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礼拝説教 桜井良一牧師
回復される関係

(2009.01.25)

聖書箇所:マルコによる福音書1章40〜45節

40 [そのとき、] 重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
41イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、
42たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。
43イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、
44言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
45しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。

1.重い皮膚病に苦しむ人
(1)二重の苦しみ

 今日の聖書箇所には「重い皮膚病を患っている人」が登場しています。以前の聖書の訳ではこの人の病気は「らい病」と説明されていました。それがこの新共同訳では「重い皮膚病」と変えられています。その理由はらい病患者に対する差別を助長する表現を避ける狙いがあるようです。また聖書に登場する「らい病」と現在の医学が診断する「らい病」とでは必ずしも同じものではありません。精密検査などない時代ですから、さまざまな病気が「らい病」と言う名前一つにまとめられて、呼ばれていたのです。そのような意味で私達が現在、認識している「らい病」と聖書に登場する「らい病」にはかなりの違いが存在すると考えられています。
 日本においてもかつて「らい病」は人々に病気を感染させる伝染病として恐れられていました。らい病に感染した患者たちは密かに家族や社会から引き離され、隔離された場所で一生を送るように強制されました。ですから彼らの負った苦しみは肉体の病気自身から来る苦しみだけではなく、すべての人間関係から引き離されてしまう深い孤独感を味わう心の苦しみも伴ったのです。
 古代のユダヤ社会ではさらにこの病気に宗教的な意味合いが加えられて解釈されていました。らい病は汚れた病であり、神に呪われた者の印だと考えられたのです。また、その患者と近づくことは堅く禁じられていました。それは病気が伝染すると言うより、宗教的な汚れが移って、自分も汚れると考えられたからです。ですから旧約聖書には彼らに対する厳しい規定が記されていました。

「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚(けが)れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(レビ13章45〜46節)。

 つまり、この病気にかかったものは町や村から離れて暮らさなければならず、一般の人々との接触が固く禁じられていたのです。

(2)イエスに助けを求める

 マルコによる福音書はここまでイエスの癒しを求めてたくさんの人々がイエスの周りに集まったと記してきました。先日もこの礼拝でそのようなお話の一つを学びました。今日の箇所でも同じようにイエスによる癒しの物語が語られています。
 しかし、今まで登場した人々は病を負っていながらも、あるいは悪霊の働きに苦しめられながらも、様々な人間関係を以前、保ち続けることができました。いえ、むしろ彼らは病の故に周りの人々から支援を受けながら暮らしていたのです。ですからイエスの癒しを求めにやって来たときにも、病人をイエスに導く家族や、友人たちの存在が登場しています。ところが、彼らに反して、この「重い皮膚病を患った人」は一人ぼっちです。彼の病を心配して、彼をイエスのところに連れていく家族も友人も誰一人存在していないのです。
 心理学では「病床利得」と言う言葉があります。病人はその抱えている病気を通して家族や知人の関心を買うことができる利点を持っています。だから病気は実際に苦しいのですけれども、その病気があるからこそ他人から愛情を獲得できるのです。健康になったらその愛情が失われてしまいます。だから、「病床利得」を感じている人は健康になることを拒んでしまうと言う奇妙な現象が起こるのです。ところが重い皮膚病を患う人にはそんな利点は何もありません。誰も彼を心配する者はいないのです。誰も彼を助ける者はいないのです。ですから彼は自分の足で、イエスに近づき、自分の口でイエスに癒しを願う必要がありました。しかも、この行為は誰とも接してはならないと厳しく戒めている律法に違反する行為でもあったのです。
 彼には他のことを考える余裕が全くありません。よく、聖書の内容や、神様についていろいろと文句を言っては「だから私は信じられない」と言う人がいます。確かに神様を正しく理解することは大切です。しかし、こう答える人の多くはある意味でかなりの余裕を持っている人だと言うことができます。なぜなら神様を信じなくても自分の人生は何とかなると思うからこそ、真剣になって神様に近づこうとしないからです。ところがここに登場する人には余裕がありません。イエスを頼る以外に希望は全くないのです。そして徹底的に追い詰められた人生を歩む彼は、同時にイエスだけ見つめる信仰へと導かれたのです。

