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礼拝説教 桜井良一牧師
イエスの活動

(2009.02.08)

聖書箇所:マルコによる福音書1章29〜39節

29会堂を出て、シモンとアンデレの家に行った。ヤコブとヨハネも一緒であった。
30シモンのしゅうとめが熱を出して寝ていたので、人々は早速、彼女のことをイエスに話した。
31イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。
32夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。
33町中の人が、戸口に集まった。34イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。
35朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。
36シモンとその仲間はイエスの後を追い、
37見つけると、「みんなが捜しています」と言った。
38イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」
39そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。

1.カファルナウムでの忙しい1日
(1)イエスの権威

 今日の朗読箇所は「会堂を出て」(29節)と言う言葉から始まっています。これは直前の21〜28節に記された物語に続きく出来事であることを示す言葉になっています。この直前の箇所ではイエスがカファルナウムと言う村に入り、安息日に会堂で教えられたことが語られています。この部分ではイエスが権威ある者として教えられたことで」多くの人が驚きを示しています。そしてその人々の驚きはそこに居合わせた悪霊にとりつかれた人からイエスが悪霊を追い出す行為を経てさらに増幅されます(27節)。
 この物語では「権威」と言う言葉が二度も登場します。イエスの教えは他の人の教えと違った権威を持っていたと言うのです。たとえば、教会の説教壇から語る説教者はここで自分が思いついたことをそのまま自由に語っているのではありません。説教者は指定された聖書の言葉に基づき、またその聖書の言葉を教会が伝統的に受け継いできた読み方、つまり教理に基づいてお話をします。つまり、説教者は聖書の権威と教会の権威に基づいてお話をしていると言うことになるのです。私達がこの二つの権威を無視してしまったら、その語る言葉には何ら権威はないと言えるのです。ところが、イエスの場合には自分以外の何らかの権威に基づいて語る必要はなく、イエスが語る言葉自体に権威があったと教えているのです。なぜなら、イエスは神の御子であられるからです。彼の語られる言葉はそのまま神の言葉なのです。その限りでイエスの語る言葉、その教えの正しさを何らかの権威を用いて擁護したり、証明する必要はないのです。むしろ人間はこのイエスの権威に基づくときにだけ正しい教えを宣べ伝えることができます。イエスの示した権威とはそのような意味のものであったと言えるのです。

(2)心を失うことのないイエス

 今日の箇所の物語を含めたマルコによる福音書1章21節から39節までの部分はカファルナウムの村でのイエスの日課が記されています。その日課は、安息日にイエスはまず会堂に入り、そこで教えられます(21節)。次いでその会堂に悪霊にとりつかれた人が登場し、この人にとりついていた悪霊をイエスが追い出されます(23節)。この後イエスは弟子のシモン(ペトロ)とアンデレの兄弟の家に足を運びます。するとちょうどそこではシモンの姑が熱を出して伏せっていました。イエスはそのことを知り、床に伏せっていた彼女を癒されます(30節)。さらにその日の夕方、シモンの家の戸口にイエスの癒しを求める人々が町中から集まります(32節)。そしてその次の朝、イエスは朝まだ暗い内から人里離れたところに行かれて祈りを捧げられています(35節)。
 私はこの説教をはじめに準備したとき、この箇所の説教題をどうしようか迷いました。最初、「忙しいイエス」と言う題をつけたらどうだろうかとも思います。確かに、この箇所のイエスの行動は次から次へと休み暇無く進んでいきます。本当に忙しいそうなのです。ところが、「忙しいイエス」と言う題を付けようとしたときにやはり、この題名ではこの箇所を説明するにはふさわしくないと思いました。なぜなら、日本語の「忙しい」と言う文字は「心(りっしんべん)を亡くす」と言う意味があると聞いたことがあるからです。私達は忙しさの中で、いつの間にか自分自身を見失ってしまうことがあります。忙しさに追われてまるで工場の機械のようになってしまうのです。ところがここでのイエスは決して自分自身を失うことがありません。ですから「忙しいイエス」と言う題名を付けることができないのです。

