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礼拝説教 桜井良一牧師
「恵みの力」

(2009.01.25)

聖書箇所:コリントの手紙第二12章1〜10節

1 わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。
2 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。
3 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。
4 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。
5 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。
6 仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、
7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。
8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。
9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

1.誇りとは何か
(1)「誇り」によって生じた教会の不一致

 今日、礼拝のテキストに選ばれているパウロの手紙の箇所には「誇る」と言う言葉が何度も登場しています。そしてパウロは今日の箇所の最後に至ると自分は「大いに喜んで自分の弱さを誇る」と語っているのです。これは不思議な言葉です。なぜなら、人が自分を「誇る」と言えば、普通は自分の優れた部分、人に抜きん出ているところを誇るからです。ところがパウロはここで「自分の弱さを誇る」と語っているのです。いったいパウロはこの言葉を通して何を私たちに教えようとしているのでしょうか。その答えを探し求めながらパウロの言葉に耳を傾けたと思います。
 まず、パウロがここで人間の「誇り」について語っている理由を考えて見ましょう。それは当時この手紙を受け取り、パウロの話に耳を傾けている教会の中でこの「誇り」と言う言葉が人々の関心の的になっていたからです。それは言葉を換えて言えば誰が信仰者として一番優れているかと言う問題です。そしてそのことを主張するために人々は、自分はこんなに素晴らしい信仰的体験を持っているとか、知識を持っているとかと言う具合に自分を誇って見せたのです。
 このようなことは競争社会と呼ばれる一般の社会では私たちもよく見かける光景です。この社会では優れた者がそうでないものを蹴落として、上へ、上へとその地位を上り詰めて行きます。だから私たちは勝者となるために進んで自分の優れた部分を人にアピールしようとするのです。それが出来ない者は、誰か他の優れた人物の下について、自分ではなく、自分の上にいる人を誇ることで、あたかも自分も優れた者であるかのように誇って見せるのです。
 ところが、一般の社会ならともかくとして、キリストの愛を伝える教会の中でこのような競争が起こるならどうなってしまうでしょうか。教会の一致は損なわれ、教会は全くこの世の社会の中に飲み込まれてしまいます。これでは、教会は教会としての役目を果たせなくなってしまうのです。ここにパウロが「誇り」についてあえて言及せざるを得なかった背景の一つが合ったわけです。

(2)パウロの信仰体験

 もう一つ、パウロが更にここで「誇り」について語らなければならなかった点は、彼自身がこの問題を巡る議論に巻き込まれていたことにもあると考えられています。このとき、パウロをよく思わない人々がパウロの働きについて文句を言い、彼には教会の指導者としての資格がないと攻撃したのです。そして彼らはパウロの話を聞くよりは、信仰的にもっとすばらしい体験を持っている自分たちの話に耳を傾けるべきだ、リーダーにふさわしい資格を持つのは自分たちだと主張したのです。
 ところで、今日の箇所の前半ではたいへんに不思議な体験をした人の話が記されています。

「わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです」(2〜4節)。

 パウロはここで「キリストに結ばれていた一人の人を知っています」と語っていますが、聖書の研究家たちの主張によればこれはパウロ自身の体験と考えてよいのではないかと言うのです。パウロは自らこのような素晴らしい体験をしながら、それをあたかも自分には関係ない第三者の体験のように紹介しています。それは、彼に与えられた信仰体験を「誇って」、誰か他の人に認めてもらおうと言う考えがパウロにはなかったことを示しています。
 もちろん、私たちはパウロと同じような体験をすることはあまりないかもしれません。しかし、私たちもまた主イエスが自分のそばにいて、自分を守ってくださっていると言う体験を信仰の中ですることがあるのではないでしょうか。しかし、その体験は決して人に誇るべきものではありません。いえ、むしろそのような体験をするものこそ、パウロと同じようにその体験を誇る必要はなくなると言えるのです。
 なぜなら、私たちにとって大切なのは人の評価ではなく、神様が私たちと共にいてくださると言う事実を知ることだからです。そしてもし、その神様の愛を体験することができるなら、私たちはもはやそれ以上何も必要とするものはないのです。パウロが人に自分の信仰体験を誇る必要を感じなかったのは、神様との豊かな関係の中で彼が十分に満たされていたからに他ならないのです。

2.与えられたとげ

 しかし、パウロはこの文章の中で自らの体験を「誇るまい」(6節)とまで言いながら、それでもあえて自分が誇るなら「自分の弱さを誇る」と話を続けていきます。人に何かを「誇る」と言う次元から解放されているように思えるパウロがなぜ、再び「誇り」について続けて語るのでしょうか。
 読み進めて見るとパウロは「自分を誇る必要はない」と考えながらも、なお、彼は自分を誇ろうとする弱さ、思い上がりから完全に解放されていないことを知っていることが分かります。その自分の弱さを一番よく知っているのは神様だと語った上で、神様はパウロが思う上がることがないようにしてくださったと言うのです。

