうあるからです。「国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む」。イザヤは王様が光に向かって歩んでくると言っています。学者たちを導いた星の輝き、その星が導いたところは世の光であるイエス・キリストです。それが王様たちが光を目指したと言うイザヤ書の成就と考えられたのです。

3.夜空に光る星
(1)闇の中に輝く光

 このイザヤ書の言葉は次のように始まっています。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く」(1節)。預言者はここで「起きよ、光を放て」と読者たちに呼びかけています。しかし、その光は人間から出るものではないことが、次の言葉から分かります。「あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く」。神の栄光の光が人間の上に照り出すとき、人間もまた光り輝くことができると言っているのです。公現日の意味は神の栄光の光がイエス・キリストの救いの御業に通して照り輝いたことを記念すると申しました。そして、その光は私達を照らし出します、そして私達自身が神の栄光を表わす光の証人として用いられることをイザヤは預言したのです。

 「見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる」(2節)とイザヤは続けて語っています。

 主の光は「闇が血を覆い、暗黒が国々を包んでいる」、そのような最も暗く、絶望的な世界に光り輝くと語られています。
 東の国からやって来た学者たちは星に導かれてエルサレムにやってきました。彼らがどうして、その星に関心を持ったのか詳細には記されていませんが、彼らはその星を「ユダヤ人の王」の誕生の印と読み取り、その王に会いにやってきたと言われています。交通手段の整っている私達の世界と違って当時の旅はたいへん厳しいものでした。ましてや東の国、外国からこのエルサレムを目指してやってきた彼らの旅は非常に厳しい者であっただろうと推測できます。その旅を導いたのは夜空に輝く星であったと言うのです。
 家内の実家に行って夜空を見上げるたびに私が思うことは、「星ってこんなにたくさんあるのか」と感動させられることです。星の数はどこでもかわらないはずです。それなのに見える星の数がいつもとは断然違うのです。家内の実家の空と私がいつも見ている川口の空はどこが違うのかと考えて見ると、たとえば大気汚染の問題があるのかもしれません。しかし、一番の問題は私達が住む町は夜でも明るい光が輝く場所だからではないでしょうか。地上の光が遮って、夜空の星を隠してしまっているのです。光は闇の中でこそ一番輝くのです。様々な問題がこの世界を覆うとき、私達はこの闇の中で輝く真の光である神の存在をはっきりと知ることができます。偽りの希望ではなく、神が与えてくださる希望を見いだすことができるのがまさにこの闇の時なのです。だからこそ私達は地上の世界が闇に閉ざされたと思われるときにも絶望することなく、神様の福音に希望を置き、その福音を宣べ伝えるのです。

(2)心の闇と向き合う

 闇の中に輝く光。それは私達の世界だけの問題ではありません。その闇は私達の心の中にもあるのではないでしょうか。東の国からやってきた占星術の学者たちがもし、自分の生活に満ち足りていたとしたら、彼らはわざわざこの過酷な旅を選ばなかったと思います。しかし、彼らが旅に出発したのは、その心に闇をもっていたからではないでしょうか。そして地上の誰もその闇から彼らを解放してくれる者はいなかったのです。だから彼らは、自分たちを導く星を目当てに、まことの光である救い主イエス・キリストのもとに向かったのです。
 私達は自分の心の闇を忘れようとするところがあります。しかし、その闇こそが私達を救い主イエス・キリストへ導く光となるのです。聖書はこの心の闇を私達の罪と呼んでいます。私達は何か漠然とした印象で自分の信仰生活を考えることがあります。喜びとか、平安とか、その言葉自身だけを取り上げて考えるならば、まさにその喜びや平安は漠然とした捕らえどころのない感覚になってしまいます。しかし、聖書の語る喜びや平安はそんな漠然としたものではありません。それは私達が救い主イエス・キリストによって罪許された喜びであり、神の裁きから解放されたところにある平安、神との平和なのです。だから、その平安や喜びは自分の罪と向き合うことのないところには決して訪れないと言えるのです。
 私達の信仰生活の目標は私達が何でもできるスーパーマンになることではありません。そうではなく、いつも救い主イエス・キリストと深く結びついて生きる生活なのです。そのとき大切なのは自分にどんなにこの救い主イエスが必要であるかを知ることです。私達が信仰生活で自分の罪や弱さを示されるとき、その私のためにイエスが来てくださったことを知れることはどんなにすばらしいことではないでしょうか。だからこそ、私達は自分の心の闇を無視するのではなく、それと向き合うことで、私達のために来てくださった救い主イエスとの関係を深めることができるのです。

