1.イエスの元に連れて行く
(1)イエスのいるところに人々は集まる
マルコによる福音書の物語を引き続き学びます。今日の物語はイエスがカファルナウムの町に戻られたところから始まります。以前、イエスはこの町で病気の人や悪霊の働きに悩まされているたくさんの人たちを癒されました(1章21〜34節)。そのイエスが町に戻って来たと言う知らせを聞いて多くの人がイエスのいる家に集まったと言うのです。
イエスがいるところどこにでも多くの人が集まります。ここに私たちの伝道の原理が隠されていると言ってよいでしょう。私たちの教会が、イエスがおられるところであると言うことが人々に知らされるなら、そこに人が集まると言うのです。それではどうしたらこの教会にイエスがおられると言うことが分かるのでしょうか。「イエスがみ言葉を語っておられると」とここには記されています。イエスのみ言葉が語られるときに、目には見えませんが私たちの教会にイエスが昔と同じようにおられると言うことが分かるのです。そこで私たちの教会の重要な使命はこのイエスのみ言葉、つまり聖書の福音を忠実に語り続けるところにあると言えるのです。
(2)中風の人と四人の男
さて、そのイエスのいる家に「四人の男が中風の人を運んで来た」(3節)と続けて語られています。この「中風」とは脳疾患で運動機能が麻痺している人の状態を表わす言葉です。ですから体を動かすことのできない中風の人は自分一人ではイエスのところに行くことができないのです。そこで四人の男がこの人を床ごと担ってイエスのところに連れて行くことになりました。聖書にはこの四人の男と中風の人との関係が詳しく語られていません。私が読んだ説教の一つにはこの四人と中風の人との関係を親子ではなかったかと推測しています。突然倒れて体が不自由になった父親をもう一度、元気な姿に戻したいと考える息子たち、もしかしたらこの人々はそのような間柄ではなかったのではないかと言うのです。
私は数年前に父を亡くしましたが、その父が進行性のがんであることが分かったとき、息子である私は、父のためによい治療法がないかと、病院や医師を捜したり、抗がん剤治療の本を読んだりしたことを思いだします。この四人も今まで必死の思いで病気の父親の治療方法を探していたのかもしれません。そこで彼らはイエスの癒しの御業を伝えるニュースを聞いたのです。彼らはそのイエスの御業に希望を抱きながらこの家にやって来ました。
ところが目指す家に着いてみるとそこはすでに黒山の人盛りで、イエスのおられる家に入ることはとても出来ない状態です。人一人ならともかく、床に寝たままの病人を運び入れる余裕はどこにもありません。そこで彼らは、非常手段として次のような行動を取りました。「イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」(4節)と言うのです。
当時のイスラエルの家の屋根は私たちが住んでいる家の屋根と違い、簡単に取り外しができたようです。おそらく暑いときには屋根の一部を外して外気を入れることもできたのでしょう。しかし、このときは皆真剣になってイエスの話を聞いていました。たぶん誰も自分たちのいる家の屋根が突然ぽっかり空いて、そこから病人が床ごとつり降ろされるなどと言うことは想像もしていなかったはずです。もちろん、この家は四人の男たちと何の関係もない、他人の家であったに違いありません。勝手に他人の家の屋根を壊して病人をつり降ろすなど、現代で家は建造物損壊と不法侵入で訴えられてもよいような行為です。彼らの非常識な行動を非難する人もあったはずです。しかし、イエスはそうではありませんでした。
2.信仰をご覧になられるイエス
ここに「イエスはその人たちの信仰を見て」(4節)と語れています。イエスによる癒し物語が語られるとき、通常は癒しを受ける人自身の「信仰」をイエスがご覧になられると言う表現が示されることがあります。ところがここでは「その人たち」と複数形で表現されているように、病人本人の信仰だけではなく、むしろその人をここまで運び入れた四人の人の信仰がイエスの評価の対象となっているのです。
四人の人が非常識な行動をとってまで、この病人をイエスの前に運び入れたのは、イエスの所に行けばこの人の病気が何とかなると信じていたからです。しかもイエスに会おうとする彼らの前には大きな困難が横たわっていました。このような場合、多くの人は「また後で来てみよう。人がいなくなったらもう一度来て見よう」と思うのでは当然ではないでしょうか。しかし、彼らはそのようなことで決してたじろぐことがなかったのです。そしてそこで自分たちにできることを探し、それを実行したのです。そのすべては彼らのイエスに対する大きな期待がそうさせたと言えるのではないでしょうか。そしてイエスは彼らのその信仰をご覧になられたと言うのです。