2.イエスの対応
(1)怒る

 この重い皮膚病を患った人はイエスに向かって「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」(40節)と語りかけます。それではこのような願いを表明し、イエスに助けを求める人に対してイエスはどのような反応をされたのでしょうか。「イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると…」(41節)と記されています。イエスは「深く憐れんで」とここで語られています。実は、この言葉は元々「腹わたが揺り動かされる」と言う意味を持った言葉です。それは人の体の内側から突き上げてくるような激しい感情の動きを表現しています。日本語でも「腹が立つ」と言うような言葉があります。しかし、日本語の「腹が立つ」と言う言葉には怒りを表現する以外の意味はありません。ギリシャ語のこの言葉には深い憐れみを表現する意味があるのです。
 ただ興味深いことにこの「深く憐れむ」と言う言葉には聖書の写本上での問題が存在しています。多くの写本ではこの「深く憐れむ」、「腹わたが揺り動かされる」と言う言葉が記されていますが、一部の写本ではこの言葉が「怒る」と言う言葉が置き換えられているのです。そして聖書学者たちはこちらの言葉の方が本来のオリジナルなマルコによる福音書に記された言葉であると考え、むしろ後代の写本家がこの物語の前後のつながりを考えて「深く憐れむ」と言う言葉に置き換えたのだと主張するのです。確かにイエスが重い皮膚病を患っていた人の願いを聞いて、彼を「深く憐れんだ」と書けばこの物語は自然な流れとなります。そして、この後すぐに起こるイエスの奇跡行為を導入する動機ともなり得る言葉にもなるのです。
 この部分を「怒って」と読み替えるならイエスは何を怒っているのかと言う問題が生まれてきます。そこで聖書学者たちはイエスが重い皮膚病を患った人を怒っているのではなく、この人を苦しめ続けてきた病に対して「怒って」いるのだと考えるのです。本来、人間は病気や、孤独感の中で苦しんで生きるために神様によって造られたのではないのです。むしろ神様の喜びを分かち合う存在として創られたのが人間です。しかし、その人間が本来の姿を失い、呪いの中で苦しんでいる姿に対してイエスは「怒り」を深く感じられたのです。そして、その人間を支配する罪と悪の力に対して真っ正面から戦いを挑まれようとしたのです。このような意味で、ここに記されているイエスの奇跡は、そのイエスの戦いを意味しているのです。そしてイエスの「怒り」はこの戦いに立ち向かわれるイエスの感情を表しているのです。

(2)厳しく注意する

 このことと関連して取り上げられるのは重い皮膚病を患っていた人を癒された後の、イエスの不思議な言動です。

「イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい」」(43〜44節)。

 祭司に清くなった体を見せなさいと言う助言は律法の規定に従ったものです。そこで祭司は「確かに病が癒された」と判定を下すなら、彼は長い間、断たれていた家族や社会との関係を回復することができるのです。ただここで問題なのはそのアドバスの前についている「だれにも、何も話さないように気をつけなさい」と言うイエスの言葉です。そして「激しく注意して」と言う表現はむしろこの「だれにも、話さないように」と言葉に結びついていると考えられるのです。
 どうしてイエスはこの人に「何もしゃべるな」と言われたのでしょうか。福音書を読む人はこの部分に強い疑問を抱きます。確かにイエスの行われた目に見える奇跡は人々に大きなアピールを与えます。しかし、その反面、人間は自分の興味からそのイエスの奇跡を理解しようと考え、またその奇跡を行ったイエスを誤解し始めるのです。この誤解がやがて人々がイエスを自分たちの王としてようとしたことにつながっていきます。人々はイエスが人間を支配する罪と悪と戦うためにこの奇跡を行われていることを理解できません。そして神の子であるイエスがなぜ十字架にかけられなければならなかったのかを理解できないのです。ですから、この「何もしゃべるな」と言うイエスの言葉は人々に誤解を与えないようにと考えるイエスの思いからでたものと考えられるのです。
 私達はイエスに対する自分の勝手な期待や解釈を語るべきではありません。むしろ、私達はイエスの行動と言葉に耳と心を傾け、そこに表された神様の福音を理解すべきなのです。そして、その福音を人々に語ることが求められているのです。