「また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです」(7節)。

 パウロはこのとき、自分を苦しめている大きな問題を持っていたようです。この問題については詳しくは分からないのですが、研究者たちの説明によればパウロがここで「わたしの身に一つのとげが与えられました」と語っていることからパウロが持っていた持病、何らかの病であったのではないかと考えています。ある人は目の病ではなかったかと言い、またある人はてんかんのような病気ではなかったかと説明するのです。いずれにしても、パウロはこの病の故にその伝道者としての活動を大きく制限されたのでしょう。だから彼はその問題を「サタンから送られた使い」と呼んだのです。きっと、これがなかったらもっと神様のために働けると彼は残念に感じていたはずです。
 そして彼はこのとげが自分から取り去られるように「三度主に願いました」(8節)と言っています。聖書では「三」と言う数字は完全数と言って、その完成度を示す意味を持っています。ですから、ここでの「三度」はパウロがもうこれ以上は考えられないと思うほどに、懸命になって祈り続けたと言う意味の言葉です。しかし、残念ながら神様はこのとげをパウロから取り去ることはされなかったようです。その代わりパウロに与えられた神様の答えはこれだったと言うのです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(9節)。
 パウロはこの神様からの答えを聞いた上で、人は自分の強さを誇るが、自分は「弱さ」を誇ると語り出すのです。なぜなら神様は彼に十分な恵みを与えてくださっているし、その恵みはむしろ彼の弱さを通して発揮されると言うことを知ったからです。

3.弱さとは何か
(1)問題は避けられず、悩むこともある

 パウロはここで続けて語ります。「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(10節)。

 私たちは自分たちの人生に厳しい現実が訪れるとき、どうしてこんなことが起こるのかと嘆き苦しみます。実は信仰生活についてたくさんの人々は誤解を持っています。ある人は神様を信じれば人生はすべてうまく行く、問題から完全に解放されると考えます。しかし、パウロもそうであったように、問題を持たない信仰者は一人もいないはずです。すべての信仰者は多かれ少なかれ何らかの問題を抱えて生きているのです。信仰生活の中にも必ず問題は起こりますし、イエスを信じる者はみなそれぞれ自分の十字架を背負ってイエスに従っていかなければならないからです。
 もう一つ誤解があります。それは信仰者は問題があっても、それをいつも平静に受け止め、そのことの故に悩なではならないと言ったような考えです。しかし、信仰者と言っても私たちは生身の人間でしかありません。苦しいときは苦しいし、悲しいときには悲しいのです。問題があれば悩むことは仕方がないでしょう。私の好きな木枯らし紋次郎と言うテレビドラマの主題歌「血は流れ 皮は裂ける 痛みは生きている 印(シルシ)だ」と言う歌詞があります。私たちが苦しみ悩むのは、私たちが信仰者として確かに生きている印と考えてよいのではないでしょうか。
 その上で私たちがこの聖書の箇所のパウロの言葉から学ぶ点は、彼は自分に与えられた「弱さ」を主イエスとの関係から考え、受け入れようした点です。私たちが問題に出会って悩むことは仕方がないことでしょう。しかし、その悩みを悩み続けることで私たちに神様が与えられた大切な時間を使い果たしてしまうならば、それは残念なことになってしまいます。神様はそのようなことを私たちには望んでおられないはずです。むしろ神様は私たちに与えられた「弱さ」を通して神様の恵みが十分に働くことを期待して生きるようにと私たちに勧めておられるのです。

(2)私たちの弱さを通して働かれる主

 旧約聖書の士師記と言う書物の中にギデオンと言う人物が登場する物語があります。当時、イスラエルは外国の軍隊によって絶えず侵略され、悲惨な状況にありました。そこで神様はギデオンと言う人物をイスラエルのリーダーに立て、外国の軍隊と戦わせることにしたのです。ギデオンの呼びかけによってイスラエルの中から三万二千人ほどの人々が集まりました。しかし、このとき彼らが戦うべき相手は十三万五千人もの大軍だったのです。このままではギデオンの軍隊は圧倒的に不利です。しかし、神様は不思議なことにギデオンに「これでは兵士の数が多すぎる」とその数を減らすように命じます。そして最後にギデオンに残されたのは三百人ほどの兵士でしかなかったのです。しかし、この戦いはギデオンの軍隊の圧倒的勝利で終わります(士師記7〜8章参照)。
 このとき、神様はギデオンに兵士を減らす理由として「大軍を持って勝利したなら、イスラエルの民は自分の力で勝利したと心をおごらせる」からだと語っています。つまり、この戦いの勝利は明らかに人の力ではなく、神の力によるものだと言うことが分かるために神様はあえてギデオンの兵士の数を減らしたと言うのです。
 私たちの力が強ければ、実は私たちは本当は強くないのにそう思い込んでいるとしたら、そこで神様が働きいてくださっても、あたかもそれを自分の力でしたように勘違いしてしまいます。そして自分を誇り始めるのです。パウロはそのことを理解していたのです。だから「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言う言葉の背後には神の恵みの力に対するパウロの信仰的な確信があったのです。
 新しい年、私たちの教会は教会設立と言う事業を行おうとしています。当初の計画では昨年それがなされるはずでしたが、教会の状況からそれは赦されず、改め今年それを行うこととなりました。私たちは今までこの計画を進めていく中で、行き詰まりや弱さを感じることがたびたびでした。しかし、不思議なことにその都度、神様は私たちを励まし、この計画を導いてくださったことを私たちは思い起こします。
 確かに、私たちの力は十分ではありません。そのことのために、私たちはこれから悩むことも、苦しむこともあります。しかし、私たちはその弱さを嘆くのではなく、主が私たちの上に豊かに働いてくださることを信じて、歩み続けたいと願うのです。そのために私たちは何度も、この聖書の言葉に立ち戻りつつ、祈り、主から与えられたそれぞれの賜物を十分に用いたいと考えるのです。

【祈祷】
天の父なる神様。
「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」と言うみ言葉を繰り返し覚えながら、私たちが信仰生活を歩むことができるようにしてください。自分を誇り、また、自分を嘆くことから解放してくださり。主にある自由をもってあなたに大胆に従っていくことができますようにしてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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