2.シモンのしゅうとめの癒し
(1)聖書の言葉を真実ならしめる行動

 先日、夜の黙示録の学び会で黙示録19章に登場する「白馬の騎士」について学ぶ機会がありました。この白馬の騎士は世の終わりに神の裁きを実行するために現れるイエス・キリストご自身であると考えられています。ですから白馬の騎士は神に背く者たちを剣で切り刻み、自らもその返り血を浴びて進みます。私達の知っているイエス・キリストの姿とは全く違った印象をこの騎士は示しています。この白馬の騎士としてのイエス・キリストの姿がどうしてこのように厳しいのかと言えば、それは神の真実を貫くためであると言うことを勉強会では学びました。それは神が語られた言葉を空しくすることがなにためです。
 人間の言葉はそうではありません。人間の語る言葉は空しいのです。なぜなら人間は自ら語った言葉を完全に守ることができないからです。しかし、神の言葉はそうではありません。語られた言葉は100パーセント現実とものとなるのです。すべては真実な言葉なのです。そしてイエス・キリストは神の言葉を現実のものとするためにいつも働かれている方であり、白馬の騎士の厳しさは、神の言葉を空しくさせないためのものだと言えるのです。
 今日の箇所では「権威ある教え」と言う言葉が前の箇所から、引き継がれています。イエスの教えには権威があります。ですから私達がそのイエスの教えに完全に信頼してよいのです。どうしてでしょうか。イエスの語られた言葉、教えられた言葉はすべて完全に実現するからです。
 イエスの示された奇跡は私達にそのことを教えています。イエスは私達人間と違って語られた言葉をすべて実現させる力を持っておられるのです。つまり、私達はこのようなイエスの奇跡物語を通しても、私達が信じている聖書の言葉が真実であり、すべてが必ず実現することを確信することができるのです。

(2)悪霊を追い出す

 ところで今日の箇所では熱で苦しんでいたシモンの姑が癒されると言う出来事がまず記されています。また、その後も町中からシモンの家の戸口に病気や悪霊に苦しむ人々が押し寄せます。そしてイエスはこの人々の病気を癒さし、悪霊を追い出されたことが記されているのです。
 「悪霊」と言う言葉を私達が耳にするとき、ホラー映画に出て来そうな得体の知れない恐ろしいものを想像します。聖書に登場する悪霊と映画に登場する悪霊がどう違うのかはよくわかりません。しかし映画の悪霊は多くの場合は人間が勝手に想像をふくらませて作ったものだと言えるでしょう。聖書に登場する悪霊や悪霊の働きには人間の想像とは違い、いつも一つの明確が目的を持っています。それは私達人間を神様から引き離そうとすると言う目的です。
 ユダヤ人たちは人間生活に起こる不幸な出来事のすべては人間が神様から離れてしまうことに原因があると考えました。ですから、病気もまたその一つと考えられたのです。つまり、ここでイエスによって病が癒され、悪霊が追い出されたと言うことは、その人たちと神様との関係が修復されたと言うことを象徴的に意味する行為と考えることができるのです。悪霊は神と私達人間の関係を引き離そうと妨害します。しかし、イエスはその反対に私達を神様に結びつけてくださるために、その関係を回復させるために働かれるのです。
 もちろん、私達は今、ここに登場するような奇跡的な癒しの体験を持つことはないかもしれません。しかし、イエスを信じる私達はここでイエスに癒された者たちと同じように、私達と神様との関係を回復していただくことができるのです。ですからマルコはここで誰か他の人に起こった奇跡を紹介しているのではなく、この福音書を読み、イエスを信じる人々に起こっている驚くべき奇跡を紹介しようとしているのです。そしてこのイエスの奇跡にはさらに豊かな副産物があります。
 イエスに救われた私達もまた、病を得て、そしていつかは死を迎え、この地上での生涯を終えなければなりません。しかし、イエスの奇跡は救われた者の病や死を全く違った意味に変えてくださるのです。かつては悪霊によって私達の病や死は神様との関係を引き裂くものとして利用されました。しかし今や私達の病はそれを通して神様の恵みを知る機会とされ、さらに神様との関係を深めるものとして用いられます。またその死は私達を待つ永遠の命の入り口と変えられ、そのときを境に私達と神様との関係を邪魔するものは一切なくなってしまうのです。イエスを信じる者は皆等しくこの驚くべき奇跡を体験することができるのです。