私の読んだ説教の一つには、「イエスは私たちの信仰だけをご覧になられる」と言うメッセージが語られていました。昔、預言者サムエルはイスラエルの王に新しく選ばれるべき青年を捜してエッサイと言う人物の家を訪問した話が旧約聖書に記されています。神様はサムエルにエッサイの家に行けと命じられたのです。このエッサイには八人の息子があって、サムエルはその息子たちの容姿の素晴らしさに目を見張りました。イスラエルの新しい王にするには打って付けの人物のように見えたのです。ところが神様はこのときサムエルに「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と言われて、容姿の優れた上の七人の息子たちを退け、まだ小さくて見る影もなかった一番年下の少年ダビデを次もイスラエルの王として選ばせたのです(サムエル上16章)。
このダビデには王になった後も興味深い逸話が残されています。イスラエルの人々が最も大切にしていた「神の箱」がエルサレムの町に運び入れられたとき、ダビデはあまりにもそのことがうれしくて群衆の前で着物を脱いで飛び跳ねて踊ったと言うのです。そこで彼の妻はそのダビデの姿を見て「イスラエルの王としてふさわしくない行動だと」と非難しました。しかし、ダビデは王としての外聞など気にせず、自分の喜びをそこで精一杯表わしたのです。
神様は私たちの信仰だけをご覧になられるのです。どんなに格好の悪い信仰生活であったとしても、神様はその人の信仰をご覧になって喜ばれると言うのです。しかし、そのように言われるときに私たちは新たな不安を抱かざるを得ません。容姿や行動のように外面の形だけなら私たちはなんとか人前で取り繕うことができるでしょう。しかし、肝心の信仰はどうなのでしょうか。その信仰を取り繕うことは私たちには出来なにのです。
3.神が語られる言葉を受け入れる
先週、私は「ローズンゲン物語」と言うともて小さな書物を読みました。ドイツで毎年発行される聖書のみ言葉を記した小さな書物があります。聖書のみ言葉を毎日読むために280年間に渡って作り続けられた書物です。日本でもそれは「日々の聖句」と言う題名で翻訳され、出版され続けています。この書物にまつわる興味深いお話がその本には紹介されていました。私がその中で考えさせられたのは、私たちが日々、神様から与えられるみ言葉をどのような姿勢で読み、受け止めるかと言うことでした。この書物には280年の中で起こった実際の失敗例と、成功例のいくつかが紹介されていたのです。
まず、第一世界大戦時に活躍したドイツの将軍であったエーリヒ・ルーデンドルフと言う人物がその失敗例として取り上げられています。彼は戦後、台頭してきたヒットラーと協力してミュンヘン一揆を起こした人物としても知られています。ルーデンドルフは確かにローズンゲンによって導かれて聖書の言葉を毎日読み続けました。しかし、彼の読み方の特徴は自分の都合のいい聖句には耳を傾けるのですが、そうでないみ言葉には線を引いて無視するようなことをしたのです。ですから、彼にとって聖書の言葉は自分の行動を正当化するためにだけに用いられたと言ってよいでしょう。その上で、このルーデンドルフの聖書の読み方は旧約聖書の言葉を新約聖書の言葉の解釈なしに読み取ったところに特徴があったと言います。ですから、彼にとってドイツ軍の戦いは、そのまま旧約聖書でカナンの土地を征服すべく戦ったイスラエルの戦いに置換えられてしまったのです。
ルーデンドルフとは違って、ローズンゲンに記される聖書の言葉を、自分に今日、神様が語られるみ言葉として真剣に受け止めた人たちがさらにその書物には紹介されています。その中のある者はシベリア抑留と言う生死を彷徨うような過酷な状況の中で「あなたの願いはすべて聞き入れられた」と言う聖書の言葉を聞きました。またヒットラーの支配に反対して投獄され、最後には処刑されてしまったキリスト者は、その牢獄の中で神様よる解放と救いを告げる聖書の言葉を聞いたのです。彼らにとって与えられた聖書のみ言葉は自分の置かれた現実とはあまりにもかけ離れているようなものに聞こえました。しかし、彼らは「だからこの言葉は自分には関係ない言葉だ」と言ってそのみ言葉に線を引いて、無視することはしなかったのです。むしろ彼らは今の自分に与えられた神様の言葉としてそのみ言葉を受け取り、その言葉を信じたのです。そして彼らは逆境の中でも確かにキリストの支えと導きを感じ生きる事が出来たと言うのです。