3.立場の逆転

 実は日本語訳の聖書ではよく返ってよく分からなくなってしまっていますが、この物語を記すマルコによる福音書のギリシャ語の原文は救い主イエスを正しく理解するためのヒントを示しているのです。この物語に登場する二人の人物を表す言葉は40節冒頭の「重い皮膚病を患っている人」と言う言葉と、41節の「イエスは」というに箇所以外記されていません。あとはすべて「彼」と言う言葉で表現されているのです。この日本語聖書では43節と45節で繰り返し「イエス」と言う言葉が記されています。これはこの物語を読む読者が混乱しないように助けるために翻訳者が補った言葉なのです。原文はこれも「彼」と言う言葉で記されています。つまりギリシャ語では重い皮膚病を患う人も「彼」、それを癒すイエスも「彼」と表現されているのです。そして、これこそがマルコによる福音書の記者が読者がイエスを理解するために用いた表現だと考えられるのです。
 この物語の前の39節ではイエスが町の会堂に入って宣教し、悪霊を追い出したと言う事柄が記されています。一方、この重い皮膚病で苦しむ人は社会との一切の関係を断たれ町の外で一人暮らさなければなりませんでした。ところが、この人とイエスとの出会いが起こり、イエスがこの人に触れた瞬間、明らかに二人の関係が福音書では入れ替えられて表現されているのです。癒された人はイエスの厳しい言いつけに反して「大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた」(45節)と記されています。この「人々に告げ、言い広め始めた」と言う言葉は39節の「宣教した」と言う言葉とギリシャ語原文では同じ言葉が使われているのです。そして、その結果、イエスは「公然と町に入ることができなくなり、町の外の人のいない所に」とどまるしかなかったとマルコは記しているのです。
 つまり今日の物語を通して、町に入り宣教していたイエスが、町の外の人のいないところにとどまることになりました。そして一方、町の外の人のいないところとどまっていた人は、今度は町に入り宣教し始めたと言うことになるのです。つまり、この表現を通して重い皮膚病を患っていた人の癒しは、イエスとその人生が入れ替わることにより生じたと言うことが分かるのです。
 福音記者はここで救い主イエスが私達に代わって、私達が負っていた病を代わりに負って私達を癒されたと言う、預言者イザヤの預言が実現したと表現しているのです。イエス・キリストは私達の身代わりとなることで、私達に新しい命と自由を与えてくださるのです。
 そう考えるともう一方の「宣教する」と言う事柄は、イエスによって救われた者が誰からも強いられることなく行うことができる、イエスの癒しから起こった自然な反応であると言うことができるのです。イエスは私達の代わりに、私達の負っていたすべての呪いを十字架の上で引き受けてくださいました。だからこそ、私達は今、長く断然されていた神様との関係、そして人間との関係を回復することができるのです。
 このように今日の物語は、示されたイエスの奇跡を驚くだけではなく、私達が救い主イエスを正しく理解するために記されているのです。

【祈祷】
 天の父なる神様。十字架の上で私達の罪を担い、その身で私達が負うべきすべて呪いを引き受けてくださった主の御業に心から感謝いたします。あなたによって贖われた人生で、私達は今、神の祝福の中で生きることができるようになりました。その喜びを覚えさせてください。そして私達の贖い主を正し人々に伝えることができるようにしてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
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