3.イエスの祈り
(1)安息日終了とともに詰めかける群衆

「夕方になって日が沈むと」(32節)と町中の人がシモンの家の戸口に押し寄せたと語られています。当時のユダヤ人にとって一日は日没とともに始まり、次の日没とともに終わります。ここで夕方になって日が沈んだと言うことは安息日が終わったことを意味しています。安息日には神様を礼拝する以外には当時のユダヤ人は大幅にその行動が制限されていました。だから、その安息日が終わるのを待って人々はイエスの元に押し寄せたのです。
 夕方からそこに集まった人々の病を癒したり、悪霊を追い出したと言うのですから、おそらくその行為は夜遅くまでかかったのではないかと思われます。普通ならその後はくたくたになって次の日はお昼近くまで休みの時間を取ってもよいのではないかと思われるようなスケジュールです。しかし、イエスは朝早くまだ暗い内に人里離れたところに出て行かれています。それは父なる神に祈りを捧げるためでした。イエスの行動を簡潔に紹介するのがこのマルコによる福音書の特徴です。そのような意味でこのような忙しさの中で、それでも早朝から祈りに出かける姿は、この福音書を書いたマルコにとって大変重要なことだったのでしょう。マルコはイエス・キリストを私達が理解するためにどうしてもこの祈るイエスの姿を紹介する必要があると考えたのです。

(2)祈るイエス

 イエスが祈りを捧げていた場所をやがて弟子のシモン・ペトロたちが探し出します(36節)。そしてイエスに「みんなが捜しています」と語りかけています。「みんながあなたのことを期待して待っています。それに答えるならあなたの人気はますます上がりますよ」と言うような言葉ともとれるものです。私達は人から慕われたり、尊敬されることに悪い気持ちは感じないはずです。むしろ、いつもそうあってほしいと考え、行動するのが私達ではないでしょうか。しかし、人の評価を気にして生きることこそ、私達が自分の心を失う危機を招く原因となることも確かなことではないでしょうか。私達は他人の評価が自分から離れていくのを恐れるために、やり出したことをやめることができません。そして、自分が倒れるまでやり続けなければならなくなるのです。
 イエスの祈りは、そのような危機から人を救い出す秘訣を教えています。祈りの意味は神と私達とのしっかりとした関係を確認することにあります。他人の評価がどうであっても、神様は私達を愛し、私達を受け入れてくださっていることを私達は祈りの中で確認することができるのです。そして、さらに祈りは私達の人生の目的をはっきりとさせるのです。なぜなら私達が自分を失う危機を迎える原因の一つは、私達が自分の人生の目的を見失うことにあるからです。
 たとえば、私は人前に立って話すことが苦手ですから、当然、このような場所でお話しようとすれば、いつもめまいがして、呼吸が苦しくなります。そうなると、私はそれでは困るので、何とか心を落ち着かせようと努力します。ところが、多くの場合、私の努力は失敗に終わり、ますます苦しくなって、お話しすることもままならなくなります。しかし、このときに私に起こっている問題はいつの間にか自分の本来の目的を見失ってしまっていることが多いのです。そのままでは私の毎日曜日の朝の目的は私のあがり症との戦いとなり、私は弱い自分と戦うために大切な時間を費やさなければなりません。ところが、私にこの朝与えられている本当の目的はそうではないのです。聖書から与えられて神様のメッセージを取り次ぐことなのです。自分のコンディションがどうであろうが、神の言葉を伝えることが大切なのです。ところが私達の目的は常に変化して、最後には自分が今、何のためにこれをしているかさえ忘れ去られてしまうのです。
 イエスはシモン・ペトロの語りかけにすぐにこう答えています。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」(38節)。イエスは神様から与えられた人生の目的からぶれることがありません。だから、彼はどんなに忙しくても、自分を失うことがありませんでした。マルコはイエスが父なる神への祈りを通して、自分に与えられた使命を最後まで成し遂げることができたことを教えているのです。

【祈祷】
天の父なる神様
 イエスの驚くべき御業によってあなたとの関係が回復され、ここに集められた私達です。このあなたの御業に感謝して生きる私達が、その目的を見失うことなく歩むことができるように。いつもあなたとの関係の中で自分を見つめ直し、自分を見失ってしまう危機から私達を守ってください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
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