4.喜びに満たされた私たちの信仰の根拠
(1)イエスの奇跡が示すもの
四人の人はここで語られるイエスの言葉を聞いて、たぶん驚いたに違いありません。彼らは病人の癒しを求めてここまでやって来たのです。だからこそ彼らはイエスから「この病気からあなたを解放してあげよう」と言う言葉が語られるのを聞きたかったはずです。しかし、イエスがこのとき中風の人に語られた言葉は違いました。「子よ、あなたの罪は赦される」(5節)とイエスは語るのです。つまり彼らはここで自分たちの期待とは違った言葉を聞くことになったのです。
更にこの物語ではこのイエスの発言によって律法学者たちとの論争が巻き起こります。律法学者たちは心の中で「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(7節)と呟いたと言うのです。彼らはイエスの語られた「罪が赦される」と言う言葉を、口からのでまかせと受け取ったのです。
しかし、イエスの言葉は決して口からのでまかせではありませんでした。イエスの言葉はいつも実態を持っているのです。そしてそれを知らせるためにイエスは中風の人に「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(11節)と語りかけ、実際にこの人を即座に癒されたのです。ここにはイエスのなされた奇跡の目的が示されています。イエスの奇跡の目的はイエスが語る「あなたの罪は赦された」と言う言葉が口からでまかせではなく、実態を伴う真実の言葉であることを私たちに示す役目があったのです。奇跡を通してイエスの語る言葉はそのまま実現することを知ることができるからです。
(2)私たちの人生そのものに関わられるイエス
イエスに自分が抱えている病気の癒しだけを求めている人はその病気が癒されたならイエスとは何の関係もなくなります。また問題を解決する事を求めてイエスのところにやって来た者は、その問題が無くなればやはりイエスの存在は必要なくなってしまいます。しかし、「罪の赦し」と言う問題は私たちの人生全般に関わる問題です。言葉を換えて言えば、「罪の赦し」を求める者とってはイエスは自分の人生になくてはならない存在となるのです。
昔、ドイツで癒しの賜物を持つと言われる有名な牧師がいました。彼の名声を聞きつけてたくさんの病人が彼の元に集まり、実際にそこで癒される人が多く起こされてと言います。しかし、その牧師は病気を癒された人が喜んで家に帰って行く姿を見ながら、一つの疑問を抱いたと言うのです。「彼らは病気の癒しだけを求めてやって来る。しかし、キリストを求めてやって来ているのではない」。そう考えたその牧師はそれ以後、自分に与えられた癒しの賜物を封印してしまったと言うのです。
私たちは自分の人生の一部にだけキリストの力が必要だと思ってはいないでしょうか。イエスと自分はそれだけの関わりで済むと勘違いしていないでしょうか。しかし、イエスは私たちの人生の全体に関わってくださるためにこの地上に来られたのです。そして十字架の上で、私たちのために御自身の命を捧げられたのです。
主イエスは私たちの思いを遙かに超えて、私たちの命と人生に関わりを持って下さる方なのです。ですから「あなたの罪は赦される」と言う言葉は、「あなたの命を私は自分の命に代えてまで愛している」と言う言葉でもあることを私たちは覚える必要があります。そして、この確かなイエスの愛に触れるとき、私たちもまたダビデのように心からの喜びに満たされることができるのです。そしてその私たちの信仰をイエスはご覧になられて、喜んでくださるのです。
【祈祷】
天の父なる神様
「あなたの罪は赦される」。肉体の癒しを求めてやってきた人たちがあなたの口から思いがけない言葉を聞きました。あなたは私たちのために御子をも惜しまず与えてくださり。私たちの罪を赦し、私たちに命を与えて下さった幸いを感謝いたします。どうか私たちがあなたを信頼して、あなたの恵みをそのまま受け入れることができるようにしてください。困難の中でも、いつもあなたの語るみ言葉に耳を傾けることができるようにしてください。主の御名によって祈ります。アーメン。
このページのトップに戻る
|