4.御言葉によって確かにされる歩み
(1)聖書の言葉が目的地を示す

 さて、星に導かれた占星術の学者たちはユダヤの都エルサレムまでやって来ました。新しいユダヤ人の王であるならば、エルサレムの王宮で生まれるはずだと彼らは考えたのでしょうか。彼らは当時のユダヤの王であったヘロデのもとを訪ねています。闇の中に光る星を頼りに彼らはエルサレムまで来ることができました。しかし、それだけでは彼らは真の救い主に会うことができなかったのです。そこで彼らはエルサレムに住む祭司長や律法学者たちの助けを借りています。そして占星術の学者たちは祭司長や律法学者たちを通して初めて聖書の言葉を聞くことができたのです。

『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである』」(6節)。

 ここで預言者ミカの言葉によって彼らは自分たちの目的の地がベツレヘムであることを知らされます。この世の闇も、そして自分たちの心の闇もそれだけを見つめるならば何の訳にも立たないばかりか、ますます私達を絶望の闇の世界へと誘います。私達はその闇と向き合いながらも、その答えを私達に示す聖書の言葉に耳を傾ける必要があるのです。聖書の言葉の中に答えを求めることが大切なのです。

(2)聞かない人、行動しない人

聖書の言葉に耳を傾けない信仰生活は独善的となり、結局は救い主イエス・キリストに導かれることができません。私達が自分の判断や考えを絶対とするときこのような間違いを犯すことになります。ここで登場するヘロデは聖書のメッセージに耳を傾けることなく、自分の判断と考えをもって行動した人物の代表者です。彼は新しく生まれたユダヤ人の王の存在を自分の地位を犯すライバルと考え、その存在を自分の力で抹殺しようと考え、行動したのです。
 しかし、このヘロデ以上にここには悲劇的な人々が登場しています。それはこの聖書の言葉を導き出したエルサレムの祭司長、律法学者という聖書の専門家たちです。彼らはヘロデと違って、聖書の言葉に精通していました。預言者ミカが言っていることが何を意味するかを彼らは知っていたはずです。しかし、彼らもまた東の国からやってきた占星術の学者に申し出て、「私達も一緒に行きます」とは言わないのです。聖書の言葉を示されても何もしないのです。ですから彼らはイエス・キリストに出会う機会がありながらも、その機会を逃してしまったのです。
 宗教改革者マルチン・ルターはこの物語を引用しながら、「この世の中でこれほど無視された赤ん坊はいない」と語ったといいます。どこでも赤ん坊が生まれるのは大きなニュースとなります。少なくても親族や近所の人々は、真っ先にその赤ん坊の誕生を祝いにやってくるものです。しかし、イエスの場合には違います。彼のもとを訪れたのはご存じの通り、野原で羊の番をしていた羊飼いであり、また、外国の占星術の学者たちだけだったのです。
 「インマヌエル」、「神は我々と共におられる」と言う祝福を私達に示すために、その神の栄光を私達に示すために救い主イエス・キリストはお生まれになりました。そしてそのイエスと出会うことができたのは、この世を覆う闇と、自らの心にある闇をと向き合い、星の光を頼りに旅立った占星術の学者たちであったこと、聖書の御言葉に耳を傾け、その言葉通りに従ったこの学者たちであったことを聖書は教えています。なぜなら、彼らと同じように行動する者にイエス・キリストは今も出会ってくださるからです。

【祈祷】
天の父なる神様。
 新しい年の初めに、あなたの栄光を仰がせていただき感謝いたします。救い主イエス・キリストのみ業によって、私たち罪人を滅ぼすのではなく、救うことによってその栄光を現してくださったことを感謝いたします。闇が覆う世界に、また希望を失った人々の中にあなたの光を照らしてください。そのために私たちが光の証人となって、イエス・キリストの救いを伝えることができるようにしてください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン。

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